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●『金沢文庫の名宝』
会期の最終日であった15日に奈良国立博物館で見た。同時に開催されていた『東大寺公慶上人』については日を改めて書く。奈良は正倉院展以来、2か月半ぶりだ。写真美術館や県立美術館にも寄ってもいいかと思っていたが、とてもそんな時間がなかった。



●『金沢文庫の名宝』_d0053294_1558450.jpg全く期待もせず、暇潰しのつもりで出かけたのに、充実した展示のため、気がつけばもう閉館30分前になっていて、慌てて館を後にした。母の家に立ち寄って夕食をとり、難波の高島屋に7時半までに行こうとするのであれば、4時半までいるのが限界であったからだ。それでもいつものように興福寺の五重の塔の際を歩いて石段を下り、猿沢の池沿いを商店街に向けて進み、駅近くの古本屋を覗いた。美術出版社から出ていた箱入りの西洋名画の「巨匠のシリーズ」が1冊1000円で店頭に数冊積んであり、その中に「スーラ」があったのでほしかったが、重いし、買ってもあまり見ないかと思って諦めた。このシリーズは昔はかなり高価で、30年前でも古本で1冊数千円はしていた。それが今では1000円でもあまり売れない。図版を1枚ずつ貼り込みしてあるのだが、ページをぺらぺらと繰るたびに台紙と一緒に裏返ってしまって見にくい。今ではこんな貼り込みスタイルの画集は珍しいので、これはこれで古風で楽しいが、印刷が不鮮明で色もよくないのが決定的に駄目なところだ。3、40年前の基準ではそうでもなかったが、その後急速に日本の印刷もよくなったので、そんな時代の変化にこのシリーズは対応出来なくなって行った。いつまでシリーズが続き、どんな巨匠を網羅するのかと思っていたが、最後は何となくお茶を濁したような形で数冊の○○派シリーズで終わってしまった。もっと取り上げてほしかった画家があったのに残念なことだ。このシリーズに登場した「エミール・ノルデ」はとても珍しく当時買ったが、ノルデの巻を出すのであればなぜキルヒナーを取り上げなかったかと思う。このように、全集としてアンバランスなところがあって、全部買い揃える気にはとてもなれなかった。それでもスーラの巻は珍しい作品がいくつも載っていたように思う。それで1000円なら買おうかと思ったわけだ。次に行った時にまだあれば買おう。いきなり関係ない話になったようだが、文庫というものを考えていたからだ。
 金沢文庫は石川県の金沢(かなざわ)市にあるのかと最初思ったがそうではない。この展覧会の副題は「鎌倉武家文化の精華」で、金沢(かねさわ)文庫は神奈川県横浜市の金沢区にある県立の施設だ。金沢区の南隣が厨子市だが、関西に住む者にとってはこのあたりの地勢は脳裏に詳しく描けない。奈良国立博物館は「やまと」の中心の地にある仏教美術紹介の本山と言ってよいが、金沢文庫はそれに対して「あずま」を代表するところとひとまず考えれば、この展覧会の内容がよくわかるだろう。去年4月から6月にかけて、奈良国博所蔵の鎌倉期の国宝、重文を含む作品が鎌倉文庫で展覧され、その交換展として企画されたものだ。関西では馴染みのない鎌倉時代の武士北条氏の一族が造った文庫の所蔵品が持って来られた。全部で80件ほどの展示だが、会期中に7割が展示替えで半分ずつしか見られないようになっていたため、1回訪れただけでは50件ほどしか見られなかったことになる。だが、1件でも数点の掛軸であったりするので、作品数が少ないという印象は受けなかった。チラシ裏面の文章を少し引用する。「鎌倉時代、執権・連署として幕府の実権をにぎった北条一族のなかに、二代執権義時の子・実泰(さねやす)の初祖とする金沢北条氏があります。実泰の子・実時(さねとき)は五代にわたる執権の補佐役として引付衆や評定衆をつとめ、蒙古襲来にゆれ動く幕府を支えました。実時は、政策の参考となる経史・法制・農政・軍事などの学問に心を寄せ、たくさんの書物を集めました…」。実時は1275年頃に自邸のあった六浦庄(むつらのしょう)金沢(現在の横浜市金沢区)に文庫を創設し、管理を菩提寺の称名寺に委ねたが、実時の没後、顕時(あきとき)、貞顕(さだあき)、貞将(さだゆき)の三代の子孫が蔵書を増やし続け、称名寺は東国仏教の一拠点となって、膨大な仏典が集められた。1333年に鎌倉幕府が滅び、金沢文庫の蔵書は称名寺が保管したが、足利氏、上杉氏、豊臣氏、徳川氏などの支配者が次々と持ち去って散逸した。明治になって復興の気運きが識者の間から起こり、昭和5(1930)年に神奈川県によって再興がなされ、称名寺から寄託された大量の寺宝や古文書が順次整理や調査研究を経て展示公開されるようになった。外国の支配を受けなかった日本は、天災や火災に遭遇してなくなったものも多いとはいえ、まだまだ大量の典籍や古文書が残る。これらは最初は皇族や貴族が保管、保護して来たが、力をつけた武士階級がそれにならって収集するのは当然の成り行きだ。そして武士の力関係によって、せっかく集められたものが移動することもよく理解出来る話だ。武士階級に力がなくなれば、それに代わって登場する経済力を持つ者たちが競って文庫を築いて内容を充実させることもまた容易に想像がつくし、実際そのようにして日本にはさまざまな時代にさまざまな人々が文庫を造って来た。金沢文庫をそうした歴史の中に置くと事情がよく見える。たとえば、徳川幕府の図書館であった紅葉山文庫は金沢文庫の本を大量に移し、その後も蔵書を増やして幕末には11万冊に達していたというが、これらの多くは現在、国立公文書館内閣文庫や宮内庁書陵部に入っている。ほかにも金沢文庫から流出した本は公私の文庫に収まっており、金沢文庫は散逸して有名無実同然になりはしたが、日本国内の別の場所に移転しただけで、焼失はしていないと考えるとまだ救われる気がする。また、本だけではなく、北条氏の肖像画や仏教美術など、国宝や重文を初め、見るべきものはたくさん伝えられており、今回はそのようなものの中から選ばれた作品が主となっている。
 展示は全4章に分けられていた。1「金沢北条氏の歴代」、2「称名寺の創建と発展」、3「称名寺伝来の仏教美術」、4「金沢文庫と称名寺の学問」で、1に国宝が4点で、これらは実時、顕時、貞顕、貞将の各肖像だ。みなかなり黒ずんでいたので、うす暗い館内では顔の判別がほとんど出来なかった。手元にあるチラシに実時のこの肖像画の上半身画像が印刷されているが、これで確認する方がまだわかりやすい。他にこの1のコーナーで目を引いたもののひとつに重文の「高麗寄日本書」がある。これは高麗の忠烈王が元の世相の意を受け、1292年10月に金有成、郭麟を国使として日本に派遣し、元に入朝して修好することを求めた国書で、こういう生々しい古文書が残っていることに驚いた。金有成、郭麟のふたりは拘禁されたとのことだが、その後どうなったのか、このあたりの詳しいことについて調べたくなった。重文の「青磁壺」はチケットに印刷されている。これは顕時の墓と推測される五輪塔から出土した骨蔵器で、日本に伝来した龍泉窯青磁の中では完形かつ最優品のひとつとされる。蓋の縁のたわみが特徴的で美しく、全体の色も見事だ。もう1点、面白く見たのは「円覚経」だ。貞顕が父顕時の33回忌の供養を営むにあたり、亡父の手跡をとどめる消息を漉き返して料紙としてものに金泥の罫線を引き、墨で経文を書いたものだ。そのため紙はかなり渋い色だが、それでも紙の断片が見えるということはない。和紙であるからこそこんな再生が出来るのだが、これを真似て何か作ってみたい気がした。第2章の最初の展示物は重文の「審海上人像」だ。審海(1229-1304)は称名寺の開山で、これに次ぐ伝湛睿和尚像や忍性の像も展示されていた。称名寺の起源は実時が親の菩提を弔うために建てた念仏堂にあるが、1262年、奈良西大寺の叡尊の鎌倉下向をきっかけに実時は律の教えに帰依し、1267年、下野薬師寺の審海を開山に称名寺を律院に改めた。称名寺は交通の要衝にあったため、全国から学僧が集まって研学し、戒律のみならず華厳、天台、浄土、禅、法華などあらゆる学問が行なわれた。重文の「称名寺絵図 附結界記」はかなり大きなもので、克明に建物の配置や山肌などの地勢を描き、中央の金堂の下に大きな池やその中央に浮かぶ小島を結ぶ橋も見える。この橋も含めた池のたたずまいは、会場に展示してあった現在の称名寺の航空写真と同じで、周囲の自然もよく保存されているのがわかったが、絵図に描かれる庫院,無常院、浴室、儒庫などのたくさんの寺の建物は現在はどうなっているのだろうか。ガラス・ケースに収まっていた「観音・勢至菩薩立像」は、2体とも50センチほどの高さの金箔を施したもので、腰を後ろに引いた格好があまり見慣れないものだけに印象に強かった。
 第3章には、「称名寺は南都系寺院の伝統を踏まえつつ、鎌倉の外港六浦津を中心にして全国の海運の要衝を支配した金沢北条氏の外護によって宋、元時代の大陸の新しい仏教文化が積極的に導入した。東国の首府となった鎌倉で仏教物価が独自の変容を見せ始めた…」といった説明パネルの文章があった。そんな仏教美術の一端を示す釈迦如来立像、大師像や高僧像、涅槃図、曼荼羅、愛染明王図、十二神将像など、見所のある絵画や彫刻、金属工芸品、陶磁器などが並んでいた。「三千仏図」は、南北朝時代、1350年頃に澤間長祐によって絹本に描かれたもので、天井に届くほどの大きな掛軸に小さな仏像がびっしりと絵具で描かれ、上部が少し欠落し、また褪色もしているが、緻密な描法はまだ確認出来、迫力があった。主に年の終わりに、過去、現在、未来の三世諸仏を前にその年の罪障を懺悔し、その消滅を祈る「仏名会」の本尊として描かれたもので、画面中央に三世諸仏が各々独立して横並びになり、三世諸仏をそれぞれ取り囲む形で小仏が隙間なく埋められている。数えてみたところ、2750ほどは確認出来るので、上部の欠落を合わせるとちょうど3000になるのであろう。このコーナーでもっとも興味深かったのは重文「十六羅漢像」だ。展示替えのために第十一から十五尊者の4点しか見られなかったが、それでもこの奇妙な容貌を独特の粘りのある描き方で表現する水墨中心の羅漢像は実に見事で面白い。似た作品は確か御物にも伝わっているが、一度これらの羅漢像について調べてみる必要を感じた。前期には第一から五尊者が展示されたので、第六から十までは持って来られなかったようだが、全体が並ぶところを見たいものだ。部屋の最後は「青磁花瓶・花台」で、中国伝来の大きい花瓶と、その底を嵌め込んで支える木製の台とセットになって見事なものだ。高さは全体で150センチほどだったか、明治期の万博出品用の工芸作品を連想させる権威を誇示するたたずまいがあり、北条氏の権力の大きさを再認識させられる。この花瓶が花台に嵌め込まれている様子を狩野深幽がスケッチしており、その写真図版が参考として作品横にかかっていた。最後にあった「八幡宮扁額」は檜材に「八幡宮」の文字を彫ったものだが、「八」の字が向かい合う二羽の鳩をかたどっていた。その様子を鉛筆で描きながら、まるで髭のようでもあるし、先ほど見たばかりの「十六羅漢像」の羅漢たちの長く垂れた眉毛にも思えて面白かった。第4章の部屋はあまり展示数が多くはなく、「宋版南史列伝」といった興味の持てない展示物が中心であったため、記憶にほとんどない。「宋版南史列伝」はその最後の余白に「金澤文庫」という縦4文字を枠で囲んだだけの黒いハンコが捺してあった。その点において貴重と言えるのであろう。古い文物はその由来が特に大切だ。金沢文庫は武士階級の中では最も歴史が古く、逸品揃いであっただけに、なおさらその4文字が重厚に見える。奈良国博を贔屓にして言うつもりはないのだが、日本が仏教によって国がここまで造り上げられて来たことを改めて思う。新たに台頭して来た武士階級も仏教を擁護し続け、それもあって後の時代に学問や造形芸術の世界に独自の花が咲いた。そんなあたりまえのことを再認識するにはとてもいい機会であった。
by uuuzen | 2006-01-25 15:58 | ●展覧会SOON評SO ON
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