どういうジャケットになるのかと思っていたが、日本盤独自というわけには行かず、輸入盤と同じものになる。この輸入盤のジャケットのザッパ写真は初めて見るが、82年夏に撮影されたものだろうか。
それはわからないが、髪型は当時のものだ。そのことは、一昨日載せた同じ年のドイツのデュッセルドルフで「RDNZL」を演奏した時のステージ写真と同じであることからもわかる。この短く切った髪型は2作目のギター・アルバム『ギター』のジャケット写真とも同じだが、ザッパが髪を短くしたのはいつだったろう。80年か81年であったはずだが、バーキング・パンプキンを設立した時かもしれない。その頃から演奏する音はぐんとソリッドになった。77年のハロウィーン・コンサートと比べるとそれがよくわかる。筆者が連日聴いているそのステージでの「マフィン・マン」や「ブラック・ナプキンズ」はまろやかさが濃厚だが、80年代はそれがなくなる。そういうザッパの音楽が、70年代のよりも好きか嫌いかとなると、ファンの間で評価が分かれるだろうが、時代とともにザッパの音楽が変わった。これは懐メロに堕さなかったということだ。あるいはザッパが時代の音楽を作っていったとも言え、80年代は70年代に比べて、より活動を多彩化させた。ところで、イギリスのファンジンの『T‘Mershi Duweeen』のバックナンバーを調べると、筆者が所有する最後のものは62号だ。このファンジンは30数号以降、ツアーした場所と日時、レパートリーの表を数ページにわたって不定期に掲げたが、62号は79年のツアーを掲載している。64号が最終であったので、80年代のツアーについては克明な記録はまだファンの間で公に印刷されたことはないように思う。前にも書いたが、92年の『ザ・イエロー・シャーク』のフランクフルト公演で出会ったボン在住の男性とその後文通するようになり、彼から無償で1号から60号までの95パーセント分を贈ってもらった。それでその後の号が気になって、ロンドンの同誌の発行元に専用ファイルと未所有のバックナンバーを購入出来ないかと手紙で問い合わせるついでに、同誌の表紙のイラストが毎回ファンによって描かれていたので、筆者は自分で作ったザッパ仮面を写真に撮り、さらにそれをジグソーパズルに作ってもらったものを、半ば完成させた状態でゼロックス・コピーしたものを2枚同封した。それはひどい写りで、本当は写真に撮ってそれを送るべきであったが、面倒でもあり、とりあえずコピーでいいかと思った。その2枚をほとんど刊行されなくなっていた同誌の次の号にでも載せてもらえれば嬉しいと手紙に書いたが、筆者の望みどおりに発売されたことを知ったのは何年も経ってからだ。送った2枚のコピーは同時発売された同誌の2冊つまり63,64号に使われた。先ほど検索するとすぐに画像が出て来た。今日は最初にそれを掲げる。この2冊は筆者が送ったコピーをそのまま縮小複写しているので、本来ならその2冊を無料で送ってくれてもいいと思うが、返事はなかった。同誌の運営者のひとりが亡くなったのはその2冊が出た後で、入院していたのかもしれない。相棒の片割れがアンドリュー・グリーナウェイで、彼はネットで情報を発信し続けている。最終号は2000年の発売で、もうネットに頼る方がいい時代になっていた。
ジグソーパズルのザッパ仮面はそれなりにザッパの世界と同誌の運命を表わしている。特に64号はほとんどザッパとは関係ないピースの散らばりにしか見えないが、64号の分散されたピースは63号に欠けているもので、2冊の表紙を合わせればザッパ仮面の全体写真が構成出来る。それはともかく、ザッパ像は新譜の発売のたびにより鮮明になって来ているが、膨大な録音と映像、すなわちザッパを知るジグソーパズルのピースはまだ未公開のままになっているものが多い。これはどのように熱心で詳しいファンにとってもザッパ像は63号のように見えていることでもある。ついでに書いておくと、このザッパ仮面の写真は
先日投稿したが、そこでは目を節分の豆を買った時におまけでついていた小さな仮面で覆った。本当は今日の最初の画像の左側のようになっている。また筆者が作ったザッパ仮面の目は、仮面であるので本当は穴にすべきだが、被ることは不遜であるので、閉じた。そして目玉をギリシア彫刻の彩色されたコレ像を参考にした。今日の2枚目がその写真だ。ザッパとは無関係に思われるかもしれないが、地中海にあるシチリア島がギリシア文明と無関係であるはずがない。それどころか、シチリアの島中にギリシア・アルカイク時代の遺跡がある。ザッパの先祖が生まれたのはそういう地だ。ザッパは『自伝』に書くように、地中海の混血であることを自覚していた。それで音楽が雑然とした捉えどころのないものとなったと言えば、これは間違った見方で、ザッパが演奏するギター・ソロはギリシア旋法や教会旋法を俎上に上げなければならない独特なものだ。それは、たとえば味噌や醤油の味で育った東洋人には模倣出来ない。また模倣してもそれは形だけに過ぎない。そういうことをザッパはインタヴューで発言したことがある。学ぶことで獲得することは多いが、体内に流れている血によるものも大きい。これをごく簡単に「生まれと育ち」と言うことも出来るだろうが、「育ち」は自意識が芽生えた後に自分で考えることなので自己責任と言ってよいが、そう簡単に割り切れることでもない。同じ家に同じ境遇で育った兄弟でも人生は大きく異なることがある。ザッパには弟がいるが、彼はザッパのような有名音楽家にはならなかった。それはともかく、ザッパの音楽を考えるうえで、シチリア移民の子、そして関心事をとことん追求する性質という双方があった。そのため、一歩間違えばアル・カポネ級のマフィアのボスになっていた可能性もあるだろう。あるいは父の影響から化学者になっていたかもしれない。どの道に進もうがそれなりに業績を残したはずで、そのこともまたシチリア人の血ということで幾分かは説明出来るのではないか。ようやく『シチリアのザッパ、82年夏』の話につながるが、このDVDはザッパの音楽性を考察するうえでシチリアがどのように関係しているのかという素朴な疑問を考えさせるきっかけになっている。「生まれと育ち」を言えば、遺伝子的なものというおおげさなことを言わずとも、ザッパの父親がシチリアからの移民であったことを考えればよい。父の父や祖父のことは何も知らなくてもよい。子ども時代のザッパに父がどのように映っていたかが重要だ。だが、となれば、ザッパの息子のドゥイージルはますますシチリアから遠い存在になるという理屈だが、本作ではザッパの子どもたちはザッパ以上にシチリア人としてのアイデンティティを自覚した様子が描かれる。
話を最初に戻すと、82年頃とわかる本作のジャケットのザッパ写真は、本作とは関係がない。つまり、同じ姿と衣服のザッパは出て来ない。それがやや不満だが、この笑顔のザッパはなかなかよい。80年代前半のザッパはどちらかと言えば不服そうな表情を浮かべた写真が多く、それが何に由来するのかと思わないでもないが、前立腺癌の初期症状がもうこの82年頃出ていたのではないか。だとすれば、82年のツアーの最後にシチリアに行ったことは一期一会でしかも運がよかった。また、現地を案内してくれるマッシモ・バッソリという友人を得ていたことも幸運であった。彼がいたおかげで本作は実現したのも同様で、彼はザッパの没後、ザッパのことを忘れずにザッパ・ファミリーと付き合い、また大きな仕事をした。マッシモはローマ在住と思うが、ザッパとの出会いは本作で語られる。マッシモは英語を話すが、イタリア人であるので、微妙なニュアンスは表現出来ないのではないか。本作でマッシモは「72年にザッパに会った(met)」と言うが、これは少々わかりにくい。字幕では字数を可能な限り少なくするために、「会った」と訳したと思うが、「出会った」の方がいい。だが、それでも曖昧だ。マッシモがザッパの姿を実際に見たのが72年かどうかわからないが、「met」は「存在を知った」という意味で、ザッパのレコード初めて買って聴いたということだろう。ビートルズのアルバムに『MEET THE BEATLES』があるが、これはビートルズのコンサートで姿を見るといった意味ではなく、もっと広くビートルズの音楽に触れたという意味だ。マッシモもその意味で使ったと思うが、映像からはその点がよくわからない。それで単に「会った」としたが、マッシモの語りは断片的で、話す言葉そのものだけでは前後の事情や背景がわかりにくいことがある。簡単な会話ほど却って正しく意味を把握するのが難しいとも言える。とんちんかんな誤訳はKさんのチェックによって最終的にほとんどなくなったと思うが、思い切った意訳でも意味が通じにくい箇所はあるはずで、その補足説明の役割をこの投稿に負わせるつもりでいる。話を戻すと、マッシモは72年に「ザッパ(の音楽)に出会った」が、これは筆者と同じだ。それでマッシモの年齢が気になるが、ネットでもそれは出ていない。たぶん60歳くらいではないだろうか。マッシモは73年8月31日にローマでザッパの公演を見たが、これは初めてのザッパのイタリア公演だが、ザッパの資料本によっては表記がなかったり、また間違っていたりする。『T‘Mershi Duweeen』はたぶん最も正確で、曲目も紹介されている。その曲目は会場でファンが録音したテープによるもので、海賊盤になっているかもしれない。前日の30日は同じイタリアのボローニャで演奏したが、この2日はザッパにとってはイタリアで演奏したという自覚は乏しかったであろう。ただただ慌しい移動の連続で、国柄の違いを感じるほどではなかったのではないか。そのため、本格的なイタリア・ツアーは82年7月としてよい。7月の前半を費やしてイタリア各地を回った。またそれ以前にマッシモと親しくなっていたので、イタリアの印象は73年とは違って圧倒的なものであった。