間に入った人物の仕事ぶりによってひとりの人生が大きく変わる。その実例を先日のTVで見た。法廷での通訳だ。日本にはヴェトナム人の留学生が万単位の数でいるそうだが、事情があって犯罪に手を染める者がいる。
その割合はヴェトナム人が最多として、そのことで質の悪い民族とは全く言えない。うまい具合に日本に来させて絞り取るだけ絞り取ろうとする語学校やアパート経営者、職場、金貸し業など、日本人が搾取に加担している場合が目立つ。つまり、ヴェトナム人は騙しやすく、そこにつけ込む連中がいる。ヴェトナム人の犯罪者を法廷で裁く場合、たどたどしい日本語では真実がわかりにくいので、通訳を使うが、誤訳が常にあるという。その割合は忘れたが、訳す文章の1割くらいに上るこ とあると言っていたように思う。あまり馴染みのない国の言葉であればその割合はもっと高くなる。微妙なニュアンスを含む日本語は外国人にはわからないと主張する人が多いと思うが、それはどの国の言葉でも同じで、ヴェトナムでも特有の微妙な言い回しがあるはずだ。モンゴルでも同じで、先頃の大相撲の事件に関して日馬富士を初め他のモンゴル力士か事情聴取することにも限界がある。ともかく、通訳の誤訳によって刑期が長くなるほど、通訳はとても重責だ。いくら語学が堪能でも避けたい仕事と思うが、案外そんなことはなく、自分の才能が金になるとばかりに喜んで引き受けるのかもしれない。こうし日本語で書いている文章ですら、筆者はそれなり言葉を選び、これはまずいかと思う場合は別の言 葉で書き直す。それが英語となれば、ひとつひとつの単語が背景に持っている意味を深く知らず、たちまち筆が鈍るが、文学ではなく、論文を思えばいいかしれない。英語で論文をよく書く人と話をすると、修辞を使わず、同じことを言いたい時は同じ言葉を用いるべしと言ったが、筆者はこのブログではあまりそうはしないようにしている。「会った」と書けば次には「出会った」と書き、また「遭遇した」とか「面会した」など、なるべく違う表現をする。これは外国でも同じだろう。正確に順序よく物事を伝える論文では、なるべく語彙を少なくすることがいいのはわかるし、またすっきりとわかりやすい文章がかえって美しいと思わないでもない。だが、そういう論文は特殊でごく限られた世界でのことだ。 普通は人それぞれに好みの単語を用い、また修辞に凝る人もある。ザッパは自分の歌詞が日本語に訳される時に誤訳がないことを願った。それでイギリスのサイモン・プレンティスさんがザッパと翻訳者の間に入ってチェックすることになった。筆者がビデオアーツから発売されたザッパのCDの解説を担当した時、その文章をサイモンさんに見てもらうことはなかったが、それは歌詞の翻訳とは違ったからでもある。筆者が『大ザッパ論』を書く以前、サイモンさんはザッパの重要な曲の歌詞の対訳をいくつか含めたザッパ本が出版されるべきと思っていた。だがそうなると、歌詞の対訳が難関となる。サイモンさんでも理解出来ない歌詞があって、そういう箇所をサイモンさんはザッパにFAXで質問し、返答を もらったが、それでも充分であったとは言えない。歌詞は詩で、詩は感じるものでもあって、ただひとつの正しい意味がない場合がある。そういう英語の歌詞を日本語に訳せば、本人は誤訳と思っていなくても、他人に誤解を与えない場合もある。そういうサイモンはザッパのアルバムでは2作に解説を書いたが、それらは論文とは正反対の、修辞だらけの難解なものと言ってよい。それがもしザッパの音楽の世界からいささか学んだものとすれば、ザッパの音楽、特に歌詞はどのように訳せばザッパの真意が伝わるのか、筆者はたちまち尻込みしてしまう。それでも人命を左右することはない分、まだ気は楽だ。
昔買った本で気になりながら読まないでいる本はたくさんあるが、先日隣家で本を探していた時に出て来たロジェ・カイヨワの『バベル』を持ち帰り、少しずつ読み始めている。訳者は桑原武夫と塚崎幹夫だが、塚崎が訳したものに桑原が目を通し、誤訳を正したとのことだ。それで共訳とは不平等な感じがするが、桑原が26歳も年長者では仕方がない。また桑原の訳となれば売れたであろう。それはともかく、この本の翻訳は割合こなれているが、時々原文が目に見えるような、つまり日本語ではないような日本語が出て来る。それでも誤訳でないからには我慢せねばならない。それほどに翻訳は厄介だ。筆者がカイヨワの著作で初めて読んだのは、70年代半ばに出た塚崎幹夫訳の『蛸』だ。 その本は同著までのカイヨワの作品の概略がかなりのページを費やして書かれていて、それにしたがって筆者は読み進んで来たが、まだ読み終えていないものが何冊かある。『バベル』はその1冊で、第2次世界大戦の直後に書かれた。日本版の序文をカイヨワは58年に書いているが、その中で面白い文章がある。引用する。「今日では、だれでもこうした世界のすべてに通じた読者になり得る可能性をもっている。彼は歴史上のあらゆる書きものを、いいかえれば、すべての国の、すべての時代の文学の記録をわがものとしている。その上、ほとんど即時に伝達し、これを有機的に再生産する現代の技術のおかげで、どの作家も、その芸術家も、世界の他の部分から孤立したままでいることはできまい。」まるで ネット時代の言葉のようだが、カイヨワはネット時代を驚かなかったであろう。ネット時代になっても情報を進んで得ようと思わない人は相変わらずいるし、また簡単に目当ての情報が得られるとしても、ネットがなかった時代の情報収集がただ時間の無駄ではあったとは言い切れない。それはまた別の話になるので書かないが、本作を見て筆者が真っ先に調べたのは、グーグル・マップのストリート・ヴューだ。字幕対訳と解説執筆に1週間要し、そのうち優に3日はストリート・ヴューを調べることに費やした。調べてわかったことは解説に書いたが、本当は調べる必要はなかったもので、筆者のこだわりに過ぎない。筆者はたまにストリート・ヴューで調べる。本作はその手助けがあるとなお楽しめるところがある。ストリート ・ヴューの画像はネット時代になってからの、だいたい2007年以降のものだ。道路は絶えず作られているので、定期的にその画像は撮影し直されているが、同じ道路であっても家並みが変わり、定期的に撮影し直すと町並みの変化がわかる。そのストリート・ヴューはシチリアの道路網も網羅していることを今回知ったが、残念なことザッパが訪れた82年からは30年以上経っている。いかに田舎のシチリアであっても、30年間そのままであることはあり得ない。そのため、ザッパが訪れた同じ場所であっても、ザッパが見たのと同じ光景とは限らないが、そのままである建物も存在している。本作でマッシモ・バッソリはザッパの子どもたちを連れてシチリア案内をする。マッシモにもしても記憶をたどりながらだが、それはなかなか鮮明のようで、またそれほどに建物や町並みは変化していないのだろう。昨日の最後に載せた地図はパレルモの中心部で、中央上部にザッパが演奏した競技場がある。左下は飛行場で、そこを監督の父が60年代に訪れる8ミリ映像が本作に出て来るが、その後にそれとは反対に飛行場に到着したザッパ・ファミリーの映像がつながれている。82年のザッパもその飛行場を利用したであろう。そこから演奏会場はすぐで、またその競技場の東は、今日の最初の画像からわかるように、曲がりくねった山道のある海沿いの山地だ。それが本作の演奏ステージ上の場面から見える。
本作には監督のザッパの音楽との出会いやパレルモ公演に向かうことなどが描かれる。監督はシチリアのヴィラフラーティという片田舎の生まれで、ザッパの父が生まれたパルティニコとは大きさはあまり変わらないだろう。レコード店のひとつくらいはあったと想像するが、村にそれがなくてもパレルモまでは車で1時間ほどの距離だ。今日の最初の画像は右上にパレルモ、左上にパルティニコ、右下にヴィラフラーティが入るように切り取り、またパレルモまでの道のりを赤と青の線で示した。赤がザッパとマッシモがたどった道のはずだが、途中の町やまたパレルモ市外も訪れたことが本作からわかる。本作には監督の少年時代の8ミ映像が挿入されるが、山並みはそのままとしても、道路は拡張され、新しい施設が出来て、昔にあったものがなくなっている場合は多い。これは世界中どこでもそう で、そのためにグーグルのストリート・ヴューの画像を蓄積すると、町の栄枯盛衰が見えて来る。それはさておき、監督の父は中古自動車販売で家族を支え、監督は裕福に育ったようだ。そのために家族の8ミリ映像もたくさん残っているようだが、その中から本作にどの部分を使おうかと考えて選んだものはなかなか秀逸だ。そのひとつに、筆者はザッパの83年春のアルバム『ユートピアから来た男』のジャケット・イラストとの関係を思う。本作にはそのイラストレーターも登場するが、筆者がこのアルバムを手に取った時、とても気になったのはザッパの背後にある道路標識だ。ローマやパレルモなど4つの都市への進路が示されている。これと同じ標識が存在しないことは明らかだが、イラストレーターが この標識を描き込んだことはザッパが演奏したイタリア各地を表示するのに、イタリアでは馴染みのものが一番いいと考えたからだろう。そして、本作で監督は全く同じデザインの道路標識の8ミリ映像を使う。それは父が60年代後半に自分の村へと通じる道路の分岐点で撮影したもので、その後『ユートピアから来た男』までの10数年は同じデザインの標識がイタリア全土で使われていたことがわかる。筆者は監督が使ったその道路標識が今はどうなっているかをストリート・ヴューで探した。そして同じ場所に立っている標識を見つけた。それが今日の3枚目の画像だが、デザインは変わっている。デザインの国であるイタリアであるからには、時代に即した道路標識の形や色、文字に変化して行くのは当然 だ。それは昨日書いたザッパの音楽の雰囲気の変化と同じで、時代の先端にあるものはそうならざるを得ない。3枚目の画像は、残念ながらこれ以上の拡大は出来ない。というのは、この場所から少しでも移動すると、道路を拡幅している工事中の画像に変化するからだ。それはおそらく高速道路だろう。となれば、道路の分岐点で設置される標識も設置されていない。つまり、本作はザッパが訪れた82年を中心として、60年代半ばのことと現在のことが描かれ、道路標識ひとつ取ってもその変化が明らかだ。今日の4枚目は同じく本作に使われる監督の少年時代の8ミリ映像に出て来る町並みの現在の姿だ。これは3枚目の画像と同じく、本作を見なければ比較のしようがないと、製作者と購入者の間に入った筆者は言っておかねばならない。