21日の土曜日、『柳宗悦の民藝と巨匠たち展』にまた行って来た。この日のホールで宗悦の妻「兼子」のドキュメンタリー映画が上映されることを、去年12月17日にこの展覧会を最初に見た時に知った。
明日は棟方志功のドキュメンタリー映画だが、それか、あるいは似た映像を昔見た記憶があるので、迷わずこっちを見ることにした。ホールは筆者が今まで経験したことのない超満員であった。展覧会を見た後、上映15分前に行ったが、すでに全席が埋まり、立ち見ですら窮屈なほどであった。9割は60以上の年配者で、それなりに兼子に関心がある人たちに見えた。展覧会も大盛況で、去年初日に筆者が訪れた時の5倍は入っていたろう。これだけ満員であるところを見ると、関西において宗悦の民芸への理解は、筆者の予想をはるかに越えて浸透していると言うべきだ。これを機会に柳の民芸をさまざまな角度から改めて検証してほしいと思う。今まで柳に関する展覧会がほぼ皆無であったことは異常であったと言うしかないが、兼子が亡くなって20年以上経ち、このようなドキュメンタリーが公開されるようになった今、民芸紹介活動を改めて夫婦の業績として捉え直す必要もあるかもしれない。いや、実際そうだろう。兼子が宗悦の民芸活動を陰で支えたことは昔からよく知られている。20代半ばで宗悦がソウルで朝鮮民族美術館設立のために奔放した時、兼子は自分の声楽リサイタルを積極に開催し、その入場料全部を宗悦の民芸品収集のために費やし、しかもそれらの収集品の大半はその後の宗悦の協力者の尽力によって3000点を越すものとなって現在は韓国国立中央博物館に収まっている。この一事だけでも宗悦と兼子の偉業は永遠に伝えられるべきものだ。そんな夫婦が大正時代初期にいたであろうか。前にも書いたと思うが、日本はこのことをもっと誇ってよい。お札の肖像になぜ柳が取り上げられないか不思議な気がするが、そんな偉大な人物には偉大な妻がいたという事実を改めて伝えてくれるのがこの映画だ。筆者は宗悦の著作を20代前半までにほとんど全部読んでいたのに、兼子に関しては調べることをしなかった。宗悦の著作の中には全く登場しないからだ。顔写真を見たこともなく、またどのように歌うのか、レコードがあるのかないのか、とにかく何ら情報も得ずにずっと来たが、今から5、6年前、ついにCDを入手した。今それを聴きながらこれを書いている。映画でも兼子の歌うシーンはたくさん出て来た。いや、80分のうち、半分ほどは歌が流れていたから、ドキュメンタリーではあっても歌曲集として楽しめる。残りの半分は20人のインタヴューで、これがまたよかった。兼子の動く姿や語りもたくさん登場する一方、周囲の人々の思い出話から兼子の生涯があますところなく伝わった。
兼子は1892年5月に東京の下町で生まれた。1912年に東京音楽学校を卒業するが、本当は画家になりたかったそうだ。だが、仕立てでも料理の世界でもそうだが、画家ではどう頑張っても男には勝てないと思い、それで女でしかなれない女性声楽家を目指した。また、音楽学校に入る前に長唄を厳格で有名であった女の師匠に就いて学んでいる。これが後の声楽の発声法に影響しているだろう。インタヴューで答える兼子の声は典型的な葉切れのよい江戸の言葉で、明治女の尊厳を見る思いがした。宗悦とは学生時代に出会い、すぐに恋愛する仲になった。そして、自分の声を使って生涯を賭けるという思いは成就し、87歳まで歌い続け、92歳、死の2か月前まで後進の指導を続けた。亡くなったのは1984年6月で、宗悦より23年長生きした。18歳から歌い始めたから、たくさんレコードが残っていそうなものだが、どうもそうでもないらしい。ドキュメンタリーでは80代の歌声しか入っておらず、筆者の所有する1997年にアート・ユニオンから発売されたCD『柳兼子リサイタル うたごころ』は、1977年に出たLP音源を収録するもので、同じく80代の歌声だ。CDの解説から最初の部分を少々引用する。映画では最初の証言者として登場していた宇野功芳という人が書いている。『1990年4月発行の拙著「名演奏のクラシック」(講談社)の中で、柳兼子の絶唱「荒城の月」をCD化することについて強く訴えかけたところ、多くの方々が賛意を示され、まことに嬉しいかぎりであった。……当分の間は実現不可能になってしまった。すばらしい芸術を後世に遺したい、というわれわれの純粋な熱意が先方に伝わらなかったのは残念の極みであるが、致し方もない。そこで、次善の策として、旧トリオに録音された1枚半のLPをここにすべてCD化し、発売することになった。……「荒城の月」が入った「日本の心を唄う」を出した後、2枚目のCDとして計画されていたものだけに、柳兼子の芸術を愛する者にとってはやはり宝物のような一枚である…』。「荒城の月」が入った方を最初のCDとして発売する予定が残念にもかなわなかった様子がわかるが、その後発売されたかどうかはわからない。『うたごころ』は全23曲が収録されている。17曲が1976年10月のリサイタル、6曲がその1年後のリサイタルで実況録音された。『日本の心を唄う』の方は絶唱が収録されるというから、1979年の録音と推測する。映画では外国の歌曲としては歌劇『カルメン』より「ハバネラ」1曲だけを歌い、残り19曲はみな日本の歌だ。『うたごころ』には「ハバネラ」を含む8曲の外国の歌が入っていて、そのほかは日本歌曲だが、映画で歌われた曲とはだぶりが少なく、たぶん3、4曲だ。とすると、映画で歌われる全20曲のほとんどは『日本の心を唄う』に入っているものかもしれない。もしそうでないならば、レコード化されていない音源があることになるが、当然それは充分考えられる。長年活動したのであるから、兼子のレパートリーは当然広かったであろう。
にもかかわらず、あまり録音が発売されていないのは、兼子の歌い方が西欧の歌手の歌声を聴き慣れた者からすれば、かなり特殊なものに聞こえるためもあるかもしれない。映画の中で、兼子の歌曲の師がイタリア系の女性であることがわかったが、もうひとり日本語の巧みな西欧人の女性歌手が登場して兼子の歌唱法について意見を述べていた。その人は兼子とは面識がないが、プロらしい見方で分析しており、興味深かった。その内容をまとめると、兼子はいつもキモノを着て歌うが、これは帯で胸を締め上げ、後ろ襟を抜くという着つけで、おまけに足元は地面に密着する足袋を履くため、体全体がちょうど垂直に立つ尺八のようになって、声が首の後ろから上方向に抜けて行く。これはハイヒールを履いて地面から一応は分離した形で立ち、しかも洋服で歌う西欧人とは違う声質になる。兼子の歌は日本のそういう独特な衣服と関係があるとのことだ。これはなかなか面白い見方だ。一般に声帯は人間の体の中で最も衰えにくい部分と言われるが、それでも80代までアルトでずっと歌うのは並大抵のことではない。であれば兼子は天才か。だが、これは宇野氏が最初に語っていたが、そうではなく、努力して才能を身につけた。ここに兼子の凄味がある。そしてその凄味をひとつもそのように見せずに淡々と活動し続けて来たところにまた本当の凄味を思わないわけには行かない。映画で最も感動したのは「ハバネラ」を歌う場面だ。CDでは聴いていたが、映像を伴って見るとまた味わいが違う。浅葱色のキモノを着て右手先をピアノにそっと置き、そして歌い始める。小柄な80代のおばあさんであるので、それは若い西欧の歌手が歌うのとはわけが違うのは当然だが、それでも本当にびっくりさせられる歌いっぷりで、聴きながら惚れ惚れした。実際、歌い終わるや否やホールの中から何人もが感嘆の溜め息をはっきりともらした。「うたごころ」とはよく言ったものだ。まさにその言葉がぴったりの歌い方で、しかも何という色気があることか。胸に染み通るとはこういうことを言う。「ハバネラ」の名唱は数多いだろうが、こういう歌い方をする女性が日本にいたとは、改めて兼子という存在の大きさを認識した。
この「うたごころ」については、日本の歌曲ではより一層よくわかる。映画では次々とそんな曲が流れ、歌詞も同時に映し出されたが、口当たりがよく、爽やかな雰囲気で歌う歌手とは違い、歌詞の世界の奥深いところに分け入って、その詩の世界を声であますところなく表現しようという気がまえがそのまま響いて来る。面白い歌もある。たとえばこれは『うたごころ』にも入っているが、「嫌な甚太」だ。1分ほどの短い歌で、ピアノの序奏はドビュッシーの「ゴリウォークのケイクウォーク」に似ている。詩がとてもよく、古き日本の田舎の情景が鮮明に浮かび上がる。田圃の畦道の向こうから嫌な甚太が馬と並んでこっちにやって来る。右はせせらぎ、左は水田、後戻りは人が見ているので出来ない。そして、困った女の子は水田に片足を入れる。そこで歌はぷつりと終わる。ごく短いドラマだが、一語ずつがみなきらきらと生きていて、俳句に代表されるような日本独特の情景把握の眼差しが感じられる。粋さが要求されるこのような歌を兼子は独特の持ち味で表現していて、このように歌える人はもう出現しないように思わせられる。それは明治に生まれで、ずっと戦中も生き抜き、自分の活動も忘れなかった人だけが、しかも西欧人の先生に声楽を学びながら、日本のことを決して忘れなかった人だけが獲得出来たものだ。宗悦が西洋も東洋も区別することなく自在に行き通うコスモポリタンであったのと同時に、兼子もまたそうであった。自分の声楽が実際は西欧でどのような位置にあるかを確認するためにドイツに留学した兼子は、単身でシベリア鉄道経由でヨーロッパに行くが、滞在最終段階で思い切ってリサイタルを開くと、歌に感激したある男が契約してくれと言って来た。自分はもう帰国せねばならないと返事すると、今度来た時にはぜひにと言われたそうだが、いくつかの新聞には好批評が載り、兼子が一体どういう師に就いて学んだのか話題にもなった。このことからもわかるように、兼子の才能は本場でも通用するものであったが、そのことがわかるとさっさと帰国して、日本での活動にまた本腰を入れた。兼子には宗悦の妻という立場、そして3人の息子を育てるという母親としての役目があった。
3人の息子、宗玄、宗理、宗民はいずれも有名だ。長男の宗玄は美術史家という肩書で登場し、兼子の裁縫箱の思い出を語っていた。母が裁縫した後の針や糸をいつも黙ってきちんと整理するのが好きで、ある日ついにそれが母にわかってもらえたこと、父はとても厳格であったが、その影響を自分は受けているとは思わないといったことなど、身内でしかわからないエピソードがほのぼのと面白かった。次男の宗理は工業デザイナーとして著名で、1998年には『柳宗理のデザイン-戦後デザインのパイオニア-』という展覧会が東京で開催されている。氏の作ったオブジェが民芸館の外に飾られているが、それは父へのオマージュだ。民芸理論を工業化と合致させたところでの氏の仕事は、父親の理想を現実社会に適応したものとして今後も評価が高いことだろう。宗民は園芸家としてよくNHK-TVににこやかな顔で登場する。この映画でも最も笑わせていた。宗悦と兼子がよく大きな喧嘩をしたこと、民芸館の今は駐車場になっている場所は戦争中は畑で、そこで兼子は花をたくさん育て、それが出征して行く兵士たちをとても感動させたこと、民芸館で展示している容器をよく日常に使用していたことなど、どれも母がいかに立派であったかを証明するもので、この映画では宗悦のことはほとんど何も語られず、まるで宗悦が兼子のもうひとりの子どもであったようにさえ感じられるほどだ。これは実際そのとおりであったかもしれない。証言者の2番目は鶴見俊輔で、氏もまた兼子あっての宗悦といったように語っていた。女性の役割を重視する氏にあって当然な意見だが、それだけ兼子は尊敬されて当然でもあるからだ。宗悦を経済的に支える一方、3人の子を育て、しかも声楽家としての自分の仕事も立派に果たし続けた。こんな女性がほかにいるだろうか。成功した男はよくそれが自分ひとりの手柄であるかのように錯覚しがちだが、男の成功の陰には必ず女性、妻の支えがある。男が立派になることは、それだけ妻が立派な証拠と言い換えてよい。そんなことはもう遠い昔の話と言う人があるかもしれない。そうかもしれないが、しょせんいつまで経っても人間は男と女であるから、両者が支え合わねば何も偉大なことは生まれない。