手元に6枚も招待券が集まった。ネット・オークションでは2枚100円でたくさん出品されているが誰も買わない。有名でない画家に対しては人々は冷淡ということがよくわかる。

今朝、たまたまある人のブログを見た。サラリーマンでありながら、とてもたくさんの展覧会やコンサートに出かけていて、読書量も大変多そうだ。この人が『ユトリロ展』の感想を書いていて、筆者と似た意見で好感が持てた。ところが、その内容に対して別の人が反論を書き込んでいる。「展覧会を企画した人の身にもなれ」といった言葉が続いていたが、これを読んで気分が悪くなった。公開している文章に他人がどんな意見を書き込もうと自由であろうが、気に食わないのであれば黙殺すればよいのに、わざわざ相手を懲らしめるつもりで書き込んで、自分の恥を晒すことはない。書き込まれた側がその反論を削除せずにそのままにしているのは、ブログを見る人にどっちの意見が正しいか判断してもらおうという考えか、あるいは削除するとなお執拗な攻撃が待っているかもしれないという恐れがあるからだろう。反論を書いた人のブログを見ると、予想どおりにいやな雰囲気のデザインで、内容もアホらしい。反論を書かれた人のブログとは天地の差がある。こうような十字軍的とも言える勝手な使命感に燃えた、全くのとんちんかんな人が世の中にたくさんいて、あちこちのブログを見ては気に食わない文章に攻撃をしかけているのだろう。ユトリロの絵が面白くないと書くことのどこがいけないのか筆者にはさっぱりわからないが、反論したければ、人々を納得させるようなユトリロ擁護論を披露すべきであって、感情的に書き込めばなおさらユトリロ・ファンはしょせんこの程度と思われるのが落ちだ。それで、また思う。世界的に有名であることを楯にして同調意見を発する調子乗りがいかに多いことか。もし、ユトリロの真作がどこかの日曜画家展に混じって展示されていたとして、まずそれを見抜く人はいまい。ユトリロの絵よりもその背後にある名声を見ているからだ。これは何度も書いているが、今この瞬間にも世の中のどこかには、ユトリロに匹敵するかそれ以上の才能の画家がたくさんいて、しかも光が当たっていないはずだが、そんな画家の絵を前にしても、先の反論者は絶対にそれが素晴らしい絵とはわからない。多くの人々がはやし立て、教科書にも載るようになった有名画家であるという前提があるからこそ、展覧会に足を運び、適当に納得して帰って来る。そして、もしそんな有名画家に対しての「どこがいいのかわからない」という意見を見ようものならば、たちまち食ってかかる。ここにファシズムの芽生えがあると言えばおおげさかもしれないが、自分の意見の背後には確立した名声があるのだという、大樹によりかかるような思いは、見方を変えればファシズムの根本にあるものと同じだ。だが、本人はよもやそんなことを思っていないだけになおさら始末が悪い。
百貨店は何でも売る。百貨店には画廊もあって、現在売り出し中の作家の作品も扱う。作家の方も有名百貨店で個展を開催することを自慢する。この『小杉小二郎展』のチラシを最初に見た時もそんなことを即座に思い出した。だが、画廊ではなくて、入場料を徴って見せるからには、それなりに画家も百貨店も力が入っていて、見所はきっとあるのだろう。そう思って、18日に出かけた。パネルにあった説明をまとめる。「1944年、工業デザイナーの小杉一雄の次男として東京に生まれる。放庵は祖父で幼い頃に墨絵の手ほどきを受ける。最初工業デザイナーの道に入るが、中川一政の絵を見て画家を志し、1970年、26歳で中川の渡仏に同行。1981年、サロン・デ・ボザールに出品して受賞。在仏35年」。ごく簡単な経歴だが、実際これで充分と言えるほどで、ユトリロのようにドラマになってもいいような波瀾はない。また、会場に写真が何点かあったが、世間で流布している芸術家の風貌からは遠く、中学校の先生といった、どこにでもいるような優しい感じの普通の人だ。それが見方によってはまた好感が持てる。近頃持てはやされている芸能人画家などは、芸術家らしい風貌を気にしているのかもしれないが、一生かかってもそんな顔にはなれまい。その点、小杉は奇を衒うところもなく、淡々として見える。これは大切なことだ。売りになっている要素と言えば、叔父に放庵(1881-1864)がいることだ。このように血統がよいことは、一代で名を成そうとするどこの馬の骨かわからない者よりかは、はるかに日本では世間に登場する場合、有利に働く。ところで、出光美術館の放庵コレクションは最大級のもので、2003年には生地の日光にある放庵の美術館でも展覧会があったが、放庵は関西では有名ではない。まとまった画集も目につかず、玄人好みのする画家と言ってよい。手元に昭和8年に出版された「放庵水墨畫冊」があるが、これは以前放庵の何か資料がほしいと思って入手したものだ。扉には「大観老兄 放禿」と墨による書き入れがある。放禿とは放庵のことかどうかわからないが、昭和8年は放庵51、大観が64だ。筆跡は達筆で放庵そのもの、特に「放」はこの画集に掲載されている墨絵の落款にあるものとぴたり同じだ。放庵が大観に献呈した画集がどこをどう回ってか筆者の手元にある。それはいいとして、この画集には20点の水墨画が載っていて、特徴ある放庵の画風を知るには不足はない。筆者はどちらかと言えば、同じ南画系の画家でも芋銭の方が好きだが、それでも放庵の達者な筆捌きとその個性にはまじまじと見入ってしまう。同じような田舎の風景や人物を描いても、芋銭よりもっと洒落ていて、斬新さを感ずる。だが、ここが好き嫌いの分かれ道で、だからこそ芋銭の方がよいとも思える。ま、それもいいとして、この放庵の孫であるから、どんな作品を描くのか誰しも興味は湧く。
放庵は出光佐三というパトロンを得て、洋行までして研鑽を積むことが出来たが、会場の説明にもあったように、放庵は日本に古い文化があることを再認識し、さっさと帰国したそうだ。そんな放庵は孫の小二郎が最初にパリに行った時にはすでにこの世にはいなかった。放庵が死んだ時には小二郎20歳、そして中川一政が97が亡くなった時には47、父一雄の死に際しては54、母の死の時は60と続き、それまでは日本とパリを往復しながら描いていたようだが、この母が94で死んだ2004年にアトリエをパリに移した。放庵と何かと比べられかねない日本にいて活動をするより、むしろこの方がずっと小二郎にとってはいいことではないだろうか。放庵と共通するものがあるのかどうか、それは見る人によってさまざまだが、放庵のようなあまりに手慣れた名人芸は小二郎には全くなく、不器用で朴訥としたように見えるところが取り柄と言ってよい。色調は斎藤真一を思わせる暗さがあって、その点においては日本的情緒がありつつ、たとえばボッシュなどのフランドル派の古い絵画に連なる要素を感じる。このような他者の絵の影響を言えば、もっといろいろあって、たとえば1980年の「壜の静物」は構図がモランディを即座に連想させ、1995年の同じタイトルの絵は坂本繁二郎のうす紫を特徴的に使う描き方を思わせる。さらに言えば1979年の「レンヌの裏通り」のセピアやオーク色を基調とした街角の描写はどこかバルテュス風であるし、2005年の「雪の水道門」や「雪のセーヌ河畔」からは、岡鹿之助を連想しない人はいないだろう。だが、こうした影響はあってしかるべきで、影響を受けない方が無理というものだ。どんな画家でも誰かから必ず何らかの影響を受ける。だが、その影響をどう消化して自分の表現領域で生かせるかが問題だ。小二郎にそれがあるかと言えば、これは確かにある。シュルレアリスムから日本のたとえば熊谷守一まで、あらゆる絵画に範を取りながら、どこかプリミティヴなところに立脚しているところもまた素朴派の創始者ルソーの末裔として見られてしまうという弱点はあるが、そのふらふらとさまよえる様子そのものが小二郎の持ち味と言えまいか。描かれた時代順に絵が展示されておらず、また似た画風のものがたくさんあったので、回顧展と新作発表を兼ねているとはいえ、やや印象が散漫になった。それでも1999年の「ポン・シャトランの工事場」は月夜の道路やダムのあるところに、赤緑黄の3台のダンプ・トラックが小さく配置されて幻想味があってよかったし、2000年の「運河」は土色に重ねる渋い緑青が他の作品にも増して印象的で、黒を決して使わずに描くこの画家の強い色のこだわりを感じた。
会場には振袖を着た女性が4、5人いたが、関係者らしく、パーティを開いていたのかもしれない。画家本人も当日は出ていて、図録を買うはサインをしてくれると宣伝していたが、会場を訪れる人はまばらで、祖父の放庵のネーム・ヴァリューも京都では形なしなようであった。展示されていた最も古い作品は前述の「レンヌの裏通り」で、これに近い作風として1986年の「六区のメトロ」があった。都会の孤独をどこか愛らしさも込めて描いていて、パリに住んで寄辺ない気持ちを表現しているが、日本にいつでも帰ることが出来た中途半端な傍観者的な眼差しが感じられなくもなく、エトランジェも半分だけで、そこがたとえばエドワード・ホッパーのようなもっと徹底して都会の孤独を凝視した絵とは随分違う。だが、傍観者的な甘さが小二郎の持ち味で、それを積極的に評価する人もあるだろう。マチエール作りに関しては70年代のうちに独自のものを修得したようで、現在でもほとんど変わりがない。暗いトーンではあるが補色を用いたハイライトのつけ方はなかなか巧みで、油絵具をうまく使いこなしている。この油彩画で培った色の感覚をそのまま日本画の顔料で描いた作品が出ていたが、あまり感心しなかった。絵具の使い勝手が全然違っているから、いきなり日本画に置き換えても無理が出るのは当然だ。あくまでも油彩画家として進んだ方がよい。同じような理由で、今回の展覧会に際して何らかの新傾向の絵を考えて「百人一首」を1枚ずつ描いたものがあった。書は本人も言うように見るべきものがまだ出来上がっていない。それよりもこの「百人一首」シリーズはまだまだ無理のある絵で、展示しない方がよかったのではないか。小二郎の代表となる仕事は、1990年前後からであろうか、セピア色が支配的な中に赤やオレンジなどの暖色が目立つようになり、夕焼けか朝焼けかは知らないが、明るい色に染まった地平がよく登場するに至ってからの絵だ。そのことがもともと懐かしさをかもす画面に、さらに夢のような回顧的な趣を付与していて、絵の完成度は高まった。ただし、それが駄作の量産につながらない保証はどこにもなく、今回も印象のうすい仕事が混じっていたように思う。今後どのように展開して行くかはわからないが、30年以上の作画の過程におけるこの少しずつのモチーフと描法の変化はかなり歩みが遅いと言ってよい。「いつからか畔道に置かれた石仏のように、立ち止まる人の心に滲み入り、心を和やかにしてくれる…そんな絵が一枚でも描けたら、と思う。うますぎる絵は描きたくない。描けもしない」と、小二郎の言葉が掲げてあったが、このとおりだろう。
ピカソやブラックそっくりのコラージュ作品も何点か展示されていたが、これらはもう少し独自の個性の発露がほしい。古道具屋で仕入れて来たのか、さまざまな道具に部分着色してオブジェ作品にしているものもあった。コラージュの立体的応用とも言えるこれらの作品は楽しんで作っている点で見ていて面白い。1999年からは「聖書物語」のシリーズが始まり、ごく小さなサイズの作品を作り続けているが、フレスコ画風のもの、金泥を背景に塗り詰めた童画タッチのもの、ガラス絵や、また布に描いたものを切り抜いてガラスに貼りつけ、表側から絵具で描き加えたといったように、多彩な技法を動員、また混在させ、よりプリミティヴな画風に近づこうとしている様子が見て取れる。うまく描こうという意識を捨てて、スケッチもあまりすることなく、自分の脳裏にある形をそのまま引き出して描いている感じがしたが、児童画の世界により接近したいと考えているのであろうか。絵とは何かを考えた時、この小二郎の一見笑われかねない画風は重要なものを突きつけている気もする。放庵の先の画集を見て思うことだが、とにかく抜群にうまいが、うまい画家ならいくらでもいる。この事実を越えてなお存在価値のある画家になることを誰しも望んでいるのだが、そのひとつの試みを小二郎もまた自分なりに人生を賭けてやり続けていないとは誰にも言えない。画家も食べて行かねばならないし、教師にならなければ個展という形で作品を売るしかない。百貨店がこのような形で展覧会を開くことも商売としては理解も出来るし、画家にとっては栄光のページのひとつにもなる。しかし、それでもなおフランスで見ればもっと違ったように感じられたのではないかといった、食い入り切れない思いのようなものが残った。そのため、昨日は手元に4枚も残る券の1枚を使おうと思って出かけのに、結局立ち寄らずに帰って来た。