随意の発売になっているザッパ作品ではあるが、母の日やハロウィーン、それに近年では「レコード店の日」である場合が多い。
また、前にも書いたように映像作品の発売はユニヴァーサル・ミュージックとはあまり関係がないようで、どの会社から発売されるかは決まっていない。本作はザッパ・ファミリーが全面協力し、また発売許可も出した作品で、全編にわたってザッパの音楽が使用されている。そのほかにもドゥイージルの生演奏や他の楽団によるザッパ曲、またわずかだが筆者には題名がわからない曲も含まれる。すべての曲のクレジットが最後に表示されるが、それが映画のどの場面に出て来るかまでは記されない。ザッパ・ファンはほんのわずかを聴いただけで曲名がわかるが、本作はザッパ・ファン以外の人が見る可能性があり、実際本作を見てザッパの音楽について関心を抱く人は多いと思う。そこで、筆者はザッパ・ファンだけを念頭に置かずに字幕対訳と解説を書いたつもりだが、ザッパ・ファンであってもその程度は大きな差があり、筆者が書いて山はから出版されたザッパの全アルバム集の本でも、難しい内容という意見がある。若者が人生経験が浅く、知識も少ないのは当然で、そういう若者に対しての入門書がどの分野でもいつの時代でも求められるが、ビートルズとは違って商売となりにくいザッパでは、そう何冊も本が書かれる機会はなく、入門者向けの本は無視されやすい。またそういう情報はネットで入手出来る。話を戻すと、本作では音楽が鳴り始めた時に、その題名を画面に表示するようにしたが、その題名はすべて日本語の表記で、また英語をそのまま片仮名に置き換えるのではなく、邦題をつけた。しかも今回初めて採用した題名もある。ザッパの曲名の邦題の統一がなくては混乱するという意見があるが、本作ではあえて原題の意味がザッパ・ファン以外にも理解しやすいようにとの立場、また字幕の字数制限も考えて、なるべく原題の片仮名の置き換えにはしなかった。もちろんそういう題名もあって統一していないが、せっかくの機会でもあり、なるべく違う邦題を使った方がいいと判断した。それは曲名以外に本作で歌われる歌詞の訳についても言えるし、また登場人物の発言や解説の本文でも同じで、ザッパ・ファンのみに伝えるという立場を取らなかった。何年前になるか忘れたが、RCAからアンサンブル・モデルンが演奏するザッパの『グレッガリー・ペッカリー』のアルバムの解説を担当したことがある。現代音楽を専門に論評している人の手には負えなかったのだろう。結果的に筆者が書いた解説はあまり評判がよくなかったと思うが、それはザッパを知らない現代音楽ファンにはわかりにくかったためであろう。では、現代音楽の側からそのアルバムを解説すればよかったかと言うと、それが担当出来る人がいなかったので筆者に依頼が来たはずで、また現代音楽全般の側からザッパの音楽の立場を説明するというのは、言うは簡単だが、現代音楽の世界はあまりにも広大で、その隅から隅まで熟知している人はまずいない。となると、ザッパ作品であるからにはザッパの他の作品と比べてどうなのかを書く以外にほとんど方法はない。ザッパはミニマル・ミュージックを嫌ったが、それはミニマル芸術全般を好まなかったと言ってよいが、ではザッパの音楽は数十年後の歴史時代に入った時、芸術のどういう潮流の中に位置づけられるのかを想像すると、そのことで筆者は昨日興味深いことを知った。
昨日はぶらりと大阪に出てふたつの展覧会を見たが、そのひとつは去年も見たリサ・ラーソン展だ。彼女は1967,8年にアメリカの西海岸にわたり、そこでピーター・ヴォーコスに陶芸を学んだが、ヴォーコスの表現主義的手法は実はラーソンはもっと以前に試していたという。それは、リサはスウェーデン人だが、表現主義と言えば北欧では何と言ってもムンクがいたし、リサより年長ではデンマークのアスガー・ヨルンをリサが知らないはずがない。ザッパは北欧で演奏することを好んだようだが、ピーター・ヴォーコスの陶芸がアメリカ西海岸の表現主義として捉えられるのであれば、同時代に登場したザッパも表現主義的と言ってよい。そういうように考えると、ザッパの激しいギターのメロディは表現主義絵画の激しい線描や色合いではないかと思い至る。リサの表現主義的表現は、ごく一時的かつ断片的で、装飾に過ぎないものと言ってよいが、彼女のユーモラスな造形の背後には、ムンクの「叫び」に連なる精神があると想像すると、また彼女の作品への見方が変わって来る。リサの作品を表現主義とするのは無茶と言う人は圧倒的に多いはずだが、彼女は自分の作品をこう見てほしいとは一切説明しておらず、どのようにでも解釈出来るところが芸術であると考えている。そこで筆者はこうして書く解説めいた思いも、いろんな切り口からザッパを見ることで、ザッパについての意外な発見があるのではないかと期待する。また話は戻るが、字幕の翻訳がザッパ・ファン以外の人が見ても意味がわかるようにすべきなのはあたりまえのこととして、なかなかそれが難しい場合がある。今日の最初の写真はザッパのアルバム『ユートピアから来た男』のジャケットの裏表の一部を1枚にしたものだが、ジャケット裏面に横断幕「3-1 VAFFANCULO」が描かれている。この意味について筆者は『大ザッパ論』に書いたが、当時はネットがなく、確かイタリア大使館かに訊ねて返答をもらった。この横断幕について本作ではそれを描いたイラストレーターが言及するが、それはこの言葉をあたりまえに知っているイタリア人に向けてのもので、またただ「ヴァファンクロ」と言うだけだ。これをそのまま字幕に書けば、映像を見た人はそこで思考をやや停止させながら、次の場面へと意識を集中させる。そこで、解説でその言葉の意味を書けばいいが、そのようなことを徹底すると、1万字にはとうてい収まらない。先日書いたように、筆者の解説を読んで「ああ、ここが足りないな」と思う人は誰しもであろうし、またその方が解説としてはいいと判断した。全員の望みをかなえる解説など不可能な話だ。ともかく、その「ヴァファンクロ」をどうすべきかを考え、思い切った意訳、あるいはつけ足しを行なった。「3-1」が意味することを知っている人は、日本ではほとんどいないだろう。これは82年のサッカー・ワールドカップの試合において西ドイツにイタリアが勝利した時の点数だ。当時のイタリア人であれば、そのイラストの横断幕は説明なしで即座に理解出来るものであったが、今はほとんど知られない。だが、それは本作において解説で書くほどのことかと言えば、筆者はほかに優先すべきことがあると思った。その一方、その言葉を発するイラストレーターが画面に登場するので、最低限はどういうことを意味するかを字幕に盛りたい。わずか一語のことで、普通ならそのまま「ヴァファンクロ」と訳してしまうだろう。だが、それでは翻訳とは言えないし、またそのイタリアの侮蔑語を適当な日本語に置き換えても意味がわからないだろう。
今日の2枚目の写真はザッパに会った際にサイモンさんに撮影してもらったものから、ザッパが手にする写真を中心にトリミングした。そこには生後10日ほどの筆者の息子を抱える筆者、そしてザッパの最新アルバム『ユートピアから来た男』のジャケットが写る。家内がそのジャケットを差し出しながら、カメラのシャッターを切ったような気がするが、それはかなり無理な姿勢なので、別の人に撮ってもらったかもしれない。ともかく、その写真をザッパに見せる思いもあって息子を連れて行った。ザッパはすぐにそのことを理解し、写真に一緒に収まることを了承してくれた。筆者が注目するのは、ザッパがその写真の片隅をそっとつまむ様子だ。それは繊細な行為で、そこに一種の作品に対する愛情が見える。それはともかく、本作の発売をヤマハに薦めたのは、本作に込められる主題が「父と子」というつながりであるからで、それは今日の2枚目の写真にも通じている。父と子は、ザッパとその父、またザッパとドゥイージルにもあって、本作の構成は何重にも入り組んでいる。一方、本作でひとつ気になるのは、アーメットが登場しないことだ。彼と長男ドゥイージルのぎくしゃくした関係は、筆者は関心がなく、どちらの言い分もまともに追っていない。先日書いたように、大相撲の世界でも今は観客あってのことを忘れて協会の理事が権力争いをしている。それは結局のところ、金と名誉を求めるあまりのことで、和も敬もあったものではない。世界にはそういう醜さが蔓延しているからこそ、大相撲では潔さが求められるはずなのに、肝心の親方が目上を敬わず、権力の頂点をほしがっている。アーメットとドゥイージルのいさかいは、突き詰めると経済的なことが原因だが、それはザッパ、あるいはゲイルの思いの果てに起こったことで、弁護士を入れての権利争いをよしとする考えだ。アメリカはそういう社会なので、理解出来なくはないが、家族の内紛を世間にさらすのは醜い。それはともかく、ドゥイージルは本作でなかなかいい味を出している。また彼は確実にシチリアを経験したことで変化があった。今後はそれを強みとして生きて行くだろう。1週間ほど前にドゥイージルの新譜『Live―‘In The Moment 2』をネットで注文したが、決済が完了という画面が出たのに、そのサイトの会員登録をしなかったので、同じCDの画面を表示すると、残り10数分で受付が終了しますという表示が出続ける。もう一度クリックするとCDを二度注文したことになりそうで、そのままにしているが、1か月経ってもCDが送られて来なければ再注文するつもりでいる。また、会員登録してCDを注文していれば、ドゥイージルの現在進行中の企画を視聴出来るサーヴィスがついていたようで、焦らずに会員登録してから注文すればよかった。注文したCDはザッパのギター・アルバムに倣ったもので、いくつかをカヴァー演奏しているようだ。最後に今日の残り2枚の写真を説明しておくと、3枚目は昨日の続きで、82年7月にマッシモ・バッソリとザッパが訪れたパルティニコのバーの2008年10月の様子だが、その玄関脇のポスターが面白いのでトリミングした。ハロウィーンの季節なので、ポスターはそれに合わせてカボシャのお化け提灯だ。これは近くに開店するピザ屋の広告で、バーそのものは改装中だ。またその玄関前に老人が3人ほど、暇そうにたむろしている。4枚目はザッパの父親が住んでいた家で、そこから出て船に乗って地中海を西へと進んでアメリカ東部に着いた。このストリート・ヴューは2008年11月の撮影で、家の玄関斜め右上に写真のような貼紙がある。これが何を意味するのかを調べるのに、かなり手間取った。詳しくは本作の解説を読んでほしい。さて、ざっとこの5日間で本作の解説の補足をしたが、文字数は解説の倍以上になった。それでもまだ書き足りないことはあるが、これはザッパ・ファンなら誰でもそうだろう。「何や、こんなもん、オレならもっといいのが書ける」と思う人はどんどんネットで発表すべし。いずれ誰かの目に留まって原稿の依頼が来るかしれない。