心配なことがないと言えば嘘になるかもしれないが、心配しても仕方がないと思う方で、何事もどうにかなると高をくくってこれまで生きて来た。
半年ほど前か1年前か忘れたが、初めて家内がこれまでの筆者の生きて来た道のことを、収入もほとんどないというのに、うまく擦り抜けて生きて来たものだと半ば笑顔、半ば呆れ顔で言った。全く家内の言葉どおりで、好きなことをしてこの年齢までよくぞやって来れたと思う。とはいえ、まだしばらくは生きるはずで、これからどういうことが待っているかわからない。大地震が起こって住む場所をなくすことも充分あり得る。だが、それこそ心配しても仕方がない。それで、筆者は好きなことをして生きているとはいえ、まだやっていないことがあって、それを今後10年の間にどうにかしたいと考えているが、去年右目を多少悪くしてから、視力がさらに落ちた。そのため、一眼レフのカメラで撮影する時、焦点を合わせるのがとても苦労する。ピントが合っているかどうかわかりにくいのだ。去年はまだそれがましであった。視力が落ちたからには、細かい友禅の仕事がしにくい。それでこれからの10年にしたい仕事に対してわずかに心配している。その友禅の仕事をここ数年はしていなかったが、先月仕立て直しを頼まれ、懇意にしている仕立て屋さんに数年ぶりに電話した。77歳の高齢なので健在かどうか心配があったが、元気な声が電話口で響き、とても嬉しかった。それで仕事の合間を見つけて、先日泉涌寺からにほど近いその仕立て屋さんの家を訪れたが、夕方6時頃という時間帯で、どちらの家であったかと、通りに立ってしばらく右往左往した。思い切ってチャイムを押すと、奥から「先生!」の声が上がったので、正解であることがわかったが、数年のうちに記憶が薄れることを実感した。家内が一緒で、また家内は初めて訪れるが、家の中に招き入れられ、しばし談笑した。聞くところによると、筆者が数年前に依頼したキモノを仕立てた後、乳癌が見つかり、手術をするなど落ち込んでいたとのこと。それから2,3年経ってまた心身ともに元気になったそうだが、筆者が知る以前の様子と変わらないことが、先の言葉を繰り返すが、とてもうれしかった。帰り道の坂を下って行きながら、筆者はその仕立て屋さんを誰に紹介してもらったのかが思い出せないと家内に言った。10数年前、あるいは20年になるか、古い付き合いだが、筆者が頼む量は知れている。それで普段はどこかの呉服屋から仕事を頼まれているが、筆者のキモノは縫い目で模様が合う絵羽ものの中でも特に凝っているから、仕立てはとても難しい。縫う人はたくさんいても、そうした一品ものの難しい仕立てをこなせる人は、経験豊富でしかもそういう仕事をもっぱらして来た人でなければ安心して任せられない。そのため、その仕立て屋さんに頼めなくなると、また新たに探す必要があるが、その時はその時と考えている。それに、筆者は今後10年でやりたい仕事はキモノを染めることよりも、屏風を染めることだ。そそれは表具屋に頼む必要があるが、キモノの仕立てとは違って1桁違う費用がかかる。6曲1双となると、最も安価な桟を使っても今では40万円では無理だろう。それに生地代が最低でも10万円、それに材料費や水洗などの外注費が数万、筆者の手間が早くて半年か。そうしたて作った屏風が売れる当てはないから、道楽もはなはだしい。そこで自分で表装をしようかと思わないでもない。裏打ちは多少は経験があるが、掛軸と違って屏風は蝶番を自分で作ることは、初めてでは無理に決まっている。作品を作る時間はあっても、それを表具するための費用が簡単には捻出出来ない。奄美を題材に描いた田中一村は、絹本に描いたままで死に、没後に誰かがそれらを表具した。筆者も染めるだけ染めてそのまま放置すれば、死後に誰かが同じようにしてくれるかと言えば、せいぜいゴミとして処分されるのが落ちだ。血縁にいつでも使える億単位の金を持っているのがいても、芸術には無理解であるだけならまだしも、筆者のことを馬鹿者扱いしているので、こちらも用立ててくれとは口が裂けても言わない。それでもう無駄なことはやめておけと、どこかから声が聞こえそうだが、生きている限りは、自分だけがやれる何かをし続けたいと思っている。
書きたいと思っていたこととは違うことを書いてしまった。その理由を考えると、最寄のバス停からキモノの仕立て屋さん宅に向かう途中、遅れて坂を上って来る家内を振り返ると、その向こうに京都タワーが真っ赤に光っているのが見えた。そういう色合いは初めてで、当夜は何かの記念日であったのかもしれない。帰り際はその京都タワーを家内と見つめながらバス停に向かったが、途中の道は街灯が少なく、かなり暗かった。そしてそれが心地よかった。ここ数年で信号や街灯はみなLEDに代わり、眩しくて仕方がない。そしてその色合いが味気ない。電力が少なくて済むので環境にはいいのだろうが、何事もいいことづくめとは限らない。どんなことでもそうだ。京都のあちこちの寺はライトアップで夜に訪れてもらえるように必死になっているが、夜くらいは真っ暗にすればいいではないか。本当に真っ暗な夜というのがかえって観光客に歓迎される時代がすぐにやって来るような気がする。嵐山ではもう花灯路のために行灯が道路際に設置されているが、紅葉を見に訪れた人をすぐさま今後は夜のライトアップで取り戻そうという考えで、もう10年以上前から続いている。ライトアップされた嵐山や嵯峨の竹林も乙なものと言えるが、鳥たちには迷惑な話だろう。夜も明るいとなればいつ眠ればいいのか。昨日は夕方5時半頃に家内がスーパーに買い物に行こうと言うので、散歩がてらに嵯峨のスーパーに行った。桂川が見える直前、風風の湯の前の林の向こうに、びっくりするほど大きくて明るい満月が見えた。カメラを取りに引き返すのは面倒なのでそのまま渡月橋に向かったが、橋の上では何組もの若いカップルがその満月に気づいてスマホで写真を取っていた。家内は1週間に一度は筆者にスマホを買えばと言うが、買ってもかかって来る人、こちらからける人は誰もいないので、もったいないと返事する。すると家内は、電話だけではなしに、好きな時に写真が撮れると、その便利さを力説する。実際昨日の筆者は3,4回は満月がきれいで、写真を撮りたかったと家内に言った。スマホがあれば撮影出来たのにと家内は思っているが、時には残念なことがあってもいいではないか。また、筆者はカメラを持っていないのではない。渡月橋のちょうど半ばのところで歩む速度を少し落とし、満月を眺めると、その光が桂川の水面に照っていて、そういう光景は3年前か、真夏に愛宕山の千日詣りからの帰りで見た切りだと家内は言った。その時はもう朝の4時に近かったので、満月は渡月橋をわたって嵐山の上にかかっていた。その日の満月よりもまだ明るく、そして大きかったが、帰宅してネットを見ると、スーパームーンと言って、いつもより3割ほど大きくて明るいという。ならばやはり渡月橋の上から撮りたかった。まだうっすらと空は明るく、それがまたよかったが、ふたたび歩き出して渡月橋をわたり切る時に空を見ると、もうかなり暗かった。1分かそこらの間で急速に空の色が変わったのだ。スーパーに向かうまでの真西に進む道ではずっと満月が向こうに見えていたが、その時でもなお筆者はカメラがあればと残念がっていた。往生際が悪いが、それほどに昨日の6時頃の満月はきれいであった。そう感じたのは、スーパーに向かう真っ直ぐな道にはLEDの街灯が等間隔に照っていて、そのギラギラした眩しさとは違って、満月の光はLEDがなかった時代の電球の暖かい色合いで、それがしみじみと心に染みわたった。LEDの青色を発明した人はノーベル賞をもらったが、そういう発明が全く褒められるべきとは言えないのではないか。物事には必ずいい面とわるい面がある。そういう自覚を人間は忘れがちで、自分の発明を誇りたがる。ダイナマイトを発明したノーベルはそのことを知っていたので、それで贖罪の気持ちからノーベル賞を設けたのだろう。
昨日はスーパーから戻って食事を済ました頃に、外に出て満月の写真を撮った。保険だ。ネットの天気予報を見ると、今日は雨とあったからだ。雲ひとつない完璧な満月の夜であるのに、明日雨が降るとは空はわからないなと思っていたが、案の定今日は夕方からどんよりし始めた。そして8時頃にぽつぽつと来たので、3階のベランダの干し柿を部屋の中に入れた。そして昨夜撮った満月の写真をこの投稿のために加工しようかと思いながら1階でネット・サーフィンをしていると、雨の音が聞こえない。外に出ると、道が濡れている。だが、雨は降っていない。まさか満月が出ていないだろうと思って、満月が出ている空が見えるところまで歩くと、予想とは違って策やと同じように雲が皆無の満月が照っていた。慌ててカメラを取りに引き返した。そして昨夜は撮らなかった角度から今日は撮った。その写真は3枚目だ。そこに写っているのは、木製の羽ばたくふくろうとそれを覆う木製の屋根だ。このことは書いていなかったが、少しだけ触れておく。10月の23日の深夜だったか、台風21号が凄まじかった。たいしたことはないと思っていたのが予想が外れた。荒れ狂う風の音で夜中はほとんど眠れなかった。朝になって外に出ると、わが家からすぐのところにある樹齢45年ほどの棕櫚の木が倒れていた。3本あったのが2本倒れてしまったのだ。その後始末を筆者はひとりで10日ほどかかってやり遂げた。業者を呼ぼうという意見があったが、無駄な金は使いたくない。今年1月の松尾大社の亀の市で買ったノコギリ1本で切ったが、長年馴染んだ棕櫚の木を自分の手でしっかりと葬ってやりたかったのだ。棕櫚は葉や樹皮が多く、40リットルのゴミ袋を20枚ほど使った。道行く人は筆者に声をかけた。「大変でしたね」。みな地元の人だが、筆者は名前も顔も知らない。地元の人にとっても長年馴染んだ棕櫚なのだ。幸い1本は残ったが、早速地元の少年補導委員からは、倒れる恐れがあり、そうなれば道行く子どもに被害が及ぶかもしれず、切ってはどうかとの声が上がった。だが、筆者はそのつもりはない。またあまり強く推されると、出来れば筆者が切ってやりたい。高さ6メートルはあるはずで、それを切るのは難しいし、また倒れる時に電線を切る恐れもある。業者に頼むと、クレーンで吊りながら切るとのことで、10万円以上はかかるだろう。棕櫚はめでたい木で、吉祥樹だ。それを切るのは忍びない。また、切るとすれば、その後にまた植えたい。それはともかく、倒れた2本のうち1本は根元が弱っていて、いつ倒れてもおかしくなかった。また高さは2・5メートルほどで、処分は簡単であった。もう1本は6メートルの高さがあったが、地表から2メートル30センチほどのところで折れた。筆者はその折れた箇所をノコギリで台座風に加工した。そこにふくろうの置物を据えるためだ。それを1か月ほど要して入手し、そのふくろうをわずかでも雨がかからないようにと、隣家にあった廃材で屋根を作った。ペンキを三重に塗り重ね、1年は無残な姿にはならないだろう。ふくろうを据えている時、道行く見知らぬ3,4人が次々と声をかけた。「かわいいですね」。今日の3枚目の写真はそのふくろうと屋根を後方から撮った。そうしなければ満月が入らなかった。そうそう、昨夜の満月はきれいではあったが、正式な満月の日は今日だ。そして諦めていた満月が撮影出来た。ザッパの命日の夜が、時雨が降った後に見事に晴れた。これを書きながら、一昨日書いた77年のハロウィーン・コンサートの6つの「マフィン・マン」を連続で大きな音で聴いている。満月の夜に満月を心に描きながらその曲を聴いていると、心に時雨が降って来る。心配なことは何もないが、少しはさびしいか。「老いが恋 忘れんとすれば 時雨かな」蕪村