ケイ(K)は何のことか。吹き出しの中の数字が今回の新譜では「110K」と記されている。このカタログ番号はいい加減なものだ。
100に至るまでもアルバムとして含められないものが混じっていたし、逆に含めてよいと思えるものが番号がなかったりした。今回は「K」のない「110」がひょっとすればUSBスティックつきの仮装箱セットかと思ったりするが、届いたままでまだ開封していないのでわからない。「110」に到達したのは100からこっちペースがかなり速いように感じるが、「200」が出るまで筆者は生きられないかもしれない。今回の新譜は演奏から40周年記念だが、ザッパの最後の録音1992年の40周年記念となると2032年でまだ10数年あって、筆者は80代になっている。だが、アーメットはその頃になっても働き盛りであるはずで、今後20年ほどは手を変え、品を変えて新譜を出し続けるだろう。それはさておき、本作の見開きジャケットを開いた時、切断された左手のマネキン写真が一面にあって、嫌な気分になった。『バーント・ウィーニー・サンドウィッチ』との概念継続であろうと昨日書いたが、悪趣味だ。それを言えばUSBスティックつきの衣裳箱セットは、箱の表が透明でザッパの顔仮面の全体が見える。それもかなり悪趣味だが、縁日で子ども向けに売られるセルロイドの仮面の延長で、お祭りと思えばよい。だが、切断面の血が見える左手は祭りは祭りでも血祭りで、今TVを賑わしている猟奇的な事件を連想させる。ということは、筆者がジャケットを開いて感じた嫌な気分は、予感としては実に正しかったことになる。9人の若者を次々に殺して分解した若い男は、生きる希望を失くしていたというが、一方で自殺志願者が多く、そういう人たちは人生の楽しみ、意義を知らずに育った。ザッパの音楽を聴けとは言うつもりはないし、また広く芸術に関心を持てばと助言する気もないが、芸術や娯楽は生きていることの退屈を紛らわせる効果があって、人間には欠かせないものだ。そしてそういうものを楽しめない人は、筆者はかなり退屈で、近寄りたいとは思わない。一方、ヒトラーは画家を目指して絵もたくさん描いていたから、芸術に関心のある者が残虐なことと無縁とは言えないが、稀に見る猟奇的な事件が起こることは、社会が病んでいることでもあって、政治家のせいとも言える。彼らは悪事を働いても言い逃れが平気で出来て、しかもそれを糾弾する人を理由をつけて逮捕出来るような日本になりつつあって、若者が夢も希望もないと感じるのは全く正しいことかもしれない。だが、自損することはないし、ましてや他損も駄目だ。そうは言っても世界には自爆テロがない日はなく、ザッパが生きていればどう発言するかと思う。渋谷のハロウィーン騒ぎはここ数年TVで毎年話題になるが、そうして仮装している若者は心底楽しんでいるのだろうか。アルバイトではまともに生きて行けず、正社員になれば死ぬほどこきつかわれる。日本の人口が減少しているのはあたりまえのような気がする。
今日はようやくDISC2を聴いた。それですぐにわかったことは昨夜書いた「スクワーム」という海賊盤に入っていたギター・ソロ曲が、今回のDISC2の5曲目「WILD LOVE」の中間部にかなり似ていることで、となれば、『シーク・ヤブーティ』の最後に入った「ヨー・ママ」は「スクワーム」の発展形ということになりそうだが、「ヨー・ママ」はまた別の歌詞があるので、2曲は演奏順序としてのつながりがあっても別の曲だ。今回の「WILD LOVE」は30分に及ぶ大曲で、77年のハロウィーン・コンサートでは最大の曲であった。とはいえ、いくつかのパートに分けることは出来るし、最初のヴォーカル部分と最後のザッパのギター・ソロ以外はメンバーのソロを披露するやや退屈なもので、その意味ではザッパ自身は最初のヴォーカル部分のみを「WILD LOVE」と位置づけていたのだろう。ステージで演奏する新曲は題名がついていないか、またレコードで発表される時に別の題名に変わることがあって、今回の「WILD LOVE」の後半のギター・ソロは独立させ得るものと考えてよい。ともかく、このソロはDISC1の「CONEHEAD」以上に出来がよく、海賊盤で馴染んだように、77年秋のザッパの最大のギター・ソロの収穫であろう。筆者はこの時期のヴォーカル曲は正直な話、聴き飽きていて、興味があるのは何と言ってもザッパのギター・ソロだ。だが、ザッパはアメリカの観客を喜ばせるにはヴォーカル曲は省けないと考えていたので、何百回となく歌った曲を相変わらずどのステージでも披露した。そして、そういうヴァージョンが多くの別のアルバムに収録されたし、また今後もされるはずだが、ギター・ソロと違って変化に乏しいのでなおさら聴く気がしない。それはそうと、今回のブックレットは初めてエイドリアン・ブリューが書いている。今年2月の文章で、その頃には発売が決まっていたことになる。文章は黒地に紫色の文字で印刷され、かなり読みづらい。それもあって筆者は最初と最後を少しだけ斜め読みしたが、さしてたいしたことは書いていないと思う。ぱっと見て目に留まったのは「サーカス」という言葉で、彼は77年のザッパ・バンドのステージをそのように思ったらしい。実は筆者が72年にジョンとヨーコの『サム・タイム・イン・ニューヨーク』でザッパとの共演を初めてラジオで聴いた時、同じことを思った。昨日書いたように、いつの時代も作品はある一定の同じ思いを受け手に抱かせる。またザッパと一緒に演奏したメンバーがザッパのステージをサーカスというからには、それはかなり的を射ているはずだ。筆者が先のジョンとヨーコのアルバムにおける「ACUMBAG」を聴いた時、その半ばでのザッパの観客に向かっての話しぶりは、サーカス会場の司会者を脳裏に浮かべた。そして、一方でスーラの油彩画を思い出した。スーラはサーカスが好きだったのか、似た絵を晩年に何点か描いている。今日掲げるのは「シャユー踊り」という題名だが、その画面左下隅で楽団を指揮する男がザッパを思わせた。「曲馬」と題する別の作品では、サーカスそのままを画題にし、画面下にピエロの上半身、右端に長い鞭を持った「シャユー踊り」と同じ髭を生やした男の全身が描かれている。
そうしたサーカスや楽団につきものの統率者のイメージをザッパに重ねたのだが、 エイドリアンもそうであったのだろう。そして、大きな会場で演奏するザッパのバンドの演奏は、そして特に今回の新譜は、サーカス的な雰囲気に満ちている。サーカスは今でも健在だが、株はロック・ショーに奪われたと言ってよく、スーラが現在生きていれば、ロック・ステージを描いたかもしれない。そして、ザッパを登場させたであろう。そのサーカスっぽい場面は、昨日紹介した海賊盤では濃厚で、筆者はそれが好きであったが、今回の新譜を編集したジョー・トラヴァースはそのことをよくわかっていて、DISC2の後半に海賊盤と同じ観客を舞台に引き上げての鞭打ちショーの様子を収録している。この場面はDVD『BABY SNAKES』に収録されているが、77年ハロウィーン・コンサートのハイライトと言ってよく、ザッパも大いに楽しんでいる。また、ハロウィーンの化粧をした若い女性がザッパに慣れ慣れしく接するが、彼女ジャネット・ザ・プラネットは遅れて来たグルーピーのようなもので、その後はザッパ・バンドのメンバーであったギタリストのデニー・ウォレイと結婚する。今ではかなり有名人で、また歳月を経て顔はかなり変わっているはずだ。エイドリアンがサーカスと感じたことは、仮装が伴うハロウィーンのコンサートではなおさらで、エイドリアンもスカートを履くなどして、ステージを楽しんでいる。本作のジャケット見開き内部にスペシャル・ゲストとしてロイ・エストラーダと「ニューヨークの最も素敵なクレイジーな人々」とあって、観客の騒ぎとそれに応じたザッパの語りが聴きもので、DISC2では観客の声や口笛がかなりよく聞こえるように編集されている。この声援は他のアルバムではないもので、76年の演奏つまり『ザッパ・イン・ニューヨーク』とは大いに違う。ドラムスのテリー・ボジオとベースのパトリック・オハーンは76年も参加していたので新鮮味は乏しいが、逆に言えば今回の演奏を76年と比較する楽しみがある。同じ曲がどのように変化したかがわかるからだが、76年のレパートリーを大いに混ぜながら、かなり先に発表する新曲までを混ぜていて、山で言えば頂点と言ってよい。つまり、これまで上って来た道を見通し、これから下りて行く道も見えている。と書けば、本作以降のザッパは下り坂一方ということになりそうだが、ザッパは新たな山をまた上り始めると思えばよい。それがだいたい82,3年だが、悪く言えば混濁の時期でもある。それで観客が一体となったサーカス的な楽しさの点では本作は頂点で、76年の演奏のように一種の寒々しい響きはない。その寒々しさはそれはそれでまた魅力なのだが、それを踏まえた77年の活力であって、海賊盤でその片鱗を知り、また通販オンリーのLP『BABY SNAKES』ではかなり欲求不満に晒され、その後映像作品はそれなりに楽しんだが、アルバムとしてまとまった作品が40周年記念として今回届けられたことでようやく気分が落ち着く。DISC2をパソコンで聴きながらこれを書いているが、明日はDISC3を聴いてその感想を書く。そう言えばKは「乾燥」かな。40年前の録音では充分乾燥している。その鄙びた味わいがよいか。