Zappaで検索することが日課になっている。アマゾンでの話だ。今日はまたザッパの新譜について少し書くが、今日はアマゾンでは評価の書き込みが2件になっていた。
それに、DVD「シチリアのザッパ、82年夏」の予約が始まった。この作品についてはいずれ書く。クリスマス頃の発売で、本年の締めくくりとしてザッパ・ファンは大いに楽しめる内容だ。アマゾンではこの作品の輸入盤の評価欄に、DVD「ロキシー」の批評がそのまま転載されていて、アマゾンがそのような間違いを犯すことは珍しい。それはともかく、評価数が多いほどたくさん売れていると考えてよく、どうも今回の77年ハロウィーン・ライヴを収録した2種の新譜の日本での売れ行きは、まだ芳しくないようだ。これが解説つきの日本盤が出ればまた少しは違うかと思うが、ユニヴァーサル・ミュージックは日本盤を出すつもりがないか、あるいはザッパ・ファミリーから解説をつけることを禁止されているかもしれない。たぶん後者だろう。同社がザッパのアルバム発売権を獲得した時、担当者は筆者は解説を依頼して来て、アルバム6,7枚の解説を書いたが、結局日本盤の発売をゲイルは認めず、それで解説は没になった。当然ギャラもなしだ。そういう経緯があったので、今後も同社がザッパの新譜の日本盤を発売することはないだろう。それに、もう解説はほとんど不要な時代になっている。一方、DVDは流通経路が違って、同社から発売されるとは限らない。そのため、日本盤が出るが、常に解説がつくとは限らない。解説の有無で売れ行きが変わるのかどうかだが、場合によっては解説があるべきと筆者は思う。さて、筆者はザッパのアルバムの売れ行きに加担するつもりでこれを書いているのではないので、書き込み数の多寡はどうでもいいが、それでも高評価がついていると、いいものを買った気がするのは人情だ。それに書き込みの内容がなかなか印象深いものであればなおよいが、そういう文章にはめったに出会ったためしはない。それは文章が短いからというのではない。ごく短いものでもぐっと来るものがたまにある。さて、今年ももう師走になってしまったが、その何となく慌しい気分に本作は実に似合う。ザッパの全アルバムの中で最もそうだと言ってよい。その理由は多分に、ステージ最後の曲「マフィン・マン」の響きが年末を連想させるからだ。この曲はほかのアルバムでも収録されているが、本作では会場ががらんとしているように聴こえ、それがもう1か月もな今年という一種の終末の思いに同調し、さびしいようななつかしいような、過ぎ行く時、日々をひしひしと感じさせる。最近の筆者はそこからさらに思いを膨らませ、筆者が死んだ時にはこの本作のヴァージョンを鳴らしてほしいとさえ思うようになっている。あるいは、聴きながら眠るように死ねるのであれば最高かとも思う。それはあながち的外れな考えではない。この曲の歌詞は子どもをあやす子守歌の形を取っているし、またたたみかける単純なメロディもそうだ。怖いものは何もないのでぐっすりとお休みと、母親か父親が子どもを寝かしつける。その様子をザッパはステージを見に来てくれた観客の、家に帰って眠りにつくことに重ね合わせている。大音量の興奮のステージを楽しんだ客が、この曲の単純な歌詞を思い出し、また口ずさみ、そして眠りに入るのは素敵なことではないか。前に書いたように、ザッパがこの曲の歌詞に込めた本当の考えはわからないが、観客への感謝であることは間違いがない。それはUSBスティックの6つのヴァージョンを聴くとわかる。ザッパは歌詞を一部変えて観客への感謝を歌っている。3日前に書いたように、筆者は14枚のCD-Rに6つのステージを焼いたが、さきほど別の作業をした。6つの「マフィン・マン」と、その次に最後のステージから「ブラック・ナプキンズ」とそのひとつ前の「サン・バーディノ」を抜き出して焼いた。「マフィン・マン」の聴き比べをするためと、本作ではやはり最高に格好いい曲の「ブラック・ナプキンズ」を楽しみたいからだ。いいところ取りをしたCDは筆者の好みではないが、BGMとして、また時に真剣に没頭するためには、こうして好きな曲を抜き出してCD-Rに焼くのがよい。またそのことがとても簡単に出来るUSBスティックを実感している。この楽しみ方が多様なことは、1万数千円の価格では安い。CD1枚でも2000円や3000円はする。
年末を感じさせる音楽として筆者が最初に出会ったのはビートルズの「恋を抱きしめよう」だ。これは筆者が中2の時に発売された。そのシングル盤を近くの商店街にあったレコード店で買って来て聴いたのが、12月だったように思う。そして、このビートルズの曲は、それまでにない音が入っていた。サビの部分で特に印象的に鳴りわたるオルガンだ。筆者は歌を楽しむ一方でそのオルガンの単純な音に魅せられた。それが12月の雰囲気と共鳴しているように感じたが、当時ほかの音楽に夢中であれば、筆者にとっての12月を感じさせる音楽ないし音はまた別のものになっていた。それはともかく、本作の6つの「マフィン・マン」は、「恋を抱きしめよう」とほとんど同じと言ってよい音色のオルガンが終始鳴り響く。それはドラムやギター、ヴォーカルの奥に引っ込んでいて、意識しなければ聴こえないほどの可憐さだが、そのかすかな音がまた12月らしく感じる。どこか日本の笙に似た響きであるのがまたよいが、6つのヴァージョンでは今聴いている5つ目が最も聴こえやすいと思う。同じ音を筆者は手元のピアニカですぐにでも弾くことが出来るが、1階のステレオを大音量で聴く時にはそれを試してみよう。6つのヴァージョンの差を書きたいところだが、CD-Rに焼いたばかりでまだじっくりとは聴いていない。どのヴァージョンもエイドリアン・ブリューのギター・ソロが先にあって、その後にザッパのソロが少し大きめの音で重なって来る。エイドリアンのソロで最も印象的なのはやはり6つ目のヴァージョンかもしれない。本作の解説で彼は、ザッパは歌いながらギターを弾くことが出来なかったので、ザッパが歌っているときは自分が演奏し、またザッパが演奏している時は自分が歌ったと書いている。そして、ザッパから求められたのはスタント・ギターとしての腕前で、それは彼の脱退後にやがて入って来るスティーヴ・ヴァイが代わりをすることになる。それはともかく、「マフィン・マン」6つのヴァージョンはステージの最後という位置づけなので、演奏が終わると観客のざわめきが静かに消えて行く。それが終わってすぐにまた次のヴァージョンがいきなり始まるので、曲間がいささか白けると言ってよいが、静かに消えて行く場内の音がまた12月に似合うところもある。また、この曲はいくらでも長く演奏出来るが、最後にザッパは伴奏に合わせてメンバーを紹介し、そして混沌としたアドリブの合奏でスパッと閉じる。もっと聴きたいのにと思わせるので、6つのヴァージョンをまとめて焼いたと言ってよいが、この突如夢心地から覚まされるようなザッパの演奏方法は、ザッパの曲の大きな特徴で、大半の曲がそのように録音されている。ザッパがなぜそれを好むのかと、昔サイモン・プレンティスさんと話をしたことがある。サイモンがザッパに質問したかどうか知らないが、ザッパはフェイドアウトで終わることをあまり好まなかったからかとも筆者は思う。だが、ステージでは基本的にはフェイドアウトで曲を演奏することがない。レコードと同じようにそういう演奏をステージでする日本のグループサウンズがあったが、それをTVで見ながら筆者は滑稽と感じた。ザッパは数多くのステージを重ねたので、フェイドアウトはレコードではたまにしても、ステージでは曲をどう終わらせるかに関していろいろと考えたであろう。「マフィン・マン」が最初にアルバムに収録された時、それはライヴ演奏にスタジオ録音を重ねた凝った形式で、しかもフェイドアウトで終わっていた。それは子どもが眠りへと入って行くことを思ってのことで、筆者はその終わり方を気に入っている。今日はさきほど加工した画像と、3日前に載せられなかったものを2枚用意した。2枚目のUSBスティックは、「Oh!」と「ZAPPA」が合わさるように蓋を閉めた。