D面と呼んでもいいが、今回は第4面が正しいか。だが、表示は「3」までで、第4面に相当する側にはザッパの顔が擦りガラスのような印影で刻印されている。
予告では「エッチング」と表示されていたが、これは第3面の盤をプレスする時に同時に刻印したものであろう。だが、そうであればその刻印面が盤にうまく収まっているはずだが、筆者のものはかなり偏っていて、盤の端に絵柄がぎりぎり刻印されている箇所の180度反対側は1センチ近く空白がある。つまり、第3面の溝をプレスする時に同時に刻印したものではなく、別の方法で絵柄を刻印したもののようだ。「エッチング」は腐食銅版画に使う言葉だが、先に書いたように、擦りガラスに似ているので、それを作るサンドブラストの手法で彫り込んだものではないだろうか。全くの無地では味気ないので、何かボーナスになるものをとの考えで、それならジャケットに使用したザッパの顔写真をということになったのだろう。無難な選択だ。この顔写真は見開きジャケット内部の右側に使用されていて、そのザッパの向かって左側の瞳を中心とした同心円の細い間隔の輪が広がっている。ザッパがこのアルバムのジャケット・デザインをしたが、クリスマス・カードを製作する会社に一時勤務してレタリングや花柄を描いていたザッパであるので、印刷について知識があったのだろう。見開き内部右側の写真の瞳を中心とする同心円はなかなか凝っていて、これはCDではわかりにくい。LPジャケットはザッパにとってちょうどよい手の技術を発揮出来る面積で、本作のジャケットはいろいろと実験的なことが行なわれている。その最大の特徴はコラージュだが、そのことは収録曲にも表われている。音のコラージュが初期ザッパの大きな特徴で、それは本作でもあますところなく実行されている。特に最後の「ブラウン・シューズは止しなよ」は、背後に弦楽器や電子音楽が響きわたるが、ザッパの才能を知らない人はそれはビートルズにおけるジョージ・マーティンのような人が用意したものと思うだろう。だが、すべてはザッパが作曲し、指揮し、録音し、コラージュした。そのことだけでもいかに当時、いや今でも異様な才能かがわかる。あまりに凝り過ぎて凄さを見過ごすと言えばよい。もっと言えば、弦楽器の音や電子音楽の要素を背景に使うことは、伝統や普遍性を無視していないということだ。その意味でザッパは過激ではあっても古典主義者と言える。古典を咀嚼しているのでいくらでも過激になれると言ってよい。つまり、引き出しがとても多い。そういう立場でロックをやったので、それが普通のうるさいだけのものとはかなり違うのは当然で、頭の悪い人にはわかるはずがない。だが、とにかくレコードを売らねば次の活動が出来ない立場にあったので、頭のいいひとだけを相手にしては食いはぐれる。そこで、頭の悪い人にも喜ばれるような過激さを盛る。そのため、ザッパがステージでうんこを食べたというような話が飛び出したが、そのことによってザッパが儲けた部分は小さくないだろう。
本当は伝統の延長上にある前衛をザッパは具現化したかったが、いきなり弦楽四重奏曲を書いても誰も注目しない。そういう作曲の才能を一方で磨きながら、一方ではレコードを売るにはどうするかを考える。名前が売れるといずれ好きなことも出来る。それがアメリカだ。それは醜悪な姿だが、ヨーロッパに比べて伝統の短いアメリカでは致し方がない。そういう現実を見つめながら、その醜悪なアメリカを音楽で描いたのが本作だ。あまりに過激とのレコード会社の判断で、ザッパが当初全曲の歌詞をジャケットに印刷するつもりが、それが拒否された。そのため、最低1ドルを送ってくれると、歌詞のパンフレットを送るという仕組みを見開きジャケット内部に謳った。せめてものレコード会社に対する反抗だ。何しろアルバムの題名が「全き自由」であるからには、ザッパは思ったとおりの好きなことをやりたかった。だが、第2作目の本作で早くもレコード会社の反対に遭い、妥協策として通販で歌詞を売ることにし、このことがずっと後年の「バーキング・パンプキン・レコード」という通販を兼ねた会社の設立につながる。ザッパのやったことは最初期から筋が通っていたことが本作からわかる。さて、歌詞がどれほど過激であるかだが、ザッパはなかなかうまい具合に構成している。たとえば「アンクル・バーニーの農場」は、最初に「俺は夢を見ている」との言葉をレイ・コリンズが発する。その後はザッパの歌となるが、その歌詞はつまりは「夢想」ということで逃げられる。どんな過激な内容であっても、「夢ですやん」というわけだ。だが、本音がそうでないのはあたりまえのことで、ザッパは子どもが使う玩具を例に、醜悪な場面を描き出して行く。だが、それは実際は人間世界の隠喩であって、新聞の三面記事に毎日載るような話だ。アメリカにおける文化とは縁のない連中の生態の醜さだが、一方でザッパは大統領でさえもどんな人間かを描く。しかも幼児性愛者として皮肉るのであるから、レコード会社が「これはあんまりだ」と印刷を躊躇するのは無理もない。当時は誰もそんなことをほのめかす歌詞を書くロック・ミュージシャンはいなかった。その後もいなかったであろう。そして今ではもっと自粛ムードが蔓延し、芸能人が政治的なことをツイッターで書くことさえ、白い目で見られる。そういう日本ではザッパは理解されにくい。それどころか反感を買うだろう。あるいはそういう辛辣な部分を抜いたザッパ像が定着する。どうせ日本のロックとはそのようなもので、うまくまとまっている今の日本にいったい何の文句があるのかというのが、大多数の人の思いだろう。それが醜悪かそうでないかザッパに訊いてみたいものだ。話を戻すと、大衆の醜悪さを歌詞にしたザッパは簡単に言えば知識人に属していた。だが、レコードを買う大多数の人はそうではない。そしてそのレコードの売り上げによって億万長者になったザッパは、インタヴューでも答えたことがあるが、間違った方法でそうなった。そして、そのように世の中は間違っているのが事実で、今後も間違ったまま進むのが真理だが、そういう状態をザッパは醜悪と見た。そしてそのことが本作に込められたテーマでもある。大多数の人はザッパの真意を理解しなかったであろうが、その意味でザッパは生涯孤独であったが、それは現代の知識人の宿命だ。筆者はザッパ・ファンとザッパについてあれこれ話すことをこれまでにほとんどしたことがないが、それでいいと思っている。それは孤独な姿かもしれないが、その孤独をザッパの音楽が癒してくれる。音楽を聴いている限りにおいて、ザッパの孤独に同調出来るからだ。芸術の役割はそこにある。
今回のLPを手に取って確認したかったのは、第3面まで音楽があるから、その第3面の曲目をジャケット見開き内部にどのように印刷するのかということであった。だが、第3面の曲目はジャケットには印刷されなかった。ただし、今回の大きなおまけは、最低1ドルをザッパに送付することで得られた歌詞パンフレットだ。それが復元された。厳密に言えば、最後の4ページは今回の追加だ。歌詞は『オールド・マスターズ第1巻』のLPサイズのブックレットに印刷されたが、今回はオリジナルどおりで、歌詞以外のト書きも含んでいる。そのことで本作がオラトリオであることの意味がわかる。4ページの最初に第3面の曲目が印刷されている。当時シングル盤として発売された2曲を挟む形で、ちょうど1分のラジオ・コマーシャルが収められている。ザッパの語りで、その内容は「ラジオは醜悪で、自分たちの音楽は流れないから、レコードを買ってくれ」というものだ。ラジオで放送されないことをザッパはあえて見込んで作曲したのではないが、「全き自由」を標榜すると、いくら言論の自由が保障されているからといえ、顔をしかめる人が大勢いることは予想したであろう。だが、そういう反対者がいることでよけいに神経を逆なでてやろうという考えは若い頃にはわりがちだ。周囲を見回せばラヴ・ソングばかりで、そういう同業者にも文句があったのだろう。思ってもいない嘘で金儲け出来る世界であるという現実を見続けると、そのことを揶揄し、またそういう音楽界の隙間に生き残る術を獲得するという考えにもなる。ただし、先に書いたように、ザッパは伝統を重視するから、楽譜に書く才能と演奏技術の双方を磨き続けることを怠らなかった。真面目なのだ。どこまでも真面目で努力型だ。しかも才能に恵まれていた。日本ではいないタイプだ。第3面の後半の曲は、第2面のいいところをつないだものと言ってよい。つまり、「アメリカ・ドリンクス」「茶色の靴は止しなよ」「アメリカ・ドリンクスと帰宅」がメドレーになっている。3曲ともリミックスで、部分的に音が違う箇所がある。最も大きく違うのは「アメリカ・ドリンクスと帰宅」で、レイ・コリンズの歌声は酔っぱらったように左右のスピーカーを揺れず、ずっと中央に固定したままだ。これがなかなか聞きやすくてよい。これらのリミックスはザッパが残しておいたものだろうか。たぶんそうと思うが、今回のリミックス・ヴァージョンを元に本作つまり発売ヴァージョンを作り上げたと思う。「アメリカ・ドリンクス」はジャズそのものといっていいメロディだが、その後のザッパのぎくしゃくしたメロディがこういった曲から発展して行ったことがわかる。それはザッパにすれば地獄からのジャズで、ザッパは自分のしていることによって地獄へ落ちると思っていたかもしれない。それほどに真面目で、それはカトリックのためと言ってのではないか。それでそれに反抗するために「茶色の靴は止しなよ」を書いた。神は嘘つきと思ったからだ。ならば人間が嘘をつく醜悪な動物であるのは当然だ。