副題は「EXPO’70とその時代」。15日に奈良国立博物館に行った後、八尾の母のところに立ち寄り、小1時間滞在してこの展覧会を見るために難波に向かった。
午後8時までの開場で、30分前には入場する必要がある。入口に辿り着くと係の女性がもう鎖をかけて入場出来ないようにし始めていた。規定より5分過ぎていたが、どうにか入らせてもらった。中は筆者のような50代もいたが、20代の若者が中心で、しかもみんな熱心に見ている。8時になっても帰らない人が多く、係員が何度か閉店を告げてようやく出てもらったという状況であった。それでふと計算してみた。何と万博のあった1970年はもう36年も前だ。会場にいる若者たちはまだ影も形もこの世になかった。それを思うと変な気がした。『ああ、長いこと生きて来たんやなー…』。自分の息子でももう20歳を過ぎているからあたりまえなのに、普段はそんなことは意識しない。年が行って図々しくなるのはそんな無意識から来るのだろう。会場に入ってすぐは岡本太郎のコーナーで、等身大のスーツを着たマネキン人形があった。これは有名なものでTVで何度か見たことがある。岡本はよくTVに出ていたし、コマーシャルや若者の人生相談でもお馴染みであった。そんなことをよく知っている筆者からすれば、岡本が生きている間(確かそうだったと思う)にこんなマネキンを作って遊び心を表現していたことがまだ生々しく、そんなに昔のこととも思えない。だが、もう岡本はこの世にいない。そして今や伝説と化した状態で若者にはその存在が捉えられている。今、思い出したが、去年11月下旬に『吉原治良展』に行った時、会場を出た横の壁にたくさんの展覧会ポスターが貼ってあった。美術館にはよくある光景だが、筆者は必ずこれらのポスターを全部確認する。若者が何人かいて、その中のひとりの男が尼崎で開催中の『村上善男展』のポスターをまじまじと見ながら、同展に岡本太郎の油彩画が何点か展示されていることに気づき、そして大きな喜び声を上げながら、携帯電話でポスターのその部分を撮影し始めた。早速出かけたいと言っていたが、彼の目的は村上善男ではなく、岡本太郎の絵に出会うことで、それほど若者に岡本人気があることを実感させた。もちろんこの一例で決めつけることは出来ないが、万博を回顧するこの展覧会でも同じような世代の若者がたくさん訪れ、しかも岡本のデザインした「太陽の塔」のドキュメント・フィルムの上映に食い入っているのを見ると、若者にとっての岡本人気は小さくはないだろう。
大阪万博を何度か訪れたことのある者からすれば、百貨店でのこのような展覧会はどうせ少々の資料を展示しているだけで、万博の実態を何ひとつ伝えていないことはよくわかるが、去年は愛知万博が開催されたこともあって、日本における元祖万博である大阪万博がちょっとしたブームになり、そんな勢いに押されての企画であろう。現在、当時のグッズがネット・オークションでも盛んに登場し、それらを集めている人も少なくないようで、これは当時を体験した人が老齢化してコレクションを手放すようになったことと、万博を知らない世代が関心を抱いていることが合致してという理由もあるだろう。また、万博ではさまざまな関連グッズが大量に出現したから、それがコレクター心をくすぐる。当時のザデインは今見ればやはりどこか古臭い1970年代そのもので、それがまた若者にとっては面白く見えることは容易に想像出来る。そんなグッズやポスターなどがたくさん並べられ、また代表的なパヴィリオンの女性コンパニオンの制服がマネキンに着せられて10体ほど展示されていた。このコンパニオンの制服もネット・オークションに登場しているのをたまに見かける。制服マニアがこんなものまで征服しようとしているのか、あるいは万博マニアが買い集めるのか、どっちにしてもまだまだ大量に制服はどこかに眠っているはずで、いつか万博コンパニオンの制服展が開催されることもあるかもしれない。そんな制服は今見てもどきっとするミニ・スカートで、当時すでにこんな短かったのかと少しどぎまぎした。いつの時代でも女の色気の密度に変わりはないはずであるし、その点1970年という時代はほとんど今と同じで、そこがまた若者たちにとっては古いようでいて新しいものを感じて面白いのかもしれない。そのマネキン人形のすぐ近くで60歳ほどの夫婦が係の男性をつかまえて話込んでいた。どうも自分たちはもっと珍しい資料を持っていると言っているらしく、それに応じて係の男性は、そんな個人コレクションをお借りして来てこんな展覧会が開催出来ているので、また提供してほしいなどと言っていた。日本の人口の半分以上が見に行った計算の大阪万博であるので、資料をたくさん収集している個人はいくらでもいることだろう。万博に行った人で何か1点でも資料を持っていない人はほとんど皆無だと思うが、そんな資料はきちんとしたグッズよりかは、むしろ誰もあまり関心を払わず、すぐに捨てられてしまったようなものの方が価値がある。それゆえ、資料とも思わずに引き出しの片隅に埃を被って転がっているようなものの中に、時代のあり様を証言するものがあったりする。たとえばどこかの食堂の万博マークの入った箸袋といったような売り物でなかったものだ。そんなものまで今回は展示されていたが、末端のデザイン物にも時代が反映されていることが面白いのだ。
期待しないで出かけた展覧会だが、最初の部屋に入って驚いた。前述したようにまず岡本太郎室になっていたが、有名な大仏の掌型の椅子(これは奈良の商店街のある店が同じものを昔から現在までずっと展示していて、この日は数時間前にそれを見て来たばかりであった)や、座る部分にさまざまな顔を彫った「座るのを拒否する椅子」シリーズ、それに万博開催時の大きな鍵や「母の塔」の小模型といったものが黒い壁紙を背景にずらりと並んでいて、その向こうにすぐに見える真っ赤な部屋と好対照を成していた。真っ赤な部屋は「太陽の塔」の内部の「生命の樹」の一部を再現したもので、展示品も可能な限り同じものを持って来たとあった。これは意外で、来た甲斐があった。以前にこのブログで「太陽の塔」の内部をどうにか見たいと書いたが、それがダミーにしろ、一応かなった。当時の本当の塔内の大きなカラー写真も展示されていたが、確かにそっくりに作ってある。太い柱の下部から長さ40センチほどの黒い三葉虫が何匹も這って上方に向かっていたり、地面には太古の海洋生物が模型で作られて並び、BGMも当時塔内で流れていたものと同じものが使用されていた。想像を逞しくするとこの百貨店の一角の照明を巧みに使用したわずかな展示でもかなりの部分同じ雰囲気を味わえるはずだ。ここで思ったことは照明をとてもうまく使用していることだ。赤い照明による真っ赤な部屋など通常はなかなかお目にかかれないが、奇妙な形のオブジェがあちこちに貼りつけられ、それらが置かれる小階段や壁はすべて曲線主体のぐにゃぐゃにゃした形態、しかも人のざわめき声が混じった変な音楽が鳴り響いているというのであれば、なおさらその赤が強烈な印象を与え、始原的な胎内にでももぐり込んだかのような錯覚を人々に与える。現在の「太陽の塔」の内部は、たとえ鑑賞出来ても照明がないとのことであるし、また当然音楽も聞こえないから、万博当時とはかなり違ったものになっているはずだ。それに引き換え、この展覧会では小規模ながら同じように再現していたのは得難い機会であった。
また、写真でわかったことだが、この「生命の樹」の赤い照明の空間上部には世界各地から集められた多くの民族仮面が下向きにたくさん吊るされていた。それらの多くは韓国やインドネシアのもので、現在はそっくりそのまま民族学博物館の展示品となって、いつでも見られる。民博の収蔵品が岡本の指示によって世界中から集められたことは以前に書いたが、この一事を取り上げただけでも岡本の巨人ぶりがうかがえる。その意味は今後ますます重要性を帯びて来るものであって、岡本の名は永遠に讃えられてよい。それはさておいて、万博当時の「生命の樹」内部の上方には、こうした仮面がたくさん下向きに展示され、訪れる人を見下ろしていたわけだが、現在は撤去されてないから、それを思うと塔内を訪れても岡本の意図したものが同じようには見えて来ない。これはとても残念なことだ。どうにかして当時を再現し、限定的でいいので関心のある人々に見せることが出来ないものだろうか。たとえ10分でもそれを体験すると、生涯忘れ得ない感動を心に刻むと思う。教育的観点から見てもそれはとても効果的で、岡本も喜ぶのではないだろうか。柱にへばりつく三葉虫の模型ひとつ見ても本当に面白く、博物学的観点から立てばかなりの際物で、お化け屋敷かテーマ・パークの見世物と思われかねないこともないではないが、芸術的観点から立てば岡本的インスタレーションの頂点の作品と呼んで差し支えなく、岡本の仕事の再評価、総合評価のためにはぜひとも再現していつでも見られるようにすることが不可欠と思う。人が集まれば金が落ちるし、そうなれば維持管理費も捻出出来るだろうから、管理団体側の懸念もいろいろとあるとは思うが、「太陽の塔」内を再現して新たな観光資源として大いに宣伝してほしい。
わずか25分の展覧であったので、その他の資料はざっと流し見することで終わった。ただし、ひとつ目に止めたものがある。それは松下館だったと思うが、タイムカプセルを作って大阪城のどこかの地下に埋めたという話題だ。これは当時の知識人や学者などが集まって2000点ほどの品物を選び、消毒滅菌したうえでアルゴン・ガスを封入し、特殊な金属の器に詰め込んだ。丸い釜のような形をしているが、これをそのままミニ・サイズにしたグッズも販売されていた。タイム・カプセルは同じもの2個作られ、地中には上下2段の形で埋められた。そして地面に近い方は100年毎に掘り返されるそうで、どちらも5000年だったか、とにかく日本がまだあるかどうかわからないほど未来に掘り出されて内部が確認されるという。そして中に詰め込まれたものの一部が大阪歴史博物館の常設展示室で現在公開中とのことだが、試験管に大豆を詰め込んだものや雑誌、お守りなどがあった。どんなものが入っているか、その全体像はわからないが、1970年当時の生活を示すものであるからには、結局のところ今回のこの展覧会に提示されているグッズに代表されるものとそっくり交換してもいいように思える。きっと未来の人々は失笑するに違いないと思うが、自分たちの時代を遠い未来の人々にわかってもらいたいという思いだけは汲んでくれるだろう。大阪万博を実際に体験した者からすると、当時はそんなに大きな関心もなく、工事中の見学を含めて4度は行ったと思うが、特別記憶にあることもほとんどない。とても隅から隅までは回れなかった。当時の懐かしい場内図を見ながら、今ではこのあたりはこうなってしまっているといった確認作業に浸る方がむしろ楽しい。その意味では万博を体験しなかった世代と何も変わらない。万博は確かに異空間ではあったが、同じような思いは想像を飛躍させる能力があれば、現在の万博公園内の片隅に立ってでも充分に味わえると断言する。ほとんど万博当時のパヴィリオンはなくなってしまったが、日本庭園や民芸館はそのままであるし、太陽の塔も同じ場所に立っている。せめてそれらがタイム・カプセルといったちゃちなものになってしまわずに、末長く今のままの状態で保存されることを願いたい。