昨日、足立美術館には1300点の作品があると書いた。書き忘れたが、その中にはあまり知られていない地元画家の作品もあるかもしれない。
館蔵品すべてを収録した画集があるのかどうか知らないが、京阪神の美術館や百貨店で開催される足立美術館展の出品作の数はせいぜい100点ほど、しかも有名画家のものばかりであるので、他にどんな未知の作品が所蔵されているかわからない。バスが美術館に到着した時、まず広々とした駐車場のすぐ隣に平屋の大きな和風の建物があった。これがてっきり美術館かと思ったがそうではなく、それとは直角の方角に位置しつつ、ずっと奥まったところに白っぽく鉄筋コンクリート造りの建物が見え、ガイドの誘導によってそれが美術館であるとわかった。建て増しが続いたためか、館内部は曲がりくねった廊下によって展示室がつながっていて、館内図を見るとまるで蛇か龍のような形をしている。そのところどころに、ミュージアム・ショップ、ロビー、それにふたつの喫茶室などがある。玄関を入ってすぐの受付には、駅の改札口のようなチケットを挿入する機械が3台ほど横並びに設置されたゲートがあって、ひとりずつその狭いところを通って中に入る。下車直前にバス・ガイドは、「今日は美術館では音声ガイドをひとり1台ずつ無料で貸してくれます。作品の説明をしている声の主は、何とか鑑定団というTV番組で登場している男の人で、聞けばきっとおわかりになると思います」と言ってくれた。ゲートから中に入ってすぐの場所で、案内嬢は首からぶら下げる小型機器とイヤフォンを箱の中からひとりずつ取るようにと指示し、次に簡単に機器の説明をしてくれた。最近の美術館では500円ほどで音声ガイドのイヤフォンと端末機を貸すのが常識化しているが、500円は馬鹿らしいので借りたことはなかった。今回初体験が出来た。入場者すべてが無料で貸してもらえるのではない。他の溢れる団体客を見ていると、むしろほとんど誰も機器を持っていなかった。筆者らだけがパック旅行代金に機器の料金が含まれていたようだ。なるほど、イヤフォンから流れる作品説明の声は、同番組に持ち込まれた作品のその背景の事柄などを説明する、声質のよい男のアナウンサーによるもので、説明もあまり長くないため、耳障りではなかった。手元にその音声ガイド番号表があるが、1「足立美術館と日本庭園」、2「小展示室」、3「大展示室(橋本関雪展)」、4「大観室(横山大観常設展)」と分かれ、全部で30作品の説明が電波で流されている。この順序どおりに展覧したが、館内の展示はこれだけではない。正面入口すぐ近くに陶芸館が連続していて、1階は河井寛次郎、2階は北大路魯山人の展示室となっているし、館なかほどの喫茶室付近の幅広廊下両側は童画展示室となっていた。つまり、この美術館には童画や彫刻、漆器などの工芸品も所蔵され、随所に展示されていた。絵画以外は常設展示のようで、彫刻は平櫛田中の木彫りや、観音像の同じく木彫りのレリーフが館内に、そして雨に晒されて大丈夫なブロンズは屋外の軒下といった場所に展示されていた。漆の家具調度品が受付を過ぎた最初に出会うまとまった展示物として、廊下片側の陳列ケースに整然と並んでいた。その工芸コーナーを過ぎると、右手を真横に上げて立つ等身大の足立氏の銅像の置かれる小庭が見える。手をかざす方向に進めというわけだ。この銅像はいやみには見えず、むしろ微笑ましかった。この程度の自己主張はこれほどのコレクション公開であれば当然で、むしろ控え目過ぎると言ってもよい。
銅像を過ぎて廊下を何度か曲がると童画室に至る。これは意外であった。こういう作品の所蔵があるとは予想しなかったからだ。みな比較的小さなサイズで、数もさほど多くはない。原画と比較出来るようにと、絵本も少し置いてあった。足立氏の趣味であろうが、子どもが来ても楽しめることを考えるのであれば、こうした工夫はあってしかるべきだ。また大人にとっても童画はすでに立派に美術館で鑑賞されるものという認識が確立しているから、この展示を喜ぶ人は少なくないだろう。武井武雄しか知った名前がなかったが、武井の作品は晩年の昭和47年に描かれた「読書会」が展示されていた。秋の虫がそれぞれ本を手にして集まっているところを暖色で描いたものだ。「童画」という名称は大正14年に武井が「武井武雄童画展」を開催したことで知られることになったもので、その後昭和2年に川上四郎らとともに日本童画家協会を結成した。これに続く世代は林義雄、鈴木寿雄、黒崎義介、井口文秀たちで、昭和初期より「コドモノクニ」「キンダーブック」を中心に活躍した。彼らは昭和36年に第二次の日本童画家協会を結成する。筆者は幼少期に近所の家で「コドモノクニ」や「キンダーブック」をたまに見たことがある。その造本の手触りや表紙の印刷の色具合、中に掲載される童画や切り絵に一種独特の世界を感じたが、貧乏だった筆者の家庭ではそのような本1冊すら買う余裕はなかった。本といえば、8のつく日の夜に近くの商店街の横道で開かれる夜店に出かけ、少年月刊誌の付録となっていた「鉄人28号」や「鉄腕アトム」といった粗悪な紙と印刷で出来た漫画をせいぜい買ってもらえる程度であった。そのため、「コドモノクニ」「キンダーブック」は今でも懐かしいと言うより、むしろ拒否したい気持ちがある。子どもが創造力豊かな大人になるためのファンタスティックな世界を大人が描いていたと言えば聞こえはいい。だが、むしろ喜んでいたのは、子どもたちにそういうアク抜きしたきれいな絵の世界を提供して満足している当時の大人たち自身ではなかったかと思う。今思うのではなく、当時すでにそう思ったのだ。語彙は少なくともそんな感じを抱いた。つまり「嘘っぽいもの」と思ったのた。むしろ、ロボットの腕がちぎれ飛んだりするシーンがふんだんに登場する「鉄人28号」や「鉄腕アトム」にリアリティを感じた。そして実際そうであったろう。戦後から間もない頃に登場した「鉄人28号」や「鉄腕アトム」における「破壊」のタームは、「コドモノクニ」「キンダーブック」に描いたどの画家たちよりもはるかに現実を見据えたものであったと思う。そしてまだ小学校低学年の子どもですら、そういうことを非常に敏感に感じ取るものなのだ。筆者が「コドモノクニ」「キンダーブック」に描いた童画家たちの作品を、ひとつの表現として虚心に鑑賞出来るようになったのは、40を越えた頃と言ってよい。そして、今なら漫画のどこが下劣で、童画のどこに芸術性があるかもよくわかる。ま、それはいいとして、足立氏にとっては童画は案外自分の青少年期を思い出させるものであったのかもしれない。ついでに書いておくと、武井武雄は明治27年生まれで昭和58年死去、足立氏は明治32年生まれで平成2年に亡くなった。計算すると、足立氏の方が6年長生きして95で死んだことになる。
童画室の奥へ進むと一旦外に出て、「生の掛軸」が見られる茶室寿楽庵に突き当たり、それを横目にして昨日写真を掲げた広い庭を見、そしてまた屋内に入って階段をのぼって2階の展示室へと誘導される。まず小展示室だ。「かがやき」と「きらめき」とテーマづけられていて、栖鳳が5点、川端龍子の、切手にもなった有名な「愛染」屏風、榊原紫峰の金箔地に赤、白、緑を基調に琳派風に描いた2曲1双屏風「秋草」、入江波光の小品「鶉」、そして珍しいことに都路華香の銀と墨で描いた掛軸「竜吟雲起図」などがあった。「愛染」は以前はいつ見たのかあまり記憶にないが、今回初めてよさがわかった。それはイヤフォンから流れる説明のせいもあるかもしれない。絵に説明文は添えられいないので、この音声ガイドは作品のことをより詳しく知るにはとても便利なものであった。「秋草」もなかなか立派な作品で、これを紫峰は27歳で描いている。紫峰は昭和に入って次第にもっと冬に近い雰囲気の、渋い色合いの絵ばかりを描くことになるから、この華麗な画面は若さの象徴に見える。華香の1点はこの部屋では場違いな雰囲気すら漂わせる滑稽味を持っていて、しかも他の誰も描けないような、力強くて人間味濃厚な味わいがある。見る角度よって、龍を縁取った図太い銀泥の輪郭が沈んだり輝いたりして見え、これがまたとても面白かった。この美術館は華香の弟子の溪仙の若い頃の力作も所蔵しているが、こうした異端的な近代画家の作品をもっと収蔵、展示してくれればと思う。華香は栖鳳門下の四天王の弟子のひとりだが、前にも書いたことがあるように、どういうわけか日本、いや京都ですらまともな評価がなく、作品を見る機会はほとんどない。さて、隣の大展示室は小展示室の5、6倍ほどの広さがある。橋本関雪展が開催されていた。関雪もまた京都の画家だ。島根でこういう展示が見られるとは予想もしなかったが、久しぶりにまとめて関雪を見た。25点であるので、全貌を知るということにはほど遠い展示かもしれないが、この程度の数が最も鑑賞にはよく、1点ずつが記憶に残りやすい。大正2年作の6曲1双屏風の「遅日」は有名だ。人物、馬、藤の花の3つが非常に達者な筆使いで描かれている。絹の裏から金箔を貼っているので、いかにも5月の光溢れる昼間の様子が伝わる。文人画家の系譜を引く関雪は溪仙とはライヴァル関係にあって、関雪は溪仙を無学呼ばわりして馬鹿にし、喧嘩になったこともある。関雪がそういう傲慢ぶりを露にしたのは、その学識と天才的な画才からすれば理解出来ないことはないが、本当の文人とはそんな傲慢を越えた心境に達しているものではないだろうか。足立美術館は溪仙の作品をほとんど所蔵しないようで、関雪により重きを置いていることがわかるが、筆者の好みを言えば、断然溪仙がよい。溪仙の絵はへたに見えても、それは表面上のことであり、むしろ丹精に描かれた関雪の絵にわずかな破綻を見て取って興ざめになる。絵がうまいとは何か。これを考える時、関雪と溪仙を比較するとよい。関雪と溪仙は全然異なる作風で、どちらも実にうまいが、より楽しい気分になれるのは、文句なく溪仙なのだ。だが、これは個人の生理的な資質によるもので、両者の優劣はつけられない。
最後に大観の作品だけを展示する部屋に導かれる。6曲1双屏風から掛軸まで17点の展示だ。作品については説明するまでもないだろう。足立氏が大観の作品に惚れて、機会あるごとに買い集めたことは伝説になっている。そんなエピソードが1階ロビーのパネルでいろいろと説明されていた。それは何年も前にも読んだことのある文章だったが、何度読んでも面白い。終戦直後の心斎橋の焼け跡のバラックで、日の出を描いた大観の「蓬莱山」という掛軸が8万円で売られていた。この時、関雪の「富士」も同額だったという。船場の土地が坪3000円の頃であるから、8万円がどれほど大金かわかる。足立氏はこの出会いをきっかけにして大観の作品を収集し始め、150点ほど集めたが、洋画も収集していて、それが損失をもたらしたため、大観の作品の半分を手放したこともあるそうだ。そのためか、この美術館には洋画は展示されていない。しかし、どんな洋画を買ったのか興味のあるところだ。足立氏の収集エピソードに戻ると、北沢コレクションが大観の名作をたくさん所有していて、それが売りに出されたことがある。10数点を入手するために、1年半通って8億円で買ったが、途中で相手は「夏(海十題のうちの1点)」と「雨霽る」を外してくれと迫り、これに対して足立氏は、「枕金まで払ってさあ床入りしようと思った矢先、女に枕を持って逃げられたようなもの」と言って相手に泣きつき、結局入手したとのことだ。好きな画家のほしい作品を目の前にしてのこの情熱は、筆者にはよくよく理解出来る。筆者も大金があれば絵画収集に奔走したい。足立氏が大観を好んだのは性格的なものからであろう。学はなくても一代で財を成した人物にありがちな豪放さを足立氏は持っていたと思う。美術館に入ってすぐに気がついたが、部屋の各隅には太い幹の墨が生け花のように鉢に入れて置かれていた。湿気を取るためもあろうが、むしろ足立氏の商売の象徴に思える。島根をバスで走っていると、断層が見える崖がしばしばあった。それらは一様に赤土色で、鉄分が多いことがすぐにわかった。そしてガイドはこんな説明もしていた。「島根のどじょうすくいで有名な民謡の安来節は、本当はどじょうではなく、砂鉄をすくい取る作業に由来しています」。島根は昔から鉄の産出で有名だが、これは誰しも知るように、古代に遡る歴史を持っている。だが、明治に入って輸入洋鉄に押されて、島根特有の木炭を原料として砂鉄を溶解させる「たたら製鉄」は、1923年にすべて閉山し、製鉄師は家庭用の木炭製造に転職した。だが、これもプロパンガスや灯油が普及する昭和30年代以降には壊滅してしまい、職を求めて県からは人口流出が続いた。この島根の悲しい歴史を知ると、足立美術館のことがより理解出来るだろう。足立氏は木炭で稼いだお金をせっせと美術品に変えたのだ。それが今では地元の重要な観光資源になっている。何ともいい話ではないか。足立美術館は季節に応じて展示替えを行なうが、ぜひとも一度、いや、一度と言わずに四季折々にこの美術館や美しい島根に訪れることを勧める。