暴走する心配のない人力による車である祇園祭の山鉾だが、車輪のついているものの方が少ないのではないだろうか。
山は鉾より小さいものと思うが、山でも車輪のついたものがあって、南観音山はそうだが、実際に乗ってみると大船鉾より一回り小さいように感じた。写真で見ると、片側に5人で、前方に3人、また屋根にも数人で、合わせて20人程度が乗るが、身動きが取れないほどのすし詰め状態ではないかと思う。おまけに最も暑い季節で、搭乗者たちはサウナ状態であろうが、祇園囃子を奏でるのであるから、暑さを感じている暇はないだろう。曳き手もしんどいが、搭乗者はもっとで、またそうであるだけに1年に一度の巡行に精を出す思いが増すのだろう。筆者は南観音山に特別の愛着はなく、去年たまたまその近くの町家でTシャツを買ったので、今年もと思った。昔は人間国宝が禅で染めた装飾品を大きな傘に巻いた綾傘鉾を毎年見に行ったが、その付近はとても人で混雑し、足が向かなくなった。その点、前と後の祭りに分けられてからの後祭では、人がかなり少なく、ゆっくりと山鉾を見て歩く気分になれる。だが家内は、前祭に比して、やはり後の祭りはさびしいと言う。それを言ってしまうと後祭に巡行する山鉾がかわいそうで、人の少なさを筆者はかえっていいことと肯定的に捉える。さて、去年も気づいていたが、南観音山が建っている付近には、道沿いに横長のガラスの展示ケースがあり、その中に団扇がたくさん飾られている。これは原画を今は亡き加山又造が描いたもので、どういう経緯で加山が描くことになったのかは知らないが、日本画に関心のある人にとっては、1年に一度はそれを見るのは楽しいだろう。加山がその地域に住んでいたとは思わないが、町内の誰かが有名な日本画家に描いてもらおうと意見し、加山に話を持ちかけたのであろう。それを断る画家はいないはずで、名誉なこととばかりに加山は引き受けたのだと思う。何しろ応挙や蕪村も同じように祇園祭に関係して下絵を描くなどしたから、一流の絵描きでなければ依頼はない。それは歴史ある祇園祭の貫禄というもので、どのような有名画家であっても依頼を喜ばねばならない。
去年は若冲の絵が長刀鉾の胴懸けの見送りとなってお披露目されたが、300年も前に生まれた画家の作品を下絵として拡大して織り上げることは初めての試みのはずで、若冲ブームを象徴した出来事であった。それは現存画家の絵が面白くないということを一方で示してもいる。それはともかく、今年はその若冲の見送りは使用されず、全体に黒っぽい書の見送りとなった。大船鉾の龍頭と金幣と同じく、毎年交互に使用して行くようだが、同じことは前述の綾傘鉾に前例があった。友禅染と西陣織の2種類の懸けものを所有し、それを交互に使っていたが、いつの間にか傘がふたつになって、どちらも毎年使用している。染織品は消耗品であり、100年も経てば新調する必要が生じるが、その頃になればまた才能のある画家が出ているであろうし、あるいは若冲のようにかなり昔の画家の人気が再燃し、その作品を下絵に使って織り上げるであろう。そんな長期のことは誰にもわからず、せいぜい人々は30年か40年の変遷を記憶するが、毎年何らかの変化があるから、祇園祭のファンになっても飽きることはないだろう。筆者は若い世代のように人込みを楽しみに行く気力はなく、気になったことがあれば行くという程度だ。それで昨日風風の湯のサウナ室で久しぶりに出会ったTさんに宵山に行って来たことを話すと、もう3,40年は行っていないとの返事で、京都人であっても嵐山に住んでいる還暦を過ぎた人にとっては、祇園祭はただただ大勢の人にもまれるだけの経験で、何の関心もない様子が伝わった。それは、嵐山は嵐山で松尾大社のお祭りがあるからと言えるが、案外そうでもなく、今では地域の祭りでも全員が関心を抱き、また参加するとは限らない。それで北嵯峨に住むOさんによれば、嵯峨の祭りでは神輿を担ぐ人が足りず、ネットで募集しているという。日本にはお祭り好きの男がいて、彼らは縁もゆかりもない嵯峨の祭りに馳せ参じ、神輿を担ぐという。それは別段悪いことではない。祇園祭も同じようなことをしている。曳き手に学生を使うことは昔からあたりまえになっているし、山や鉾を抱える町内は資金不足と人出不足になっているところが珍しくないだろう。昨日書いたように、米原の彫刻家が大船鉾の龍頭を彫ったことも似たようなことで、京都のしかも山鉾の町内だけではもう祇園祭は立ち行かない。
だが、それでもやはり祇園祭りは古くから存在する市内中心部の町衆がやるものとの矜持があるはずで、それがある限りは祇園祭は安泰だ。そうそう、これは19日にわが家で聞いた話だが、北区に住むその人は、毎年祇園祭の神輿を担ぐという。どういう経緯でそうなったかを訊かなかったが、顔が広いこともあって、つてが出来たのだろう。つまり、誰かの紹介だ。そう言えば、これは阪神大震災の前のことだが、筆者が出品していた公募展に、毎年長刀鉾に搭乗し、また裏方の仕事もしているという出品者がいた。その時も筆者はその男性が長刀鉾とどういう関係があるのかを訊かなかったが、やはり何らかの人のつながりがあってのことであろうと想像した。町衆しか参加させないのではなく、手伝ってもらえるのであれば、誰かの紹介を経て参加出来るといったことになっていると想像する。祭りは結局は人が支えるもので、また人はつながっているからには、祇園祭のような大きな規模になれば、手伝ってくれる人があれば歓迎の立場であろう。そこにお祭り好きの男が乗っかかるということだ。筆者は神輿を担ぎたいと思わず、またその体力もなく、強いて祇園祭に関係したいとは思わない。それで影のようにこっそりと宵山を歩いて、搭乗出来る山鉾があれば乗ってみようとする。それもかなりいい加減なもので、今後毎年搭乗可能な山鉾を踏破しようというマニアの心境にもなれない。暴走せず、静々といった心境で、筆者もようやく京都人らしく染まって来たのかもしれない。