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●「BLUES FOR JOE VENUTI」
●「BLUES FOR JOE VENUTI」_d0053294_20324949.gif昨日はモーツァルトの誕生日。生誕250年で、Googleのトップ・ページのロゴマークもこれを記念してモーツアルトの顔の輪郭や楽譜を絡みつけてデザインしていた。



モーツァルトの音楽の偉大さは今さら言うまでもないが、画家の李禹煥がモーツァルトの音楽は完璧過ぎて面白くないといった意味のことを以前何かに書いていた。どんな言い回しか正確には覚えていないが、モーツァルトの音楽に対する率直な意見としては納得出来るもので、筆者も時に同じように思うこともある。だが、これは演奏家や指揮者による問題と言えるような気がする。筆者は20歳頃からモーツァルトを聴き始めて、一応全曲は聴いたつもりだ。交響曲は20代前半にカール・ベールのグラモフォンのLPを毎月1枚ずつ買って聴いたが、正直なところ、あまり色気がないと言おうか、のめり込むほどに愛聴することはなく、やがてその大半のレコードを売り払った。モーツァルトの交響曲で最初に聴いたのはワルター指揮の40番と41番がセットになったものだ。これは借りたのだったが、とにかくこの2曲を充分わかるまで聴き倒してモーツァルト入門をしてやろうと考えた。結果として思ったことは、このあまりに有名な40番を聴いていると、満月がぽっかり浮かんだ静かな夜、どこか外国のバルコニーで物思いに沈みたくなる気がしてくることだった。何となくロミオとジュリエットにあるような光景だが、恋人と一緒にいてロマンがあって楽しいと言うではない。確かに恋人と一緒にいて、いちゃついていてもいいが、心は別の遠い何かを見つめているといった感じで、自然の中における人間の存在そのものがはかないく、それだからこそ時一刻が大切で、そのことをぼんやりと思っていて、何となくそこはかとない悲しい感じがするといった具合だ。だが、そんな連想をワルターの演奏では感じるが、他の指揮者ではあまり感じない。ベームはモーツァルトを最大の作曲家と思っていたので、交響曲を指揮する時は自分の全精力を注いだはずだが、それでもベームの演奏はかっちりし過ぎて、まるでコンピュータが奏でているような気がして来る。李禹煥もそんなことを思ったのでないだろうか。しかし、楽譜に忠実に愛情を持って演奏すればそうなるというのであるから、モーツァルトの音楽そのものの中にそうしたロボットのような完璧さがあると言ってもよいかもしれない。
●「BLUES FOR JOE VENUTI」_d0053294_19144662.jpgモーツァルトを尊敬する演奏家は数多いが、同じオーストリア生まれのピアニストのフリードリヒ・グルダもそのひとりだ。グルダはよくそそっかしい人に混同されて、同じピアニストのグレン・グールドと間違われるが、さてどっちが有名かとなると異論は多いだろう。グールドは一見ロックでもやりそうなきつい目つきをしていて、厳格者、頑固者といった感じが強く、グルダとは全然違う人柄を思わせる。グルダも一筋縄では行かない人物だが、ジャズも同時に演奏したことでよく知られるように、もっと優しい、包容力に富む姿があり、音楽の楽しさをとにかく万人と分かち合いたいという思いを常に持っていた。一般的にはジャズもクラシックもやるような人間は、中途半端な存在として、いくら才能があっても敬して遠ざけられるところがある。特に権威主義が大好きなクラシック・ファンの間ではそうだ。グルダは長期の演奏旅行に出かけた際、必ず地元のジャズ・クラブで飛び入り参加し、クラシック曲の演奏とは違う開放感を味わった。クラシックのピアニストになるには、まさにモーツァルトのように、幼少の頃から徹底した訓練を受け、しかも絶えざる努力、そして好運に恵まれる必要があるが、そうして仮に有名になっても、ジャズを演奏せよと言われると、全く出来ないという人がおそらく大半ではないかと思う。ジャズ特有のスイング感を学んで来なかったので、どうにもならないわけだ。「わたしはクラシック音楽家ですからね。そんなジャズなんて別に弾けなくたってどうでもいいのです」と言うのであろうが、ジャズを取り入れたクラシックは少なくないし、音楽の特定ジャンルを侮蔑するのは、その人の狭量さを示して失笑を買う場合があることを知っておいた方がいい。クラシック音楽こそ最高と言うのは自由だが、変な権威主義を楯に自分を高みに置きつつ他の音楽を見下げる連中は、本当はクラシック音楽の何たるかも少しもわかっていない、ただの嫌われ者に過ぎないことを自覚した方がよい。
 グルダは2度結婚して離婚したはずだが、二番目の奥さんは日本人だった。そして息子がユダヤ人と結婚してくれればいいとも語っていた。そうなればあらゆる血が混ざるからだ。これは半ば冗談かもしれないが、グルダの考えをよく示す言葉としてとても気に入っている。つまり、グルダには音楽的偏見がないのと同様、人種的偏見もなかった。純血主義のヒトラーがいればたちまち頽廃芸術家の烙印を捺したはずだが、大体どの国でも民族の純血を云々する連中は、ヒトラーのように小心の癖に威張り散らしたがる愚か者が多い。だが、グルダはそんなことは言っていないし、政治的な行動とも無縁であったろう。それは諦念からではない。音楽でやれることに邁進し、そこに自分の考えを全部表現しようとしたからだ。それはモーツァルトの場合と同じだ。モーツァルトとハイドンを比べてどっちが偉大かと問う人に対して、比較することもおこがましい、何となればモーツァルトは宮廷に飼われ続けることなく、自由な音楽家として生きたからと答えていた言葉を昔何かで読んだ。とはいえ、芸術家も食べなければならない。今ではそれなりの世間的な肩書も必要であるので、それで芸大美大がたくさん造られ、そこに先生として収まったり、団体を構成して肩書を自ら作ったり、あるいは仲間内でお互いに賞の与え合いをして箔づけするようなことに余念がない芸術家ばかりが目立つ。また、一般人もそんな芸術家を持ち上げたがる。だが、そういう芸術家は昔で言えば宮廷仕えと同じようなもので、本当のフリーとはそんなことではない。モーツァルトを偉大と思って鑑にしたいのであれば、同じような生き方を貫くべきと思うが、そんな人はおそらくひとりもおらず、いても表に出て来ない。簡単に言えば、モーツァルトを讃えて世間で顔を売る人は、自分が得してるだけだ。グルダはどうか。自分の直観にしたがって、自分が演奏したいと思う曲だけ演奏した。後はどうでもよい。こうでなければいけない。
 グルダはジャズとロックは兄弟のようなものと言った。これは正しい。グルダが何度も録音した曲にドアーズの「ライト・マイ・ファイアー」がある。これをジャズにアレンジして即興演奏するのだ。若者に迎合してのドアーズ演奏ではなかった。迎合などグルダはしない。繰り返すが、「自分はこれが好きだ。よかったら聴いてくれ」。それだけに過ぎない。グルダのジャズ・レコードはMPSレーベルからかなり発売されているが、ほとんどCD化されておらず、筆者も20年ほど探し続けているものがある。また、一体どれほどそうしたジャズ・レコードがあるのかもわからず、グルダの全貌は今なお見えていない。筆者はグルダのある曲をここ1年以上毎日<必ず>聴いているが、それでもグルダの演奏に関してはあまり知識がない。全集という形での発売を待ち望んでいるが、レコード会社が多岐にわたっているのでなかなかそれも難しいだろう。ここに採り上げるのは1979年に出たLP『メッセージ・フロム・グルダ』からの1曲だ。この曲、いやこのアルバムは、このアルバムの解説を書いている黒田恭一自身の説明によるNHK-FM放送で初めて知り、テープに録音もしなかったが、面白く感じてすぐにLPを買った。2枚組3セット、計6枚のLPだが、まだCD化されていない。端的にグルダの仕事を知るには最適のアルバムと思うが、それはグルダの好みの曲と自作曲が半々に入っていて、しかもピアノとクラヴィコードの両方を熱く演奏し、圧倒的な臨場感と相まってロック音楽のように熱中させる仕上がりになっているからだ。録音は1978年10月、ウィーンのムジークフェラインの大ホールで、主に若い人を相手に3晩にわたって演奏された。本当に粒揃いの曲が入っていて、どの演奏も素晴らしいが、ここではモーツァルトとの関連から、セット2の冒頭に収録される「ジョー・ヴェヌーティのブルース」を取り上げる。
 ジョー・ヴェヌーティは世界初のジャズ・ヴァイオリニスと知られる。イタリアで1898年に生まれ、幼少の頃に両親と一緒にアメリカ移住し、15の時に地元フィラデルフィアのカフェでトリオの一員として演奏した。その後オーケストラで演奏をしていた時期もあるが、1920年前後からは本格的にジャズ・ヴァイオリニストとして各地で演奏し始めた。筆者は昔CDとLPを1枚ずつ買って所有するだけで、詳しくは知らないが、確かグルダがこのコンサートを開いた直前に亡くなったはずで、そのことに弔意を示すためにこの曲を書いて早速演奏した。演奏の前にグルダの語りがある。ドイツ語が記載されていないので、LPジャケットに掲載されているものをそのまま引用する。「悲しみや、それに似た感情といったものは、言葉では表現できないといってよいように思います。音楽は、そうしたものをよりうまく表現できます。音楽は、決して地域や時に制限されませんし、私はそこに、全世界的に、そして時代をこえて確かなつながりが存在すると信じます…」。とても含蓄のある表現だ。グルダの本質の全部があると言ってもよい。グルダのブルース曲はほかにもあるが、筆者が聴いた範囲ではこの曲は群を抜いている。1年に1、2回のとっておきの日だけ針を落として聴くことにしているが、その時は気分を整え、1音も聞き漏らすまいとじっとしている。6分ほどの長さで、ピアノとクラヴィコードで演奏している。このクラヴィコードが、他のアルバムでは絶対に収録されていないような特異な音で、ほとんど軋み切るぎりぎりまでに奏でられ、しかもギターそっくりの音色をしているのが面白い。このアルバムの聴きどころはこのクラヴィコードの音色にあると言ってもよいほどだ。そしてこの曲は悲しみの色合いをずっと帯びながら続くが、アメリカの黒人が演奏するブルースと比べてどうのこうのという人があれば、その人はグルダを聴かない方がよい。グルダの言いたいことはそんなことではない。前述のグルダの言葉をもう一度よくかみしめることだ。
 絶品の演奏が静かに終わるや否や、今度はそのまま静かにピアノだけの演奏に切り変わる。これがまた見事だ。その瞬間を聴きたいこともあってわくわくしながらいつもこのレコードのことを思い出す。続けて演奏される曲はモーツァルトだ。「幻想曲ニ短調」。この名曲を、こうしてブルースの後に続けて演奏することをよくぞグルダは思いついたと思う。あまりに自然に曲の雰囲気がつながっていることに、誰しも新鮮な驚きをするはずだ。そしてジャズを愛し、モーツァルトを深く愛していたグルダしか可能でない演奏と言ってよい。モーツァルトがもしブルースを知っていたならば、絶対にブルース曲を書いたはずだが、そんな確信がグルダにこうした一連の演奏をさせているのは間違いがない。そしてモーツァルトがブルースに関心を抱けば当然ジャズやリズム・アンド・ブルースにも食指を伸ばし、名曲をどんどん書いたであろう。それを想像しながらグルダは、昔も今も、洋の東西を問わず、人間の感情は同じで、音楽はそれを表現し得ると考える。したがって、モーツァルトとブルースがつなげて演奏されるのは何ら不思議なことではなく、むしろそうでない方がおかしいとさえ感じさせる。本当の音楽好きは、人間に普遍的に宿る悲しみの感情を解する人だと思うが、モーツァルトもそうであったし、ブルースを歌った名もない黒人も同じであった。交響曲第40番を思い出す時、そこにモーツァルトの悲しみに似た思いを感ずることは誰しもだろうが、それは最初に書いたように、自己の辛い体験を思う悲しみではなく、自然の中における人間の存在そのものをはかなく思うような、遠い何かを見つめている感情だ。それと同じものがこの曲と続けて演奏される「幻想曲ニ短調」にある。すべてのモーツァルト好き、ブルース好き、音楽好きに聴いてほしい。
by uuuzen | 2006-01-28 19:15 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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