二度同じことを言うのはまだしも、認知症になれば数分後にはまた同じことを話す。筆者の母親がかなりそうなっているので、自分の25年後の姿を今の母に重ね合わせないでもない。
その一方で、父に似ればもう数年しか寿命がないので、さてどっちに近いかなどと思わないでもない。筆者のような昭和生まれは、平成生まれにすれば時代遅れの考えを持った人間ということになるだろうが、簡単に決めつけられてたまるかという思いがある。それに、これまで何度も書いたように、今の若者もいずれ老人になる。平成生まれの若さを自慢している者は、来年には年号が変わって時代遅れを多少は実感する羽目になる。人間とはそういうものだ。それゆえに1歳でも年上には敬意を払うべしと昔の人は教えた。そういう教育がアメリカに戦争に負けてからはすっかり廃れ、今では若者が平気で年配者をあざ笑う。ネット記事の書き込みがそうだ。そうしたところに意見を書くのは若者が大半だろう。筆者のように60半ばになると、パソコンに縁のない人が多い。ニュースは新聞かTVで知る。筆者はネット記事に書き込みをしたことがないので、その点でも老人を自覚すべきだが、パソコンは毎日利用しているので、その点では少しは若い。ともかく、老人を嘲笑する愚か者はいつかは若者から嘲笑される。絶対にそうなる。それがわからないから愚か者なのだ。何が言いたいかと言えば、古い時代のことをせせら笑うなということだ。さて、昨日も書いたが、12月になるとクリスマスだが、筆者は『忠臣蔵』を思い出す。1か月ほど前か、筆者は『忠臣蔵』を思い出し、そのことを家内に話した。「最近は忠臣蔵を映画やTVで見ないようになったなあ」「そう言えばそうやね」。筆者は時代劇はあまり好まないし、また『忠臣蔵』を真剣に映画やTVで見たことは一度もない。だが、その物語が日本では江戸時代からずっと好まれて来たことはよく知っている。そういう仇討ちは野蛮であるとアメリカからみなされて、戦後はしばらく上演が禁止された。それが復活して60年代は何度か映画化されたと思うが、ここ10年ほどはリメイクされなくなった気がする。時代劇を撮影することが困難になって来たことと、やはり物語が今の若者に歓迎されないからか。つまり、忠義などというものは時代錯誤で、そんなものは日本の発展に害を与えこそすれ、益になるものは何もないと考えられるようになったのであろう。
これは大きく捉えると、儒教的な教えを撤廃することだ。親や師を敬うことも必要ない。年功序列などとんでもない。能力があれば目上でも軽くあしらえればよい。貴乃花親方の理事長会議でのふてぶてしい態度は、平成生まれには時代にかなった格好よさに見えるのだろう。和の思いも敬もあったものではない。日馬富士は、自分の美学に反する態度を貴ノ岩が取ったことを公表し、また相撲協会の理事会では、どういう経緯で事件が起こったかを説明した理事の言葉を貴乃花親方は否定しなかったので、警察の書類を待たずに、事件が起こったおおよそのことはわかった。だが、加害者がどこまでも悪いのであって、日馬富士を擁護する雰囲気は気味が悪いと書く意見が圧倒的で、さきほどはネットでそういう記事も読んだ。単なる傷害事件と割り切った考えだが、筆者はその記事に違和感を覚えた。どこにでもある障害事件と同等に扱うことは出来ないからだ。暴力は確かとしても、そこにはそれが起こった社会でのさまざまな様相があり、事情がある。また双方の感情もある。それゆえ、それが事件になったりならなかったりする。それを勘案せずに、単純に日馬富士が悪党と断じる意見を書く記者は、都知事の「排除」ではないが、物事を簡単に捉え過ぎる。ロボット時代であるからそういう人間が出て来るのもわかるが、暴力は殴って傷を負わせることに限らないと筆者は思っている。言葉の暴力の方がもっと深刻な傷を負わせる場合が多々ある。長生きすればそのことがわかる。先の記事を書いた記者は、まだ若いはずで、また自分の記事の言葉が多くの人の目に触れ、時には誰かを傷つけるということに自覚が足りない。簡単に言えば、文章に味も素っ気もない。そして非寛容なのだ。殴った者は悪い。ただそれだけのことと書く。そう簡単に物事が割り切れるか。殴らせた相手の態度や言葉に暴力がないのか。反抗的な態度もひとつの暴力だ。無言の暴力が日本にはびこっているので、いじめで自殺する子どもが絶えない。殴られた方が却ってさっぱりする場合があることは、男ならわかる。少なくても筆者の世代では。一方、一生消えない言葉の暴力があることも知っている。だが、それは暴力とはみなされない。心は見えないからだ。身体に受けた傷は、簡単に人に晒すことが出来るが、心の傷は誰も知らない。それゆえ、心ある人は、日馬富士と貴ノ岩の無念を想像する。貴ノ岩にしても、先の記者が書いた、加害者が断然悪いという記事を読んでも心は癒されないに違いない。そんなこともわからずに、記者は簡単な問題と片付けようとする。文章が貧困、想像力がない。そういう記者、またTVでいっぱしの意見を堂々を述べていると自惚れるタレントばかりだ。
先のネット記事に、朝日新聞が今回の事件を『忠臣蔵』を持ち出して比喩していることを、アナクロニズムと一蹴している。日本で古くから愛好されて来た物語を時代錯誤書くところに、古き文化の価値を認めない態度が見えるが、その記事を読む若者は『忠臣蔵』をますます時代遅れのどうでもいい物語と思う。その延長に何が起こるかと言えば、日本らしいものをみな二足三文で叩き売りする態度だ。そして超高齢化社会に向かう一方、外国から何の魅力もない国になって行く。今日のTVでは、日馬富士引退問題について大阪の有名なお笑い芸人が日馬富士の肩を持った意見を述べた。それに対する一般人の意見の中に、「昭和の考えだ」と書いたものがあった。つまり、時代遅れな意見を述べるなとの嘲笑だが、昭和生まれの人間の意見が昭和風であるのは当然だ。それは平成生まれに迎合しない、ごくまともな人格の持ち主だ。昨日はTVで『朝パラ』という番組だったか、この大相撲の問題を取り上げていた。名前は知らないが、今50歳くらいの大阪のタレントも、日馬富士側に立った意見であった。他もだいたいそういう雰囲気で、そういう日馬富士擁護を、先のネット記事の記者は気味が悪いと書くが、その番組を見て筆者は、大阪はやはり東京とは違うと思った。貴乃花親方は東京で人気があるらしく、東京の芸能人はだいたい日馬富士の謝りがないとか、白鵬が黒幕で彼こそ引退すべきで、それを暗に思っている貴乃花親方を正義の味方と捉える意見が圧倒的に多い。そこで思うのは、大阪は東京より人情があるということだ。先に書いたお笑い芸人は、相撲の世界は特殊で、暴力もあって強くなって行くのだろうと書いた。一方、暴力は何が何でも駄目で、それを振るえば加害者で、制裁を受けて当然とみる向きが、大阪よりも東京では圧倒している。日馬富士が加害者で、しかるべき制裁を受けるのはあたりまえというのは筆者も全く同感だ。そして酒のせいにせずに横綱を引退した。その記者会見で貴ノ岩に対しての謝罪がなく、また親方も憤慨してみっともなかったと、どの記事も同じことを書いている。筆者の見方は少し違う。伊勢ヶ濱親方は記者の質問に切れたか。全くそうではない。白鵬ではないが、ビデオをしっかり見ろ。若い記者のとんちんかんな質問を年配者として諭しているだけで、その態度は静かであった。「憤慨」の言葉の意味を知って使っているのかと言いたい。言葉の本当の意味を知らずに使うのはまだいいが、悪意を込めて加害者側が「憤慨した」などと書き、事件を簡単な図式にする。伊勢ヶ濱親方の態度のどこが切れていたのか。同じような質問をするなら別の記者に質問の場を譲れと言うのはあたりまえのことだ。日馬富士の貴ノ岩に対する謝罪の言葉もなかったとあげつらうのもおかしい。日馬富士にすれば、暴行事件の後、貴ノ岩がやって来て握手をして和解しているのであるから、今さら衆人の前でどのような謝罪の言葉をしろというのか。事件はふたりの間で起こった。そしてそのふたりは和解しているのであれば、なぜ貴乃花親方が警察に訴える必要があるのか。
親方は弟子を何があっても守ると今日は発言したようだが、発言と行動があまりにもちぐはぐではないか。日馬富士が引退したことを親方はその必要はなかったと語ったようだが、ならば警察に正当な裁きをしてもらうという言葉とどう折り合いがつくのか。貴ノ岩を大事に思っているのであれば、まずは貴ノ岩の意思を最重視すべきだ。それを、姿を誰にも見させず、意見を言わせず、頭の怪我の写真だけ公にして世論を味方につける。筆者が貴乃花親方であれば、どうしたか。大事にしている弟子が横綱から殴られたとなれば、まず激怒する。その後に事情を聞く。そして、弟子に非があれば、「お前が悪いからだ。それを教訓に今後は先輩には偉そうにするな。それをすればわしの名前を汚すことになる」と諭す。よく学校の先生にこつんと殴られると、昔の親は「お前が悪いからだ」と子を叱った。それが今では暴力は絶対に悪いということになった。その一方で子が親に、生徒が先生に、弟子が先輩にする暴力すなわち反抗的態度は大目に見られる。数か月前、トランペッターの日野皓正が、決められていた演奏時間を越えてドラムを叩く子どもを殴った事件があった。何が何でも日野が悪いと主張したお笑い芸人がいたが、概して日野側に立つ意見が多く、また子どもの親も騒ぎを大きくしなかった。アメリカに戻る日野は、その子とは信頼関係があるので、そのようなことは尾を引かないと説明していた。それと同じ思いを日馬富士と貴ノ岩も共有したのではないか。それを警察沙汰にしたのは、一般人に危害が及ぶと思ったからなどと、日馬富士を侮辱した意見を親方は言った。そう思うのであれば、巡業部長の立場でもあり、貴ノ岩を連れて真っ先に伊勢ヶ濱親方と日馬富士に抗議しに行くべきだ。筆者ならそうする。そしてその場で納得が行かないのであれば、日馬富士の頭を同じように傷を負わせるほど殴打する。日馬富士がそうされても文句はあるまい。警察が入るのは問題がこじれてからのことだ。貴ノ岩の思いを無視して、真っ先に警察に届けるとは、相撲界のことを大事に思っているとは全く思えない。先日書いたように、理事長が信用出来ないのであれば、さっさと辞めればよい。あるいは残って改革するのであれば人徳を身につけることだ。貴乃花親方が理事長になって大改革すればいいという意見がネットには溢れるが、そうなれば独裁者の天国だ。物事は話し合いがあって決まり、またそこには和と敬が欠かせない。そんな簡単なこともわからない、あるいは我慢ならない人間は組織から出ればいいではないか。いくらでもそのような生き方はある。反目している様子を相撲ファンはうんざりして見ているだろう。由々しき傷害事件をうちうちで済ませるわけには行かないと貴乃花親方は思っているのだろうが、自分の弟子に多少でも非があっての事件とであることがわかると、どのように育てて来たのかと世間の非難を浴びる。そして、貴ノ岩がどのような顔をして今後土俵に上がれるというのか。親方の勇み足によって先輩の横綱を引退させたという負い目を背負わされた。そういう思いで今は混乱しているだろう。だが、怖い親方には反感出来ない。そのような最悪の状態に追い込んだのは、親方のひとりよがりの正義観だ。まずは4人が合い、それでも怒りが収まらないのであれば、日馬富士の頭に同じ傷を負わせ、それでことを済ます。今回の事件でもうひとつ思い出すのは、ビートたけしの講談社襲撃事件だ。写真週刊誌の記者がたけの彼女を撮影するためにつきまとったことに対する憤怒から弟子を10人ほど引き連れて講談社を訪れ、消火器をぶちまけるなどの騒ぎを起こした。愛人をかばうための行為で、その後たけしは復活したが、今同じような事件が起こればどうなるだろう。まず、妻帯者が20そこそこの愛人を持つとは何事かと攻撃され、しかもやくざ同様の騒ぎをはけしからんと、芸能界から抹殺だろう。当時は心情的にはたけしに拍手を送りたい思いを抱いた人が多かったのではないか。今もそうだと想像する。愛するものが蹂躙されたとなると、まずは真っ先に相手のところに赴いて何らかの仕返しをする。それが男ではないか。貴乃花親方を女々しいと思うのは、そういう勇気がないところだ。自分の弟子が怪我を負わされたのであれば、堂々と相手方にまず乗り込め。
またTVの話をすると、京都で舞妓になる女性のドキュメントを先日見た。最も印象に残っている場面は、舞妓を育てる女将さんが舞妓たちを連れて慰安旅行に行った時のことだ。舞妓たちは洋服姿でもあり、また日常とは違うので、はしゃぎたかったのだろう。そして大きな口を開けてゲラゲラ笑った娘がいた。それを女将さんは見て注意した。「大きな口を開けて笑うものではない。舞妓になることは、まずは人間として立派になることを心がけよ」。この言葉を素直に理解出来ない若者は多いだろう。男の筆者から言わせれば、実にまともでいいことを言う女将さんだ。女が大きな口を開けて笑う姿を見るのは、男としては嫌なものだ。女は下品であってほしくない。そして、大きな口を平気で他人に見せて笑うことを恥として教えられる子もある。筆者の家内は、何かを食べている姿を他人に見られることすら嫌がるが、それは昭和生まれではごく自然のことだ。だが、今の若者にそのことを言ってもきょとんとするか、反抗するか、嘲笑するかもしれない。女が総じて下品になった。それは男がそうなって来たからとも言えるが、その伝で言えば為政者が下品のきわみであるので仕方がない。それはそれとして、自分はわが身を振り返りながら、恥を晒さないようにしたいと自覚する。そういう思いは平成生まれにはないのかもしれない。またそれがあたりまえで、昭和の考えは時代錯誤と否定される。だが、何事も昔があって今がある。そんなあたりまえのことは幼稚園児でも知っていると、また若者は嘲笑するだろうが、知っていても自覚しているとは限らない。日本が今までに経験したことのない超高齢社会になって、今後はひとりの若者が2,3人の老人のために働かねばならなくなるが、そうなれば、今各地の養老施設で起こっている若者による老人殺しは急増するだろう。醜い老人を殺したほうが国のためと本気で考える若者が増えるとして、若者はその原因は若者にはなく、その親や祖父世代にあると主張するだろう。若者がそのような考えになったのは、社会のせいで、それはつまり教育のせい、つまり家庭や地域社会での育ち、つまり、親世代がだらしなかったから、その子ども世代もそうなったという理屈だ。これはある程度は正しいだろう。となると、筆者もその責任を多少は負うべきだが、仮に若者からそのように詰め寄られたとして、筆者は古い人間であるので、古い考えでしか対応出来ない。それは仕方のないことで、またその古いことがすべて悪いとも思っていない。古いことを否定すると、今のこともそうせざるを得ない。今は次の瞬間に古くなるからだ。若者が老いるのは本当に一瞬だ。先ほどまであれだけ若々しかった女性が、気づけばもうすっかり皺が増えたということを筆者はもうたくさん見て来ている。そのように短い人生であるので、楽しく生きる義務が誰にでもある。その楽しみは人によって違うし、種類もたくさんあるが、娯楽はいつの時代にも欠かせない。その娯楽のひとつに大相撲がある。それを内部で収められるはずの醜聞をぶちまけ、被害者も加害者も得をしないとなれば、何の警察沙汰というのか。大改革するという考えはけっこうだが、目上に会えば挨拶くらいはするというのが、大相撲の精神にないのか。土俵が丸いのは和の象徴だろう。それをぶち壊して何が正しい道だ。日馬富士擁護が気味悪いとすれば、筆者から見れば貴乃花親方が正義の権化という見方はもっと気味悪い。一昨日書いたことを認知症気味に繰り返したような気もするが、日本における儒教精神と、そのアジアにおける受容の差を、今後の日本とたとえば中国や韓国などのアジア諸国の未来とどう関係があるのかないのかが筆者には大いに関心がある。そのちょっとした番外のこぼれ話として、今回の大相撲の事件が機能しているように感じる。