書きたいことと書くべきことがこのブログの投稿の題名と必ずしも合っているとは限らない。それは特にこの毎月の満月の写真の投稿だ。大潮は新月にもあるが、それはただの真っ暗闇であるから、撮影には及ばない。
と考えると、満月はやはり特別な存在で、その美しさを毎月愛でるのは生きていることの確認のような気がする。それを毎月別の場所で見たいとは思うが、書くことがひとつの仕事になっている筆者にはなかなかその時間も金もない。その書きたいこと、書くべきことは、先日から急に舞い込み、パソコンの前で終日座り込んでいる。気づけば2,3時間はすぐに経っていて、立ち上がると足が蛸のようになよなよしている。ほとんど外出せず、足は萎える一方の気がするが、本来筆者は街中を歩くのが好きで、暇が出来ればまた歩きたいと常に思っているが、その機会は月に2,3回だ。昨夜書いたように1日は神戸に行って来たが、神戸港からまた三宮に戻って阪神に乗って2駅東の岩屋駅に行くよりも、海岸沿いの道を、そのままもう1か所訪れるつもりであった兵庫県立美術館まで歩こうとしたが、どれほどの距離かわからない。道路沿いの2か所ほど地図看板があったが、岩屋までは載っていない。それでKIITOの館内にいた女性に訊ねると、やはり地図が手元にないのでどれくらいかわからないと言う。それよりもその女性は筆者好みの知的な雰囲気で、また楽しい印象が強く、話していて気持ちがよかった。その30分ほど後、同じ場所には別の女性が座っていて、もう二度と会うことはないが、久しぶりに美人を見た。それはともかく、神戸港から三宮までは徒歩で10分では無理だろう。KIITOに向かう途中にある神戸市役所は、昔設計会社に勤務していた頃は、役人と打ち合わせするために何度も訪れたが、阪神大震災で建て変わった。だが、旧館は3階以上が押しつぶされたはずで、その3階から上の部分を撤去し、2階建てのビルとして遺したのではないか。これは調べてみないとわからないが、港側に建った高層ビルには似つかわしくない古い昭和のデザインの建物が元の市役所の場所にある。筆者の記憶違いかもしれないが、その古いビルはそれはそれでよいと思う。土建国家の日本はすぐに建物を壊し過ぎる。
そう言えばKIITOの名前の由来を前述の美女が言ってくれた。昔生糸を輸出する時の検査場であったらしい。内部はとても広く、また古い建物を展示施設などに有効利用していて好ましかった。大阪なら港区に似た建物がいくつかありそうだが、港区は大阪の中心からそれなりに距離があって、めったに人は行かない。その点、10数分で港に着く神戸は便利で、それでKIITOは建物を建て替えずにそのまま別の目的で使うことにしたのだろう。税金の無駄使いの声もあるかもしれないが、新しい建物よりもいい。何でも新しい方がいいという考えは考えものだ。話を戻すと、結局KIITOの館内を見た後、三宮まで出て阪神に乗った。駅は地下になり、電車が地上を出た時が岩屋駅だ。その2駅間はまだ地図を確認していないが、たぶん4キロほどだろう。歩いても1時間といった程度だが、KIITOから三宮に戻り、電車で岩屋に出てそこからまた海沿いの美術館まで歩く距離とおそらくほとんど同じかあまり変わらない。筆者ひとりなら歩いたが、家内が頑固に拒んだ。せっかく1日乗車券があるので使わない手はないし、歩くのはしんどいとの考えだ。だが、筆者は初めての道を歩くのが好きで、KIITOから兵庫県立美術館の間を歩いてみたかった。ただし、殺風景であるのはわかる。それで、今ネットで地図を確認すると、距離はわずか2キロではないか。これなら30分だ。家内は美術館に着いた時、KIITOから30分ほどで着いたので、やっぱり早かったと言ったが、歩いても同じと言ってよい。そして1日乗車券を買っていないのであれば、電車賃を支払わずに済む。それはともかく、たまに歩くと翌日は疲れるかと言うとそうでもない。却って体が軽くなるというか、パソコンの前での座りっ放しは健康によくないことを実感する。それでも仕事なら仕方がない。で、このブログは書かねばならない理由は皆無で、書きたいことだけを書いているが、その意味で自由で投稿した直後は気分がよい。それに今日のように快晴で満月が確実に見られることがわかっていればなおさらだ。雨の多い今年の秋だが、せめて満月の夜だけは満月が見られるほどに晴れてほしい。そうそう、KIITOは国道2号線から少し南にあり、その2号線を越えるために歩道橋をわたる。それは昼間ならいいが、夜は物騒だろう。店も少なく、KIITOの近くは車で行かねば若い女性は危ない。ましてや海沿いの殺風景な道を美術館前まで散策するなど、誰も考えない。だが、筆者はそのような風景の中に浮かぶ満月もまた乙なものではないかと想像している。それで今夜の満月はいつものようにわが家の前で撮った。