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●足立美術館 その1「庭園」
今朝は8時に起きた。昨夜、今日やるべきことをぼんやりと決めた。その中に裏庭の合歓の木を剪定することがまずあった。目覚めた途端にそのことを思い出した。



木を切るには最も寒い2月がいいと聞いたことがあるが、今年は今でもそのような寒さだ。それで、葉っぱもすっかり落ちて丸裸になっている木を見上げながら、どこをどう切ってやろうかとしばし眺めた。剪定の知識などない。ただ、隣の庭を越境しないように、不格好でもとにかく伸び過ぎている枝を適当にのこぎりで間引く。以前にも書いたが、この合歓の木はわが家の狭い庭では最大の木で、3メートル以上の高さがある。さきほど作業を終えたが、幹が太くなって、地上2メートルの二股に分かれた箇所に立ってもびくともしなかった。嵐山公園の桂川沿いにぽつんと1本だけ合歓の木が昔から立っている。20年前にその種子を拾って帰って、鉢植えで育て、そして2年ほど経ってから直か植えした。その時、合歓の木が水辺を好むことを知って、なるべく裏庭のすぐ向こうに流れる小川の方向に、よく伸びている枝が将来向いて育つようにしてやった。そのためもあってか、本当にすくすく育った。今では嵐山公園の親木とあまり大差ないほどの幹の太さになっている。人間と同じで、20年も経てば木も一人前だろう。毎年1、2回の剪定であるから、どうにかやる気にもなるが、これがもし月1回となればとても面倒見切れない。先日訪れた足立美術館の広大な庭では1年に10回も庭師が樹木をきれいに刈り込むという。その映像が館内で映っていた。それでも、たとえばつつじなどの低木を饅頭のように丸く刈り整えることを年に10回もやるというのは、決まった形どおりに刈り取ればいいのであるから、まるで人間の散髪と同じで、最初にその場所にその木を持って来た庭師の才能は別として、あまり創造的な仕事とは言えない。それで連想することは、足立美術館は近代日本画壇の巨匠たちの作品を1300点所蔵するが、コレクターだった足立全康が全部決めて買ったものかどうかということだ。もしそうならば、それは定期的に庭木を刈り込むだけの庭師とは違って、創造的な仕事と言える。自分の気に入った画家の絵をいろいろ買い込み、その中から季節などに応じて自分の所有地に建てた美術館に並べる。その光景は飾る絵の選択や配列によって自在に変化するから、いわば絵による庭造りだ。そして、足立氏が世を去った現在、絵が買い足されているのかどうかが気になる。もしそうでないならば、後に残された人々はそれこそ刈り込み専門の庭師同様、ただ現状をそのまま永遠に繰り返すだけだ。それはそれで意義のある行為だが、美術館がもっと積極的に生きた活動をしようというのであれば、まだまだ作品は買い続けるべきだろう。庭の維持管理にお金がかかるとはいえ、かなり儲けているように見える美術館であるので、どんどん作品を増やしてさらに大きな存在になってほしいと思う。
 足立美術館の収蔵品の展覧は、京阪神でも今までに何度も開催されて来た。一番新しいところでは去年、いやもう一昨年になるが、春に京都高島屋で『足立美術館の魅力展』と題して開催された。そのチラシ裏面の説明文冒頭はこうだ。「足立美術館は1970年秋、島根県安来市に開館しました。実業家、足立全康氏らが自ら収集した、横山大観をはじめとする近代日本画と陶芸などの魅力的をコレクション、神々のふるさと出雲の豊かな自然を借景にした1万3千坪の広大な日本庭園で知られます…」。この時の図録は買わなかったが、1983年に心斎橋そごうで開催された足立美術館収蔵による『横山大観展』で買った図録が手元にあって、その中に挟まれた何枚かのチラシの1枚に、この美術館の案内チラシがある。印刷の具合やデザインの雰囲気からして、1970年代前半のものだろう。『山陰の名苑 出雲路で観る生の掛軸』と題されている。見開いた中の文章に、「この美術館の庭園は、造園の権威大阪芸術大学教授中根金作先生の設計監督になるもので、尼子、毛利の古戦場である勝山、月山などを借景に、滝口、溪流、池をもって構成された庭景は豪壮、優雅なたたずまいをみせています。又、玄関および苔の庭園は京の庭匠小島佐一翁の造園によるものです…」とある。このチラシは題名も文章も、収蔵作品よりも庭の宣伝にかなり重きを置いている。「生の掛軸」とはどういう意味かと言えば、訪れて初めてわかったが、茶室寿楽庵の壁が掛軸の形にくり抜かれていて、向こう側に庭が絵のように見えることに由来している。そしてこのことが足立美術館の特徴のすべてを言い表わしていると言ってよい。つまり、庭は絵のようにただ眺めるものであって、人がその中を歩むものではないのだ。館内には「生の額絵」という場所もある。それも同様のことで、空調が利いた館内の大きな横長の窓ガラス越しから庭が絵のように見える。ガラスのすぐ近くには大きな樹木が1本立っていて、それが近景となり、丸く刈り込まれた低木群が中景、そして遠景として向こうに広がるゆるやかで低い丘や林がある。これは一応はさまざまな角度、しかも四季折々に楽しめる庭の光景をベストな位置から観てもらおうという配慮で、それなりに美しいのは確かだが、それ以上でも以下でもなく、何か物足りなさが残る。実際この美術館に滞在した2時間程度の間に、ガラス越しではなくて庭を観られたのはただの1回のみで、しかも当然角度は限定されている。下に掲げるのがその時に撮影した写真だ。庭の中を歩き回ることは許されないから、欲求不満が生じる。
●足立美術館 その1「庭園」_d0053294_18170249.jpg
 たとえば京都に二条城や平安神宮ではそうではない。広い庭の中を木々や庭石を眺めながら自分の思う速度で歩むことが出来る。なぜ足立美術館の庭がそうではないのか。恐らく次々とやって来る観光客の中には不届きな連中もいて、庭を台なしにするかもしれないからだろう。その生悪説に立ってかのような足立美術館の方針が何となく面白くない。早朝の栗林公園の中を散策した時のことを思い出すが、それは生涯忘れ得ない楽しい経験だった。自分の足で広大な庭の中を歩き回ると、その間は自分が庭の主に思えるのだ。いくらきれいに整えられた庭でもただ決められた場所から、しかもガラス越しがほとんどという状態で眺めるだけでは、絵を観ている方がはるかにましだ。絵とは、眺めながら、その中を歩むものだ。絵のような庭が絵と比肩するためには、絵と同じように、その中を歩める必要がある。これを足立美術館はわかっていない。アメリカの日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」が日本におけるベストな庭を毎年決めていて、2005年の発表において、足立美術館の庭園が全国693か所の中で3年連続で日本一に選ばれた。このことは去年秋のネット・ニュースで知った。そのことも今回山陰旅行する理由のひとつになったのだが、庭に関しての門外漢のつぶやきを言わせてもらえば、アメリカ人はいったい日本の庭の本当のよさをわかっていないのではないかということだ。正直な話、翌日、雪降る中、大根島の由志園で見て、そして歩き巡った庭の方がはるかによい思い出となった。庭は大きさではない。きれいに刈り込むことだけが大事でもない。足立美術館の庭が回遊式として造られていないと言えばそれまでの話で、ならばなぜ回遊式として造らなかったかが問題だ。禅寺の小さな枯山水の庭ではなく、その何百倍もの面積のある広大過ぎる庭であるのに、わずかな一角からしか見せないのでは、美人を遠目に、しかも小さな針穴から眺めるようなものではないか。
 前述した一昨年の春の京都高島屋における足立美術館展では、大きなスクリーンにデジタル・プリントした庭の四季の様子が効果的に宣伝されていて、とにかく庭を鑑賞するためにぜひ訪れてほしいと力説していた。その立場は美術館の開館以来変わっていないと言える。その努力の甲斐もあって、アメリカの庭園雑誌で高い評価を獲得し続けているわけだ。雪の多い地方であるので、京都とは違って雪景色の庭も堪能出来るという点も評価の高い理由のひとつではないかと思う。こればかりは地理的条件であるので、温暖な地域の庭ではどうしようもない。それに借景の問題もある。足立美術館では遠くに山が見えるが、この山が無闇に姿を変えられないように、足立美術館の持ち物になっていると小耳に挟んだ。この点も京都に庭はかなわない。京都はとにかく歴史はあってもせせこまし過ぎるのだ。足立美術館は遠くを山に囲まれた平らで広大な土地の片隅といったところにあって、美術館がなければ何もないところと言ってよい。その何もないところに造作を凝らした庭が出現しているのであるから、訪れる人の感心の度合いはいやでも大きくなる。京都の場合は、庭を訪れる前から心の準備がかなり出来ている。そのため、感動が大きくはならず、むしろ、「何だこの程度か」という失望が生じる方が多い。これも足立美術館が得をしている理由と言える。山陰の地理には疎いこともあって、足立美術館は車がなければ行くことの出来ない不便なところにあるとずっと思い込んで来たし、それは実際そのとおりだが、地図を今改めて見ると、先日書いた大根島のある中海の南の畔にあるJR安来駅から南西に車で15分ほどのところにある。前述の『山陰の名苑』というチラシでは、訪れる方法として、米子、安来、松江からの一畑定期バスの記載しかない。山陰道の高速道路がいつ開通したのかは知らないが、JR安来駅南に安来インター・チェンジが出来たことによって、一気に近畿からも訪れやすくなった。旅行会社がパック・ツアーを企画するようになったのも当然この高速道路の開通があってこそ可能になった。それにしても、足立美術館が庭園の美を大いに宣伝するのは理解出来る話だ。絵は持ち運びが可能だが、庭はそういうわけには行かないからだ。それに所蔵絵画が近代の京都画壇が主となれば、京都に住む者としてはわざわざ訪れるまでもないと思うから、庭をこそ前面に押し出す必要があるだろう。しかし、その自慢の庭も大阪や京都の庭の専門家の手によって設計がなされたことを知れば、結局みな上方に負うしかない関西の田舎文化の実情が再確認出来るし、一種の悲哀を感じないわけには行かない。だが、たとえば柳宗悦が島根の民芸という形で見出したように、島根は島根で立派な、他県には土着の文化がある。それこそをもっと見たいと思ったが、都会に住む者の勝手な意見であって、島根に住む人は都会に憧れがあるのだろう。足立全康が横山大観の作品をたくさん収集したのはそれはそれとして、地元島根の芸術家にもっと関心を抱いて、そういう人々の作品の収集や育成に力を入れていたのであったならばと思う。せめて足立美術館の一角にそういうコーナーがあってしかるべきではないだろうか。それは県などの公的機関がやるべきことであって、個人は蓄財の意味も兼ねて大家の作品に目が行くのは仕方のないことという意見もあろう。しかし、そういった大家の作品に比べて、地元出身のあまり有名でない画家の作品ははるかに安いはずであり、その気さえあればいくらでも収集出来る。しかし、大家の作品がよく揃っているから、遠方から観光客がたくさん訪れるようになったとも言えるから、足立氏の成したことは立派なことには違いない。いつも言うように、お金が潤沢にあっても絵を買うことに関心のない人の方がはるかに多い。山陰に足立氏ありしと言うべきだろう。
by uuuzen | 2006-01-10 12:18 | ●展覧会SOON評SO ON
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