電気がなければ演奏が出来ないと、クラシック音楽好きの知識人がビートルズ人気にいちゃもんをつけたことがある。ビートルズの音楽はという先入観から出た言葉だ。
そういうクラシック好きの人がクラシック音楽を普段聴く時には、電気を必要とするレコードに頼る。電気に頼る生活はその後ますますあたりまえになり、電気を必要としたビートルズの音楽を嘲笑した人がそのことをどう思っているのか訊きたいが、とっくの昔に亡くなっているだろう。先日書いたが、デアゴスティーニから発売されるビートルズのアルバムは月刊ではなく、隔月刊で、それはビートルズの音楽をこれからまとも全部聴こうとする人にとってはちょうどいいスパンだ。それはいいのだが、レコードとなればプレーヤーが必要で、それを持っていない人は別に買わねばならないし、またプレーヤーだけでは駄目で、アンプもスピーカーもいる。以前ネットで読んだが、大きなスピーカーだけネット・オークションで購入した若い女性が、音楽を聴くにはそれからどうすればいいのかわからなかったそうだ。ステレオで楽しむにはなかなか面倒で、60年代にあった小さなスピーカーを内蔵したレコード・プレーヤーが販売されるといいのではないか。音はよくないが、電気さえあればどこでもそのプレーヤーだけでレコードが楽しめる。ラジカセが見直されているのであれば、もっと昔のそうしたレコード・プレーヤーが作られてもいいだろう。それをセットにしてデアゴスティーニがビートルズのアルバムを販売すると、売り上げはかなり増加するのではないか。それはともかく、プレーヤーがなければどうにもならないLPレコードをデアゴスティーニが販売するのは、どういうビートルズ・ファンを想定してのことか。大半の購入者はすでに全アルバムを所有していて、買ってもおそらく一度か二度しか聴かないのではないか。つまりマニア向けで、日本にはそういうビートルマニアがある一定数はいると踏んだことによる企画だろう。今までビートルズの音楽を買ってまで聴くことがなかった人が、初めてまとめて聴くために購入するという割合は数パーセントほどではないかと思うが、そうした人のビートルズの音楽に対する感想を聞きたい気が筆者はしている。晩年の洲之内徹が、日本の若者の音楽やアメリカのジャズのレコードを毎日のように買って、ウィスキーを飲みながら聴き、改めて自分が知らなかった音楽の世界に感動したことを『気まぐれ美術館』に書いていたが、そのことに筆者は多少感動したことがある。長年心の片隅に気を留めながら、なかなか本格的にそのことを掘り下げようとしないことは誰にもそれなりにあるだろう。そしてそういうことの多くは結局何事もなされないままとなるが、洲之内の場合は違って、心に余裕があった。もちろん時間も金もだ。そしてデアゴスティーニのビートルズ・アルバムは、今70歳近く、また昔ビートルズを買ってまで聴かなかった人にとっては、なかなかいい企画だと思う。ビートルズに対して認識を新たにしてあの世に行くというのもなかなかいいではないか。改めてビートルズを聴くことで、1970年以降の日本の音楽がいかにビートルズに多くを負っているかが理解出来るはずで、きっと新鮮な思いに浸ることが出来る。
さて、ビートルズではなく、ザッパの話だ。ビートルズと違って数百人のミュージシャンと演奏したザッパの音楽は、ビートルズの数十倍ほどの、また迷路状の構造を持っている。そういう中に入り込んでうろつくことを楽しいと思う人しかザッパのファンにはなりにくいが、ファンはさまざまで、聴き方も人によって違う。今日筆者はアマゾンで9月下旬に発売されるザッパの2枚組LP『アブソルートリー・フリー』を予約したが、先に書いたように、届いても1、2回しか聴かない。昔買ったLPやまたCDを数百回は聴いているからだが、LP人気が復活している欧米のファン向けの商品として、一度は手に取って中身を確認してきたい気持ちから注文した。来月の今頃にはその感想を書きたいが、今日はアレックス・ウィンターから1か月ぶりに届いたメールの紹介をする。1分前後の映像を5編、YOUTUBEで見られるようにリンクされているが、それらの映像はみな1982年にヨーロッパ・ツアーで撮影されたものだ。撮影者はトーマス・ノーデッグというオーストラリア人で、魚眼レンズをつけてヴィデオ撮影したその映像はザッパ・ファンなら必ず見たことがある。なぜそのような特殊な撮影をしたのかは、ノーデッグがどこかに書いているかもしれないが、ザッパがその撮影方法を気に入り、その映像を最大限に楽しむための特殊なゴーグルを目に装着してスタジオ内ではしゃいでいる映像が『ヴィデオ・フロム・ヘル』で紹介されたし、またそのジャケットにも描かれた。ノーデッグについては先日紹介したアンドリュー・グリーナウェイのインタヴュー本には載っておらず、いかにザッパ世界の迷路が込み入っているかが想像出来ると思うが、一緒に演奏したミュージシャンだけではなく、ザッパをサポートした人、助言した人など、いわばあまり表に出て来ない人に関する情報まで知るとなると、英語力の問題以前にまず時間がないという現実がある。何を言いたいのかと言えば、トーマス・ノーデッグに関して知らなくてもザッパの音楽は充分楽しめるが、知れば知ったでまた内部事情がいろいろとわかって面白いということだ。
今日のメールでアレックスは、ドキュメンタリー作品を作る前の最後の仕事として、トーマス・ノーデッグが撮った映像をデジタル化していることを報告し、またそれらの映像からわずかな部分をYOUTUBEで見られるようにしてくれているが、筆者はその5編の映像を一度見ただけで、1982年のフランスなどでのマザーズが感じた空気が共有出来た気分になれた。ボディガードのジョン・スマザースがコップからビールが飲めない面白グッズで周囲の人をからかったり、またリハーサルの舞台上でレイ・ホワイトがギターを奏でたりするなど、初夏の物憂い空気が漂ってザッパのクルーになったかのような錯覚をする。プライヴェート映像であるだけに貴重で、またそれほどにノーデッグがザッパやマザーズ・バンドの一員として深く入り込み、くまなく撮影したことに感心する。ノーデッグは確か74年から83年までザッパの傍らにいて、160ほどのステージの様子を撮影したが、おそらくそれと同じくらいのステージ以外での動きも撮ったのだろう。その全貌はまだ誰にもわからないが、生前のザッパはそれなりにヴィデオ作品に使用し、またザッパ・ファミリーはアレックスの仕事以前に見て、独自に使うことを考えた。そのため、アレックスが現在デジタル化しているのは初めてのことではないが、アレックスはその辺りの事情については何も書いていない。それはともかく、ノーデッグが撮った映像はザッパ中期の大ドキュメンタリー集であって、それがなくてはアレックスが製作しようとしているドキュメンタリー作品はかなり貧弱なものになるだろう。ここではノーデッグに関して詳しく書かないが、ザッパの周りにはとにかくとんでもなく凄まじい才能が集まったもので、しかもノーデッグの場合はほとんどその仕事が知られることがないという、未発掘の鉱脈がザッパにはまだ埋もれている現実を確認させる。つまり、ザッパの全貌はまだまだ知られることはなく、迷路はさらに複雑化しながら、その内部に光が当たるようになって来ている。となれば、アレックスのドキュメンタリー作品は、ザッパの迷路が迷路となっていることをさらりと伝えるだけのようなものになることは明白で、その迷路を前に喜々として入り込もうと考える人があるのか、あるいはおののくあまりに撤退するのか、そのどちらが多いかとなれば、日本では後者が圧倒することは明白な気がする。ま、それはどうでもいいことで、ファンそれぞれに楽しみ方がある。