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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●気分のバイオリズム
先月23日は京都コンサートホールのチケットを送ってもらっておきながら、出かけることが出来なかった。



その前日はとんでもない大雪で、23日にはそれもかなり溶けたが、コンサートホールのある北山ではまだたくさん雪は残っていたろう。あのあたりは中京よりもぐんと冷える。当日のコンサートは昼の2時に開演で、ソプラノ歌手のソロ・コンサートだった。夜であればまだ時間も取れたかもしれないが、残念なことをした。チケットを送ってくれたのは西村ゆりさんで、音楽活動を通じたボランティアで京都市から表彰もされたことのある有名な人だ。コンサートに行けなかったことをメールで謝ろうとしたが、そんな用件を簡単なメールで済ますのは何だか軽々しい感じがして、気になりながらもやめにした。となると年賀状しかない。だが、その年賀状も30日になってどうにかわずかな枚数のみが投函出来たことは先日書いた。それがいつ届くのかと思っていると、今日は西村さん宅からそう遠くもないところに住む妹宅を訪れたところ、まだ筆者の賀状は届いていなかった。となると西村さんにも届いていない。これはまずい。賀状の最下段で、コンサートに行けなかった非礼を詫びておいたが、1日に届かなければ、何だか心底申し訳なく思っている雰囲気も減少する。23日は、時間が許せばそのコンサートとともに、当日が最終日であった高麗美術館での企画展を観ようと計画を立てていた。結局それも駄目になった。何事も予定したとおりに行動出来ると気分がよいが、全部が全部そういうことにはならない。いや、むしろ予定したことの半分も出来ればよい方だ。それは欲張った予定を立てるせいでもない。ただ怠惰なだけだ。それでも、やるべきことの切り換えがなかなかすぐに行かないことはある。これはたぶん気分のバイオリズムのせいと思うが、てきぱきとやればすぐに済むものでもいつまでもぐずぐずしてしまい、そのうちに1日が終わる。とはいえ、いつも書いているように筆者の就寝時間は深夜3時過ぎだ。TVはほとんど見ないから、常に何かごとごととやっているのは確かだが、それでも予定していることの半分もこなせず、悔いばかりがどんどん積もって行く。そんな悔いを年末には少しでも減らしたいから、ホームページ作りの仕事にしてもかなり根を詰めた。
 今こうして新年が明けて、つい先頃の成就しなかった予定を思い出してみると、コンサートホールに行けなかったことや、もうひとつ数か月間も気になりながら、そのままになったことを思い出す。それは桂に住むピアノ調律師のYさんが年に3回発刊しているダイレクト・メール用に依頼されている文章『甲日堂日月雑感』だ。Yさんは正月に年賀状代わりに毎年出していて、12月に入れば電話かメールで文章の依頼があると心づもりをしていた。ところがいくら待ってもそれはなかった。こちらからYさんに連絡してもよかったが、気になりつつもせっせとほかのことをして忙しかった。文章は1日で書けるので、クリスマス頃に連絡が入っても間に合うと思っていたが、結局それはなく、昨日はダイレクト・メールも届かなかった。そのため、ホームページに掲げてあるように、『甲日堂日月雑感』は第1回しか書いていない状態だ。ブログでは毎日原稿用紙にして10数枚の文章を書いている。『甲日堂日月雑感』はその3分の1程度だろうか。もし書くとすればブログには書かない話題で、しかもなるべく音楽や芸術に関することにしようと思っている。Yさんには年賀状を出しておいたが、返事がどう来るかで、事情がわかるだろう。これは下世話なことになるが、Yさんによれば、ピアノ調律の仕事も激減しているそうだ。当然世間の不況と関連があって、一部で3000円程度で調律をする業者が現われ、業者間で潰し合いが生じている。3000円とはどんな調律をするのか知らないが、調律不要の電子鍵盤楽器からすれば、3000円でも高いと思う人はいるだろう。ピアノを単なる家具のひとつ、また子どもにピアノを学ばせることをちょっとした学びごと程度にしか思っていない親は、世間的に格好をつけることの道具としてピアノを考えているのが関の山であろうから、ピアノが定期的に調律を必要とすることには大いに不便を感じていることだろう。ピアノが日本中の家庭に浸透する以前か、あるいは並行してか、大きな家具風デザインのステレオがよく売れた時期がある。そういうステレオを買う家庭の大半は長年レコード針はそのまま、しかもLPはせいぜい数枚しかない。ものの数年もすればステレオにスイッチが入れられることもなくなる。ステレオがそうであるならば、ピアノはもっと推して知るべしだ。邪魔物扱いされたあげく、安値で引き取られ、工場で修理された後、もっぱらアジア諸国に売られる。みんながよく知るように、ピアノ買いますのTVコマーシャルは今でも頻繁に流れている。まだまだ家庭に眠ったままになっているピアノがあるはずで、それは今までに売れた台数の統計数値と業者が修理して売った台数と比較すればおおよそ推察出来るはずだ。
 日本で用済みのピアノがそれなりにまた直されて海外に行くのは「もったいない主義」からすれば、とてもいいことだ。大型ゴミとなってやがて壊され、産業廃棄物扱いで地面に埋められるよりはるかにましだ。だが、調律師も含めてピアノに関係するさまざまな日本の業者としてはそうも言っておれない事情はあるだろう。調律師がいったいどれくらいいれば妥当なのかは知らないが、一時期急速に増えたのであれば、それがまた減少して行くのはやむを得ないし、むしろ正常なことだ。今まで好景気の時が異常だったと思うしかない。筆者が携わる友禅界も同じようなものだ。質か安値かという永遠の問題がどんな製造業にもあって、大儲けした後、不景気が訪れればさっさと商売替えしてしまう、安値をモットーに品質がどうでもいいようなものを量産し続けた業者がある。だが、不思議なもので、そうした大手を振って歩く業者ほど宣伝にも金をかけるから、何も詳しいことを知らない、また知る必要もないと思っている一般人は、質のよしあしは有名かどうかだけで判断してしまう。ブームが去って、儲からなくなった世界には、相変わらず同じ仕事をこつこつとし続ける少数の人々が存在するが、その人たちに光が当たって、少しくらいは経済的に潤うという夢物語はまずほとんど訪れない。むしろ、ブームが去った後の業界は荒らされるだけ荒らされて無残なものだ。ああ、このまま書き進めると徹夜しても話が終わりそうにないし、暗い話に進行するので、ここでやめておく。ただ、Yさんが相変わらずそこそこにしても仕事をし続けていることを願う。筆者の『甲日堂日月雑感』など、Yさんにとっては何の足しにもならないかもしれず、とかく客をつかむのは難しい。筆者も同じことで、宣伝などしたことはないし、名刺に「友禅」の文字すら記入したことがない。それに名刺を誰かにわたすことなどもう何年も記憶にない。店の看板を掲げ、肩書きをやたら名刺に印刷してちょっとした小さな会社を経営しているような人物像に自分を置くことを拒否したい思いでやって来ているから、今の自分の境遇には満足している。小さな会社の社長がそこそこの収入に自惚れて勝ち組を自認したところで、世間では数十億を動かしてどうのこうのと言う連中がたくさんいる。何を勝ち誇りたいのか知らないが、だいたい収入を自慢するような奴にろくなのはいない。下品を顔して恥を世間中に晒していることがわからないから愚かだ。これ、負け惜しみでは全くなく、本気でそう思う。
 さて、年末に悔いとなったまま残ったほかの事柄はまだまだある。年末とは不思議なものだ。たった1日しか変わらないのに、大晦日の夜は大きな節目となって見え、もう去年のことという過去形で眺めることになる。そのため、12月末頃という時期は何だかほかの日に比較して損をしている気がする。30日だったか、新聞の京都欄の片隅に、染色の大家の北野月乙氏の死亡告知が載った。正月明けの今日あたりに葬式を出すのかどうか知らないが、年末でみんなせわしない気持ちでいる中、業界では有名なそうした先生が亡くなっても、普段より話題になりにくい気がする。京都市芸を出た、筆者の知る染色家はみんな葬儀には出席するだろうが、筆者は面識もないし、作品のみで氏の風貌を想像するのみだ。亡くなったという報せに驚きはしたが、実感はない。京都の染色の先生方はみなかなり高齢まで活躍されていて、氏は81歳だったろうか、やはり高齢の部類だろう。昨日の話題につながるが、髪の白が目立つようになった筆者もさていつまで生きるやらで、今日は妹宅を訪れてそんな話題にも花が咲いた。「いつまで生きるからわからへんから、生きていられるんやで」と妹や母は話していたが、そのことを小耳に挟んだ時、『本当にそうかな』とも思った。家内の妹の旦那の兄さんが高槻市内で長年寿司屋をしていたが、先月ついに店をたたんだ。暇になったからではない。むしろその反対で忙し過ぎて、体を壊したという方が正しい。体調がおかしいので病院でじっくりと診てもらうと、癌がかなり進行していることがわかった。余命は1年弱で、それなら店をたたんで、後は家族で旅行など好きなことをして過ごそうと決めたらしい。このケースなどは、余命がそこそこわかっているからこそ充実した人生を送ろうという決心がつく典型だ。同じようなことを病気でない人も考えてみるべきではないか。後10年しか生きられないと、取りあえず思ってみる。そして、その10年を毎日悔いのないようにしっかりと計画を立てて生きる。10年が無事に過ぎれば、また10年、いや5年でもいいが、死亡時期の想定を延長すればよい。つまり、『死を思って生きよ』ということだ。現実は健康な人はそうは思いにくいが、死は一歩ずつ確実に迫っているのは紛れない事実で、1日ずつをつまらない気分で過ごすのは大いに損なことだ。だが、最初に書いたように、誰しも躁鬱病ではなくても気分のバイオリズムがある。何となく面白くない気分の時期は訪れる。そんな時に悔いとなって心の中に残っていることを思い出したりする。筆者にとって今夜はそんな時かもしれない。
by uuuzen | 2006-01-02 23:56 | ●新・嵐山だより
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