亡き人のことを誰しもたまに思い出すはずだが、年末に届く喪中はがきの量が増える老年に達すると、自分より早く死んだ知り合いや身内が増え、思い出す人も多くなる。
その一方で高齢でもまだ元気でいる人のことを思い浮かべると心が温かくなる。ただし、自分より年配者は自分より早く亡くなる確立が高く、やはり高齢になればなるほど孤独になるのだろう。大相撲協会の理事は65歳で定年ということを昨日TVで知ったが、筆者はもうその部類に入っている。つまり、部外者だ。これは必要とされないという意味でもあるが、幸いかどうか、筆者はサラリーマンを辞めて長年経つので、自分が用済みの意識がない。あるいは逆にとっくの昔に用済みの人間として生きて来た。それはどういうことかと言えば、あまり何事にも期待するなということだ。収入や名誉など、自分とは全く無縁と思って来たところがある。実際そのとおりになって来たが、それでも一昨日は家内相手に筆者はこれまでとても幸福かつ幸運で生きて来て、とても楽しかったと伝えた。家内は本当は「あんただけそう思っているのはずるい」と言いたいのかもしれないが、筆者が気分よく生きていることを喜んでいる。欲を言えば切りがないことをお互い知っているのだ。ほしいものがないと言えば嘘になるが、ほしくてたまらないものはないので、いわば何も怖くない。怖いものはないが、畏怖するものはある。それは単なる怖いとは別のもので尊敬する存在であるのは言うまでもないが、そういう存在を心に多く抱くと、その存在に対して少しでも恥ずかしくない行動をしようという抑止力になる。筆者の場合はそれはほとんど芸術家で、また死んだ人ばかりと言ってよいが、作品に触れることが出来る間は、その人と対話は出来る。そういう存在としてザッパがいる。ザッパ・ファンはみなそうではないだろうか。今日はアレックス・ウィンターからメールが届いた。相変わらずの内容で、今回はYOUTUBEで82年5月22日の「RDNZL」のライヴ演奏からわずかな部分が見られるようにしてあった。実際は15分の演奏で、トーマス・ノーデッグが撮影した。この映像の音はCDになったが映像は初公開だ。ザッパはギター・ソロを終えた後、指揮棒を持ってバンドを指揮する。アレックスはこの映像を大いに気に入っているようだ。また、「RDNZL」という曲名についてはこれまでいろいろとファンの間で詮索され続けているが、あまり深入りせず、謎めいたままで楽しむのがいいと書いている。同感だ。仮に由来がわかっても、曲の持ち味とはほとんど関係がない。その解明された謎に囚われ過ぎると面白くない。ザッパの曲にはそういう謎が多く、それこそがザッパの面白さとアレックスは言うが、芸術作品とはみなそういう面がある。数学ではないのだ。あるいは数学でも永遠に解明されない命題がいくつもある。聴いて楽しければそれでよく、筆者は今日も作やと同じように77年のハロウィーン・コンサートの6つのヴァージョンの「マフィン・マン」をリピートで聴いている。何度も聴くうちに新たに感じることもある。オルガンの音を先日書いたが、ザッパが歌っている時はギターは鳴らず、オルガンの音が背後で明瞭に聴こえる。そしてそれが終わるという直前にエイドリアン・ブリューのギターが始まるが、その最初の音を一昨日ピアニカで拾った。歌詞で繰り返される「マフィン」の「マ」がBで、エイドリアンはそれに3度の音を重ねているようで、これはエイドリアンが参加したどのステージでも同じようだ。そして、その定型となった演奏が実によい。77年ハロウィーン・コンサートはエイドリアンとキーボードの効果がとても大きい。翌年の「マフィン・マン」ではエイドリアンがおらず、その叫び声を模したソロももちろんないが、やはり物足りない。ザッパがエイドリアンにそのように演奏するように指定したのかどうかは知らないが、エイドリアンのアイデアとしてもザッパの歌詞から導いたものだ。夜に叫ぶ男の声を怖がる女の子に対して、彼をもう閉じ込めたと諭す。そう考えると、エイドリアンの叫ぶような音のギター・ソロがやがてザッパのソロにバトンタッチされるのは、理にかなっている。先のアレックスの意見からすれば、そのようにこじつけない方がいいことになるが、いろんな読み取りを許容するところが芸術でもある。アレックスは今回のキックスターターのキャンペーンで、支援者に対してザッパの曲で一番好きなものは何かという問いを送信して来たが、アレックスはどうなのだろう。それはさておき、アレックスが出演した映画を見ようと思いながら、その機会がない。年末までにはどうにかしたい。今日の画像は前述のYOUTUBEから取った。朝見ると視聴者数が200ほどであったのが4倍になっている。それでも少ないか。