忘れないうちに書いておく。どんなことでも。最近筆者も家内も落とし物が増え始めた。先日筆者は手に提げていた大きな袋を二重にして持っていたが、その外側の袋がないことにバスの中で家内が気づいた。
その前に夕食を済ませていたので、帰宅して早速その店に電話すると、ないとのこと。食事の前に百貨店で展覧会を見たので、その時にその袋をロッカーに入れたから、ひょっとするとその中かと思ってまた電話すると、同じ返事だ。じっくり考えると、どうやら四条大宮でバスを乗り換えるために降りる際かと思って、市バスの営業所に電話すると、また同じ返事。袋を二重にしろと言ったのは家内で、その外側の袋の取っ手と中の袋の取っ手を計4本握っていれば外側が脱落するはずがないのに、筆者は内側の取っ手だけをどうやらある時点でつかみ直した。その時、外側の袋が脱落したのだが、大きな袋であるし、またその袋には展覧会のチラシが10枚ほどは入っている。それなりに重みがあるので、落とせばわかるはずだが、雨が降っていて傘をもう片方の手に持っていたので、気づきにくかった。その袋は家内は買い物に使うなど、なかなか重宝していたもので、金で買えない思い出がある。四条大宮のバス停で待っている時に落とした可能性が一番大きな気がして来たので、100メートルほど離れた交番に電話しようかと思ったが、家内はバス停からそこまで届けてくれる親切な人はいないと言う。それで諦めた。家内が最近落としたのは、昔筆者が昔ロンドンで家内のために2万円ほどで買ったトウガラシの形をした金のペンダントのトップだ。そのペンダントの鎖が外れていることに家内は神戸に向かう電車の中で気づいた。鎖は肌に絡まっていたが、トップがなくなっていた。後日出かけ直して阪急と阪神の落とし物係に行ったが、届け出はなかった。電車の中で外れて落ちたとは限らないので、届けられているとは限らない。つい先日は家内は帽子がないと言う。自転車で梅津に買い物に行った帰りにどこかで落としたのか、あるいは別の機会か、それがわからない。そして1週間ほど経って、家内はまた梅津に自転車で買い物に行き、同じ道をたまたま通って帰った時、畑の杭のてっぺんにかぶせてあるのを見つけた。安物の帽子などので、また買えばいいようなものだが、親切な人が見つけて道際の目立つところに置いてくれた。ま、落とし物の半分は手に戻るような感じだが、これが毎年その確率は低くなるに決まっている。老化とはそういうことだ。
筆者はよく探しものをする。たいていは本かメモで、家の中のどこかにあるのはわかっているが、これが何年経っても出て来ない場合がある。ここ2,3年探している複写資料はかなり重要なもので、その原本もめったに古書では手に入らない。図書館にもない。売っていても数万円ほどする。そんなに大事な資料が出て来ない。大事なあまり、特別の場所に収納したのかもしれないが、その記憶が欠落している。その資料はある本を買った時に中に挟んであったもので、どの原本が何かを調べるのに大いに手間取ったが、前述のように非常に珍しい本であることがわかった。さて、またどうでもいいことを書いたが、ザッパのアルバムはLPとCDに分けていちおうはすぐに引っ張り出せるようにしている。ただし、発売順に並べることはせず、かなり出鱈目だ。だが、LPの場合はその5ミリほどの幅の背の模様がどれも特徴的で、CDよりも探しやすい。そして『アブソルートリ―・フリー』はザッパが意図したのではないだろうが、その背が他のアルバムよりも目立つ。『オールド・マスターズ第1巻』は6枚のアルバムの背は全部赤に統一され、それはそれでよかったのに、『第2巻』『第3巻』はオリジナルのLPと同じデザインになった。そのため、『オールド・マスターズ』としての統一がない。これはどういう理由でそうなったのかと思うが、デザイナーが『第2巻』以降は変わったのかもしれない。ザッパはそのことをどう思ったかだが、仕上がった商品にはあまり関心がなかったのではないか。ジャケットの細かい差をあれこれと話題にするのは、ファンの中でも収集熱の高い人で、筆者はあまりその部類ではないが、ジャケットの細部の違いは盤の音の違いに反映しているのではないかとは思っている。つまり、改めてジャケットを同じように印刷する場合、肝心のレコードのマスターも新たに用意することが普通とすれば、見栄えの差は耳の差に対応する。それで、今日は昨日書いたように、筆者が所有する3枚のLPの『アブソルートリ―・フリー』を聴き比べた。久しぶりに3階のステレオにスイッチを入れたが、無事に音は出た。微妙な音の違いを文字にすることは難しいが、オリジナルのアルバムは最もワイルドな感じで、『オールド・マスターズ』のものは残響が少しあり、臨場感に広がりがある。これはザッパがそのような音に加工したのだが、デジタルに変換した時にそのような音になる特性が当時はあったのかもしれない。また、その音の広がりはたとえば『ホット・ラッツ』ではもっと顕著で、LPとCDでは全く違うが、その変化をザッパは多少は『アブソルートリー・フリー』にも付与したのではないか。さて、昨日届いた50周年記念盤は、オリジナルにかなり近くなりながら、ワイルドさがやや減少し、全体にマイルドな音になっている。どちらがいいかだが、好みの問題だろう。オリジナルはいかにも60年代末期の、まだザッパが若かった時にふさわしい猥雑ぶり、そして今回のは棘の先端が微妙に丸く加工され、突き刺さり具合が違っているように感じる。
ついでにCDもと思ったが、筆者はライコ盤とビデオアーツ盤のみ所有し、最新のユニヴァーサル盤は持っていない。いや、正しく言えば見本の試聴盤として同社から発売数か月前に焼いて送ってもらったCD-Rを持っているが、LPとCDを聴き比べても仕方がないかと思って、ひとまず3階から1階に戻った。そうそう、それに3階のCDプレーヤーは長い間聴いていないので調子がおかしいままとなっている。1階で聴けばいいが、1階でLPを聴くには、3階にあるもう1台のプレーヤーを1階のアンプにつなぐ必要があり、その面倒を思うと、もうどうでもよくなる。それはともかく、今回のマスターはハリウッドのバーニー・グラウンドマンが今年オリジナルのマスター・テープから作ったもので、ユニヴァーサルのCDとも違うことになる。マスターが違うと音は違うのは常識として、プレスの段階でまた差が出るはずで、音の微妙な差を追い求めるときりがない。筆者は3枚を聴き比べてどれも少しずつ違うことを確認出来て、それで納得している。ただし、筆者は66歳になったから、耳は若い頃よりも劣化しているはずだ。母が近年めっきり耳が遠くなって来ているが、筆者もそれが始まっているだろう。視力がこの1年でめっきり落ちたことに比例で、耳も知らず知らずの間に鈍感になっているはずだ。それで、聴き慣れた『アブソルートリ―・フリー』を今日は何度も盤を取り換えながら聴き比べをし、これまであまり感じなった微細な音に気づくことになったが、その中で最も感じたのは、たとえば「プラスティック・ピープル」にしても、テープの切りつなぎを何か所で行なったのかという編集についてだ。アレシンスキーの『自在の輪』という本の最初に、出版された本はきれいな文章となって、そこに至るまでにどれほど文章を書き換えたかの痕跡が見えないことが残念だと書いている。その本の叢書の別の1冊にピカソの『イカロスの墜落』があり、その本ではピカソがいかにある絵を仕上げるまでに画面の上に絵具を何度も塗り重ねるかの経過が詳細に報告されている。そのことによって読者はピカソの気まぐれとでも言うべき試行錯誤の跡をたどることが出来るが、おそらくアレシンスキーはその本のことを知っていたのだろう。それはいいとして、ザッパ生前のアルバムは、どれもアレシンスキーの書く、きれいに文章が整えられた、つまり完成作としてのもので、それがどのような経過でその形に至ったかは聴き手には全くわからない。それを残念と思うのはアレシンスキーだけではなさそうで、ビートルズの場合は、「メイキング」の言葉を付して、正式なアルバム収録に至るまでの曲作り行程を聴かせようとし、そのことが20世紀末期には大きな流行になり、またそのこがミュージシャンに大きなボーナスをもたらせた。ザッパの遺族がやり始めたこともそれで、正式にザッパが発売した曲に至るまでのいろんな音源を発掘して来て商品化するようになった。そのことによって、ファンは「ああ、なるほど」と楽しい思いに浸れるようになったが、不思議なことに、たとえば『アブソルートリー・フリー』では正式アルバムに至るまでの試行錯誤の音源の発表がない。それは『アンクル。ミート』でもほとんど言えるが、おそらくないことはないが、それをファンに聴かせても楽しくないものであるのだろう。先に書いたように「プラスティック・ピープル」にしても数か所はテープを切りつないでいると思うが、そのつなぐ前のバラバラの音を聴いても、楽しくないどころか、拍子抜けして、せっかくの正式盤のオーラも減少するのではないか。ザッパ自身も自分がOKを出して発売したアルバムは、完成品であって、それに至る試作品やまたさらにその試作とでも言うべきものを聴いてほしいとは思わなかったであろう。それどころか、ザッパはあるライヴで1、2曲が正式に発表出来るもので、他はみなゴミと言った。それは当然だろう。そのゴミ漁りが楽しいと思うファンもあるが、そういうファンはザッパが捨てた本物のゴミでもほしいと思うだろう。そして、そういう行為はきりがない。そのように考える筆者だが、アーメットはそのゴミを徹底して商品化しようとの考えのようで、その第1弾が『ハロウィーン77』の仮装品セットつきのボックスだ。ま、ゴミみたいな話になった。