見聞記といったところの筆者のブログで、見聞はそれなりにしているが、書く時間が見つけられない。新聞を取らなくなって数年になるが、ニュースはTVかネットで、それでも間に合っているような気がする。
たまに散髪屋などで新聞を見ると、新鮮な感じがするが、ネットやTVでは流れない記事に目が行く。その意味で言えば筆者のブログもその類で、たまに誰かの目に留まって読まれている間は暇つぶしになるのだろう。それはそれの役割がある。SNSという言葉が今はあたりまえのようになって、個人と個人が昔に比べると簡単につながるようになったが、それをするにも暇が必要で、筆者はとても積極的になれない。このブログもコメント欄を設けても嫌な書き込みをされることがあるので、もう筆者はネット上で見知らぬ人とつながることは避けたいと思うようになったが、それはSNSの利点を使っていないことになる。そうそう、最近はメールもほとんどしなくなったが、以前知り合ったある女性はメール・アドレスを教えてくれなかった。その時、筆者は自分が強姦でもするような男に見られているのかと一瞬思ったが、メール・アドレスを教えてもらってもまず筆者からは連絡しない。そんなに魅力のある相手ではないからで、また筆者が簡単に接近出来るような人物と思われたくないという自尊心が働いたからだ。つまり、全くSNS向きではないが、それで孤独かといえば、そんなことは全くない。子どもの頃からそれはあたりまえのように育ったので、新しい知り合いをたくさん作りたいとは全然思わない。そこで思うのはザッパだ。ザッパには友人がいなかったという。それに驚く人があるが、筆者はその考えにこそ驚く。友人がいないことは不幸か。今の日本では友人病が蔓延していて、それで自殺するにも一緒に死にたいなどとSNSを利用する。笑い話ではないか。友人が皆無でもいいではないか。師と仰ぐ存在があれば。そしてそういう存在は自分で見つけるものだが、たいていはつまらないどうでもいい偶像にころりと騙される。それで宗教が流行る。ひとりで生きていても、心に誰かを宿すと、それはひとりぽっちでいることではない。それで、ザッパが孤独で死にそうであったかと言えば、それは当たっていない。友人を必要としないほど仕事に打ち込み、また自分より才能のない連中には関心がなかったのだ。何が出来るか。人の価値はそれで決まるとザッパは思っていた。学歴、家柄、顔つき、身なり、財産、そんなものはどうでもいい。自分で何を身につけて来たか。つまり個性で独創性だ。それが問われるのは芸術の世界ではあたりまえだが、残念ながら日本はアメリカにかなり遅れている。あるいは異質な世界だ。そのためもあって、ザッパの芸術を真に理解する人はこれからも稀であろう。だが、そんなことはザッパは全くかまわなかったし、筆者もそうだ。このブログを読んでザッパのファンになったという人は今後も現われないと思うし、いたとしても筆者はあまり信じないし、第一その人と会って話をすることは絶対にないに違いない。
前置きは以上。DISC3を今聴いている。二度目だ。最後4曲のボーナス・トラックを期待したが、これはどうでもいい内容と言ってよい。ロイ・エストラーダが登場する部分の残りの録音と、そしてキーボードのピーター・ウルフの相棒で、ザッパのツアー映像をこの録音の77年から担当したトーマス・ノルデッグの舞台上での紹介だ。この映像が『BABY SNAKES』にあったのかどうか忘れたが、本作を編集したジョー・トラヴァースがノルデッグに敬意を表する意味で含めたのではないだろうか。ノルデッグに関しては以前少し書いたが、彼が撮った膨大なザッパの映像がようやくいろいろと日の目を見るようになって来て、今後ますます評価が高まるだろう。長年裏方であったのに、ビジュアル資料がザッパの作品において価値を持って来るようになってから名前が出始めた。機器の専門家で、楽器の演奏技術のほどはわからない。一方のピーター・ウルフはザッパのバンドではかなり地味で、もうひとりのトミー・マーズのように歌も担当しなかった。そこがヨーロッパ人らしいと言えるかもしれない。同じことはノルデッグにも言える。DISC3の最大曲は予想どおり「ブラック・ナプキンズ」で、そのヴァージョンは『BABY SNAKES』と同じ、また先日紹介した海賊盤LPとも同じで、これは筆者は長年公式盤で聴きたかったので、ようやくその念願がかなった。この曲は日本公演ヴァージョンをザッパは気に入って最初にLPに収録したが、それに比べると1年8か月の隔たりを実感する。疾走感が絶頂に達し、また華麗さも増して、いかにも10月末の何となく年末が近づいたと思わせる雰囲気に満ちる。映像とともに聴くのもいいが、筆者は音だけの今回のCDがよい。目から入る情報が欠落し、音楽そのものに浸れるからだ。つまり、それほどにザッパの音楽はステージで完璧を期されていた。これを別の面から言えば、ザッパのステージ映像は面白くないということにもなる。音楽は聴くもので、見るものではないとザッパも思っていたのではないか。情報が充分でない方が想像力が働く。アンディ・ウォーホルが、電話だけで話して一生会わない女性がいればいいというようなことを言っていたが、それは会えば幻滅するからというではなく、期待を最大限に膨らませたまま死ぬのもよいとの意味だ。その考えも筆者にはわかる。SNSで簡単に会え、スカイプで簡単に顔を見ながら電話で話すということに慣れて、神秘というものが跡形もなく消え去った。顔写真は1枚だけ伝わればよく、その1枚でさえも一般人では無価値だ。それはともかく、77年のザッパのハロウィーン・コンサートの最大の収穫はこの「ブラック・ナプキンズ」で、そこに「マフィン・マン」も加えてよいが、残念ながら最後が何となく物足りない。
ということで、本作は3枚組CDながら、エキスは78年に発売された海賊盤ですでにファンが知るところとなっていた。その海賊盤の曲を省いた残りはゴミかと言えば、DISC2の「WILD LOVE」、またDISC1の「CONEHEAD」などはかなり聴きもので、やはりギター・ソロかということになる。とはいえ、77年ハロウィーンをたっぷり楽しむにはLP1枚では足りない。ファンならそう思う。ザッパはどうであったかと言えば、さてこれはザッパに訊いてみなことにはわからない。今回の収録曲は「ブラック・ナプキンズ」にしても「マフィン・マン」にしても以前のアルバムで発表済みで、またそうでない曲はまだこなれていないので収録するに当たらず、それでザッパは映像作品『BABY SNAKES』を優先し、音だけの発売には消極的であったのかしれない。一方、ザッパ・ファミリーは同じメンバーの7人バンドによるステージ丸ごと収録アルバムとして、『ハマースミス・オデオン』を7年前に出している。これも3枚組で、また風船その他が付属していたが、そのグッズおまけのアイデアを今回は最大限に踏襲した。今回の新譜から4か月後の演奏なので、レパートリーは9割以上だぶるが、ステージ最初のいわばテーマ音楽が変わる。今回は「FLAKES」の一部のメロディを使っているが、『ハマースミス・オデオン』では「パープル・ラグーン」のぎくしゃくしたメロディで、筆者はこれを大いに好む。同じバンドによるステージ丸ごと集が2種出たことになるが、片やニューヨーク、もう片方はロンドン、それにいちおうクリスマスを挟んでのツアー仕切り直しなので、例外的によしと思えばよい。ただし、今回の新譜によって、あるバンドのステージ丸ごと集が、今後はだぶって発売されることに道を開いたことになり、言葉は悪いが、ますますゴミ的な味わいが増して行くことになりそうな気配だ。このゴミというのは、ザッパが生きていればまずアルバム化しない音源との意味だが、遺族はその辺りのことはつごうのいいように解釈する。その遺族とは今はアーメットが代表しているが、ジョー・トラヴァースとの関係がどうなっていているのか多少は気になる。またジョーはファン代表のような形で編集作業でなかなか理想的な仕事をしていて、ゲイルはいい人材を育てたものだ。ジョーとすれば、今後の生涯をザッパのアルバムや映像作品の発売に捧げようという思いだろう。その点で歴史に名を刻みそうだ。一方、アーメットは一種の影武者のようで、意見はネットで発表するが、ドゥイージルのようには顔をあまり晒さない。それにアーメットとドゥイージルの間は険悪になったままで、その点、ゲイルは生きている間にもう少しどうにか出来なかったのかと思う。ザッパの名前で生きている割に、醜聞を晒して格好悪い。金で揉めることはどの家族にもあろうが、有名人であればもう少しスマートにやってほしい。ドゥイージルは自分の演奏で生きているという自覚があるので、父の遺した録音に関してはほとんど興味がないだろう。そう思えば、兄弟喧嘩をしないで済むはずなのに、関係がこじれるとどこまでもそれは続きがちだ。他人の場合よりも身内はこだわりが続きやすい。さて、3枚ともまだ2回しか聴いていないので、聴き込むとまた思いは多少変わるかもしれないが、まだ聴くべき材料として、USBスティックがある。これについては何回投稿出来るのか予想がつかない。それに筆者のボロ・パソコンでそのUSBとやらがうまく反応し、音楽が聴けるのだろうか。CDに焼いてステレオで聴きたいが、それにはCD-Rを買って来る必要があり、また焼くのに手間取るであろうから、投稿はしばらく遅れるだろう。誰も期待もしていないし、また期待されてもこっちにはわからないので、マイ・ペースでやる。