イラン人かインド人か、イラク人か、見た目ではわからないが、50代とおぼしき男性が筆者のすぐそばでスマホを目の前に立てて船渡御の様子を撮影している。
外国人にとっても面白い祭りなのか、京都ほどではないにしても、外国人の姿をたくさん見かけた。筆者はOAPの前の岸辺で見たが、そこは6時にはもう隙間がないほどの人で埋まった。そして上流の源八橋辺りからだろう、大勢の人が河岸の歩道を押し寄せ続ける。敷物を持参しなかったので、筆者はずっと立ち、家内は少し離れた花壇の淵に腰をかけた。家内から後で言われたが、家内のすぐ横にいた70代の男性は、祇園祭のチラシを読むなど、大阪や京都の人ではなさそうで、数泊の予定で祇園祭と天神祭を見に来たようであったらしい。長年気になっていた祇園祭を見たついでに天神祭もと考える旅行者は珍しくないだろう。筆者はカメラをかまえて船渡御の船がいつ目の前にやって来るのかと大川を眺め続けたが、20代半ばの浴衣姿のカップルが筆者から5メートルほど先に来て立った。その女性のなかなか色っぽい着こなしを見ていると、彼女は突如振り返り、西洋人であることがわかった。相手の男性はいかにもヤンキーといった感じで、そんな男がどうしてそのような女性といちゃつくのかと少し不思議に思ったが、西洋人の女性が日本の普通の男性を恰好いいと思うことは最近では珍しくないようであることを、TVの番組で最近知った。それはさておき、筆者はいつものようにコンパクトとは言えないほど重いデジカメを持参し、しかもその電池がいつものことのようにすっかり切れているとの表示で、せっかく天神祭を見に訪れたというのに、写真が撮影出来ないことに焦った。もういい加減、カメラの電池切れに関しては大船に乗った気分でいつもいたいが、家内はそれにはカメラを買えと言う。今ならネット・オークションで1000円ほどでそういうものが買えるだろう。それでも買わないのは、今のが壊れないからだ。筆者は壊れるまで使い続ける。それで、単3の電池4本をカメラから取り出してしばらく温めているとまた撮影出来るようになるので、そうしたが、そのことを2、3回繰り返しても電池力は戻らない。真夏であり、筆者が掌で数分程度握りしめていても電池が温まるとは考えにくい。それでついに諦めて電池をまたカメラにセットしてそのまま放置していたところ、10分ほど後に確認すると、どうにか撮影出来るほどに回復していた。そうして結局10数枚撮影したが、今日と明日とでそれらのうちの写りのよいものを載せる。
天神祭に行ってみようかと思ったのは、祇園祭の後祭の宵山に行った翌日だ。だが、それだけのために大阪に出るのはもったいない。それで今週の火曜日の25日、阪急阪神1日乗車券を買って、西宮市大谷記念美術館での展覧会を見た後に行くことにし、午後から出かけた。展覧会はなかなか面白かったが、来場者は数人というさびしさであった。平日で天気も悪ければそういうものかもしれないが、もったいない話だ。展覧会の感想はいつか書くかもしれない。天神祭の様子は毎年TVで放送されるのを見る程度だ。20代半ばに一度、祭りの夜にたまたま桜ノ宮から大川辺りを夜に歩いたことがあるが、それ以外は毎年多少気になりながらも行ったことがない。それで今年は祇園祭の前と後の祭りに行った勢いで天神祭もと思った。雨が降りそうな気配で傘を持参したが、使うことはなかった。雨が降れば天神祭は延期なしに中止となる。花火を5000発ほど打ち上げることも出来なくなるからだろう。それに100隻ほど参加する船渡御の船も日を変えて借りるとなると、とても経費を捻出出来ないだろう。家内の兄は船渡御の船のどれかに昔乗ったことがあるそうだが、しかるべきお金を支払えば経験出来るらしい。その点、祇園祭の山鉾を引くことはどうであるのか知らないが、大阪は商都であって、お金で解決出来ることが京都よりも多いのだろう。それは天神祭の有名企業の仕掛け花火にも言える。それは京都ではあまり考えられない。祇園祭の山鉾の巡行に、有名企業の宣伝用の幟旗がたくさん見られるようでは、伝統のぶち壊しとして非難を浴びるだろう。天神祭では個人で花火を打ち上げることも出来るが、それは京都で言えば護摩木に名前を書いて奉納し、燃やしてもらうことと似ている。いや、同じと言ってよい。天神祭はその名をとおり、大阪の天満宮のお祭りだが、天満宮の参道が日本一長い商店街と言われる、長さ2キロ以上ある天神橋筋商店街で、天神祭は商店と密接につながっている。また、それだけに賑やかで、祭りのイメージどおりの派手さがある。京都のおっとりした様子とは全く違い、元気いっぱいという感じだ。それは昭和40年代から始まったギャル神輿にも言える。祇園祭は今でも女人禁制を敷いている山鉾があるが、天神祭は男女平等の点では先を行っている。ただし、何から何まで女性が参加出来るかと言えば、そうではないと思う。今日の4枚目の写真の中央に写るが、天神祭ではおそらく最もよく知られる、赤くて長い、いや高いと言うべきか、独特の帽子を被った若い男が6人向かい合って太鼓を叩く様子は、男であるから似合う。そこに女性が混じるとややこしいことになるだろう。こんなことを書くと女性から時代遅れの考えでけしからんと言われそうだが、何百年も前から決まっている神事を、男女同権を盾に変えることは誰もが賛成ではないだろう。筆者はその6人の若い男が、太鼓を載せた台座が大きく揺られる中で、見事に呼吸を合わせて叩き続ける様子をTVで見ながら、とても格好いいと思うが、そこに女が混じっていることを想像したくない。
今調べると、その太鼓の叩き手のことを願人(がんじ)というらしいが、6人一組で全部で36名という。TVでは彼らの顔を確かめることは出来ないが、6組が交代で陸渡御と船渡御に参加するのだろうか。また、この主役の6人一組に対して、太鼓を載せている台に願人を指示する別の3,4人がいるが、彼は采頭(さいがしら)と采方(さいがた)と呼び、願人の経験者であろう。また太鼓を担ぐ人たちを舁方(かつぎかた)と呼んで、これは50人が一組で、諸役を含めて600名に上るという。舁方を3年以上経験しなければ願人にはなれないが、当然若い男性にとっては憧れの役割だ。600名は天満宮の氏子から選ばれていると想像するが、その地域の範囲がどこまでかは知らない。2年前の9月22日、筆者は蕪村の生家のあった毛馬閘門を見に行ったが、その時に都島にある
櫻宮のお旅所で練習していた天神祭の囃子を、歩りすがりに聞いた。だが、それはその時に書いたようにたぶん天神祭のための練習かと思うだけで、実際は櫻宮のお祭りかもしれない。今調べると、櫻宮のお祭りは天神祭と同じ時期にあり、だんじりが出る。だんじりの賑やかな太鼓やひちりきは大阪市内ではみな区別がつかないほど似ていると思うが、祇園祭の各山鉾の囃子と同じように少しずつ違っているかもしれない。ともかく、船渡御は櫻宮の前を流れる大川を遡上し、源八橋からまだ少し北へと向かうはずで、櫻宮にとっては境内に侵入されているようなものだが、川はみんなのものという考えなのだろう。また、櫻宮は天満宮に比べるとはるかに小さな神社で、その祭りは地元住民のものという意識が強いだろう。天神祭は日本の三大祭りのひとつとされ、集まるお金の大きさや人の多さが桁違いだが、それでは前述の願人などの600名を包する催太鼓を司る人たちはどこで練習し、また会議を重ねているのだろう。祭りの当日に事故が起こらないようにするには、入念な打ち合わせや練習が欠かせず、船渡御にしても、予行演習が必要ではないか。そこで思い出すのは、もう4,5年前と思うが、国立国際美術館で展覧会を見た後、大江橋に向かって歩いていると、堂島川を遡上する大きな船を見かけた。船尾に男性がひとつ立って踊っていて、その後方に太鼓とひちりきを鳴らす男性もいた。一見して天神祭の船渡御の練習とわかったが、そのひとりで踊る男性を岸辺から見ながら、筆者は胸が躍った。その記憶を現実の天神祭りで呼び越したいと思って、今年はついに出かけた。明日は今日の写真のことも含めて続きを書く。