息子のことをたまに思い出してLINEでメッセージを送ると、すぐに返事がない場合が多いが、数日すれば短い返事が来る。それで生きていることがわかる。
伏見に住んでいるので、会おうと思えばいつでも会えそうなものだが、お互い多忙で半年に一度くらいしか顔を見ない。息子のアトピーがひどいことを風風の湯でよく会うTさんに以前話したことがあるが、先週Tさんは息子の生年月日と生まれた時刻を記した紙を風風の湯の受付にわたしておいてほしいと言われた。その理由をはっきりと訊かなかったが、Tさんは真言宗のお坊さんの資格を持っていて、山伏としての活動もするようで、ま、簡単に言えば拝むことで願いをかなえることを信じている。またそのように拝むことでこれまでいろんな人の病を治癒し、また望みもかなえて来たという。そんな馬鹿なことがこの科学の時代にあってたまるかと考える人が大勢を占めているはずだが、人間とは思いの動物であり、またその思いは瞬時にどこへでも到達するものであるから、拝む、祈ることで、何事かを動かせるということは全く不可能ということはないだろう。そう言えば、最近筆者は急にまた上田秋成の『雨月物語』を読みたくなって、隣家から本を探して来た。10日ほど前の夜に読んだのは、その中の「菊花のちぎり」だ。これが筆者は大好きだ。菊の花が咲こうとする秋になれば思い出す。現代語訳ではなく、原文のまま読む。それはかなり苦労を伴なうが、味わいは別格だ。それを読んで筆者が涙ぐんでいるのを横で見ていた家内だが、筆者が読み終えた後、家内に読ませたところ、家内もえらく感動した。実はもう何年も前に家内にそれを読ませたのだが、再読しても感動は鮮やかだ。実によく出来た小説で、今さら筆者が感想を書くこともないが、亡霊が出て来る話など、今は誰も信じないと考える人が読んでも納得出来るような構成になっている。つまり、「菊花のちぎり」に出て来る亡霊は、その亡霊に出会った人物の空想として捉えると、少しも非現実ではない。秋成も亡霊がいるなどとは信じていなかったであろう。だが、人は思いが強ければ、亡霊のような形でその思いを現前のものすることは信じていたはずだ。思いが瞬時にどこにでも到達するということは、「菊花のちぎり」に書かれているテーマでもあって、そこが筆者は好きなのだ。体はここにあっても、思いは自由に世界中を駆け巡ることが出来る。それどころか、過去へも自由自在だ。
Tさんは筆者より2歳上の独身で、警備員をしている。それ以上の個人的なこれまでの人生についてはよく知らないし、また知りたくもないが、敬愛しているお坊さんが亡くなった時は、両親の死の時よりも悲しかったと聞いた。そういう尊敬する人がいることは幸福だ。仏教にはまだそういうことが多いのだろう。禅僧がそうだ。Tさんは風風の湯に毎日通っていて、常連では最多の回数であるはずだが、幼い頃の銭湯通いのためだ。ひょんなことから筆者と話をするようになり、先に書いたように筆者の息子のことを気に留めていただいているようだ。早速帰りがけに受付に息子の生年月日や名前などを紙に書いてわたしておいたが、今週の月曜日に風風の湯に行った時に、Tさんからしかるべきところで拝んでおいたと言われた。本当は息子がその場にいるのがいいらしいが、息子は同居しておらず、Tさんと一緒に拝み場所に行くことはすぐに無理だ。そんな状態では効果がどれほどあるのかわからず、また筆者はTさんにどのようにお礼の言葉を言うべきかもわからず、Tさんにその件については詳しく質問しなかった。Tさんはもともと無口な方で、息子の生年月日を教えてほしいと言われた時も、筆者は何のためと訊き返すことをほとんどせず、話半分のようなつもりでいた。実際Tさんがどこの御堂に出かけてどのように願かけをしたかもわからず、筆者はきょとんとするしかないのだが、無欲なTさんに対してこれまでどおりに週に2、3回風風の湯で少ない言葉を交わす程度で、Tさんは満足なのではないかと勝手に思ったりもしている。「菊花のちぎり」の冒頭は、軽薄な人とは付き合うなという警句で、風風の湯で筆者がよく話す7,8人は、みなその時だけの付き合いで、軽薄と言えば言えるかもしれないが、顔はお互い知っていても話しかけない場合もあるので、みなそれなりに軽薄以上の仲とは勝手に筆者は思っている。ま、息子のアトピーは生活を根本的に変えなければ改善しないものと思うが、その生活を変えるにはまず心の状態を変えることでもあるだろう。今度息子に会えばTさんのことを話してみよう。さて、今月も満月の夜は雨で、今日はどう頑張っても月のわずかな光も見えなかった。深夜3時頃に目覚めてカーテンを引いて外を見たが、空はびっしりと厚い雲が覆っていた。それで今日の写真は仲秋の名月の一昨日の夜にわが家の前で撮った。2日前ではあるが、筆者のカメラでは満月のように見える。