漫然と日々思いつくことを綴っていてもつまらないが、書き手がそうなら読者も同じはずで、もっと目的を持って書かねばと思いながら、相変わらずの多忙で、気分の切り替えが難しい。
それに時間もない。また暑さも激しくなって来た。1階に移動して仕事をしていることは先日書いたが、ブログは3階のデスクトップ・パソコンでと決めている。それはキーボードが慣れていることと、画像加工のソフトが1階のノート・パソコンには入れていないからだ。画像の加工だけ3階でして、文章は1階で綴るとなると、画像の転送など、面倒だ。それで、3階へは日中の暑い盛りの時間帯では行く気にならず、日付が変わる頃を待つ。だが、わざわざブログの投稿のために3階に上がるのは、思い切りが必要だ。それは気分を改める、引き締めることでもあって、そういう時間を持つことは精神的にはいいことのような気がする。そうでなければ弛緩し放っしで、たがが緩む気がする。そうでなくても加齢に伴なってそうなりがちだ。一昨日だったか、53歳の主婦が夫を殺して交番に三度自首してようやく逮捕されたニュースがあったが、驚いたのはその女性の顔だ。とても53には見えなかった。また男のようで、人生いろいろを目の当たりにした。幸福はみな似ているが、不幸はさまざまとトルストイは小説に書いたが、全くそのとおりだ。その幸福はたいていの人は金をたくさん持つことと思っているが、これもネットにあったことだが、1000万の収入以上の年収があっても幸福度はそれほど増さないという。欲には切りがないからだ。そのため、幸福度を測るには、あまり欲を持たない方がいい。欲が分母で、分子が収入であったと思うが、分母が小さいほどに幸福度が増す。筆者も家内も収入に関してはもうとっくにあきらめているから、気分は穏やか、つまり幸福度が高いと思っている。ほしいものがないわけではないが、もう一生充分に聴くことの出来ないCDや読み見切れない本があって、筆者はほしいものがほとんどない。時間はほしいが、これは仕方がない。そして、遺された時間を最も満足の行くように使いたいと思っているが、それは今の長年の仕事が終わればまた友禅の作品を作ることで、そのための心づもりを少しずつしている。金がほしいとか有名になりたいと思うのは、若い頃はまだかわいいものだが、ある程度の年齢になれば、そういう欲望でギラギラしているのはとても格好悪い。そしてそういう人とは話をしたくない。だが、夫婦であってもそのように価値観が合うとは限らず、それで離婚も多い。筆者は昔、友人から「大山が貧乏であることに平気であっても、奥さんに苦労させるのはどうか」と言われたことがあった。筆者はそのことに対して黙ったが、どのような夫婦でも夫がたくさん収入を得ることが奥さんの幸福かと言えば、それは違うだろう。奥さんが夫よりたくさん稼ぐことがあってもいいし、また夫が金に縁がなくても、ほかのことで妻を満足させられることもある。それに、夫が金を稼ぐことが妻や子のためと思う姿を、どのような女でもいいとは思わないだろう。それに、よくある話だが、外で働く夫は何かの拍子に妻に、「誰のおかげで生活が出来ていると思っているのだ」といったことを口にする、あるいはその素振りを見せることがよくあるが、そんな夫がいくら多くの金を稼いで来ても、妻は夫を尊敬するだろうか。筆者が女なら、金を稼ぐことしか夢のない男とは一緒に暮らしたいとは思わない。これは稼ぐ能力のない駄目な男の言い草かもしれないが、金をいくいらたくさん稼いでも、ま、たいていの人は死ねばそれで終わりで、生きて来た証は何も残らない。つまり、他人に記憶されない。筆者は他人に記憶されたいとは思ってはいないが、筆者がある故人を知るよすがとなるものは、記録された何かによってで、そのことを思うと、筆者が記録した何かを100年後に誰かが何かを感じるだろうとは信じている。そして、そういうことを思って生きた人に、いくら年収があったかなど、記録はされず、また誰も気にしない。
今日は家内の父親の月命日で、家内は高槻に行って来た。そしていつもと同じく、兄や妹と駅前の居酒屋で食事をして来たが、いつも気になるのは、家内は多少精神が高ぶって帰宅するが、あまり面白い顔をしていないことが多い。今夜もようで、面白くないことがあったようだ。何が原因か筆者はよくわかっているが、きょうだいのことであり、あまり口を挟まない。今夜家内が言うには、同じ母親から生まれて来ても何とみんな考え方が違うのかということで、筆者は「あたりまえや」と答えたが、家内にすれば意見が合わずに面白くなかったのだ。意見が合わないというより、話題がことごとく合わないのだ。それは収入の差による生活ぶりの差と言ってよいが、実際は違う。家内にすればろくでもない話が面白くないのだ。それは筆者と長年暮らして来て、筆者と考えが似て来たからだ。それで筆者は今日は家内が昼間いないことをいいことに、ステレオで久しぶりにシューマンのピアノ曲のCDを3枚聴いたことを言ったが、家内はとても面白いからその話をもっとしてくれと言う。家内の兄や妹はシューマンの名前くらいは知っているが、その音楽をまともに聴いたことがない。妹は四半世紀前に娘にバレエを習わせたが、その時筆者が家内に言ったことは、バレエを習わせるのであれば、まずは母親がクラシック音楽のバレエ音楽を多少は愛聴する必要があると言った。家内は妹にそのことを言わなかった。言っても否定されるのがわかっているからだ。それで結局妹の娘はバレエを数年で辞めたが、母子ともにクラシック音楽のCDを1枚も買ったことも聴いたこともないはずだ。親にそのような気持ちや教養がなくても、子が立派な芸術家になることはあるが、それはかなり珍しいことだろう。そう言えば、筆者は家系では突然変異と言ってよい。筆者の母方にも父方にも芸術を理解する者は皆無だ。なので、筆者は全くの人生の破綻者と思われている。また、それが当たっているので筆者は返す言葉がないが、そういう筆者に家内は長年のうちに染まって来た。シューマンの話をし始めると止まらないので、家内はいつの間にか横で居眠りをしているが、芸術のことならほとんどどんなことを訊いても筆者が留まるところを知らないほどに語ることを、家内はそれなりに楽しんでいる。そういう夫婦もあるのだ。先に53で夫を殺した女性のことを書いた。その顔は将棋の駒のように四角く、また仏像のようにむっつりとしていたが、彼女がそういう人生を歩むことになったのは、本人だけのせいだろうか。夫婦であったからには、半分は夫のせいでもある。夫がろくでもない人間であったのか、あるいは単にその女性がそうであったのかはわからないが、たぶんどちらもそうだろう。年齢よりかなり老けて見えるほどに、その女性はもう人生が面白くなかったのが、日々を楽しく過ごしている人は、年齢に関係なく、若さがある。そしてそういう人は金のことばかりを思って毎日過ごしていないはずだ。話をシューマンに戻すと、彼は45で死んだ。筆者はその年齢から20年も生きて来た。もういつ死んでも文句は言えない。それはいいとして、シューマンの音楽を聴いていると、19世紀後半のドイツの空気を吸っている気分になる。またシューマンの知性と激情を思って筆者は心に雨を降らせる。そう言えばここ数日雨の日が多く、昨夜は予備のために満月の写真を撮ろうとすると、厚い雲にはばまれてほとんど見えなかった。今日はまた昨日よりひどい豪雨で、雷がひどかった。それで今月の満月の写真は無理かと思っていたが、夜10時半過ぎに少しは雲が途切れて来たような気がした。そう思った時、パトカーと救急車がサイレンを鳴らしてやって来て、わが家のすぐ近くで止まった。その少し前に女性の悲鳴が何度か雨の音に混じって聞こえたが、何か事件が起こったのだろう。それで様子を見に外に出ると、救急車に人が運び込まれるところだった。あまりじろじろと見るのも気が引けたので、救急車の前方に歩き、空を眺めると、ちょうど雲の隙間から満月が顔を覗き始めた。その時に撮ったのが今日の最初の写真で、振り返って撮ったのが2枚目の救急車の前方の写真だ。夜が遅いこともあって、筆者と警官以外には誰も現場におらず、筆者はどうにか今月も満月の写真が撮影出来たことに満足して家の中に入った。