冷夏になるような思いもしたが、予報では明日から酷暑になるという。それででもないが、2週間ほど遅らせていた仕事場の引越しを今日した。
だが去年のようにデスクトップのパソコンを1階の最も涼しい場所に移動するのは面倒なので、必要なたくさんのファイルを1階のノート・パソコンに転送し、去年と同じ場所にそのパソコンを置くことで引越しは完了した。それで、このブログは相変わらず深夜に3階のデスクトップ・パソコンで書くことにするつもりでいる。多少は涼しくなるからだが、深夜の2時頃になっても30度を下がらない夜はきっとあるはずだ。そんな日はまたその時に考えることにして、今日は去年と同じようにアジサイの花を切ってガラスの花瓶に活け、それを座っている場所のすぐ右手に置いた。去年投稿したその写真を今見ると、なかなかアジサイの花も葉の色もよいが、今年は写り具合がよくない。去年撮ったカメラは普段よく使っているコンパクトなもので、その電池が一昨日肝心なところで切れてしまい、今日はムーギョに電池を買いに行くつもりが、1階を多少整理したこともあって、行きそびれた。それでそのカメラは使えず、一眼レフを持ち出したが、その方が写りがよくないのは、筆者のカメラ操作が悪いからだろう。アジサイはまだ枯れ始めたとは言えないが、それでも去年と比べて2週間も経っての撮影なので、元気さは劣る。アジサイの剪定の仕方は難しいように思えてほとんど毎年そのままにして来たが、今年は頭の高さほどのところに花が咲いて、遠めには見栄えがよくない。それで背丈をうんと縮めると来年は開花しなくなるから、今年はなおさら剪定が難しいが、思い切って形を小さく整えるつもりでいる。それはもう10日ほどした頃と思っているが、花(実際は萼)が裏返って白く見え始める頃が目安のようだ。アジサイで思い出したが、今年はアジサイの変わった園芸種をあちこちで見かけた。ガクアジサイの園芸種と言った方がいいが、萼が小さな4枚ではなく、八重でしかもかなり大きい。アジサイとはわかるが、全く別の花にも思え、筆者はあまり好きになれない。だが、園芸店では新種としてもてはやされているのだろう。そうでなければ各地で頻繁に見かけない。園芸種はいわば雑種で、異なるものをかけ合わせていいところだけを抽出しようとの考えは、たとえばイチゴに見られるが、人間のつごうばかりで生物を作り変えていいものかどうか、場合によっては疑問に思う。
そう言えば、日本では黒人と結婚する女性も増え、スポーツ界では相撲も含め日本人には見えない若い混血を見かけるようになった。昔なら「クロンボとの混血」と陰で非難され、今もそれは変わっていないはずだが、ずば抜けた能力があるので一目置かれて歓迎されるのであって、そうでない混血は卑屈になるよう仕向けられるのではないか。そう想像すると、そうした混血の人の置かれる立場の厳しさが浮上する。いいところだけを求めようとする園芸種の花も同じで、そこには何となく悲哀がこもっている気がする。またそう見てしまうから、珍しい園芸種を見るのは多少つらいところがある。というのは、そういう園芸種は飽きられればまた違う品種が作られ、忘れ去られるからだ。同じことはペットの犬や猫にも言え、昔大いに流行ったスピッツを全く見かけなくなったのは、結局は飽きられたからだ。飽きるから新鮮さを求めるのだが、島国の日本は絶えず日本に飽きて混血を求め続けて来たと言ってよく、黒人との混血が増えることは自然の流れかもしれない。ブラジル人は混血しているほどそれが自慢と聞くが、日本もそのようなことになって行くのかもしれない。また、そのことに危機感を抱く人が純粋な日本というものを目指し、たとえば教育勅語を子どもに強制的に教え込もうとするのかもしれず、花や野菜の混血はよくても、人間は純血でなければならないと思っている日本人の方が圧倒的に多いだろう。あるいは、欧米の白人と混血するのは大歓迎だが、蔑視の対象の隣国人とは話もしたくないと思っている。その隣国からかつては文明や文化を受容し、おそらくかなり混血もしたはずなのに、あるいはそうであるがゆえに、なおさら欧米人との混血を希求すると解釈すれば、話の筋が通っているよう見える、つまり、日本人は世界のあらゆる人種との混血を1000年単位で実行し続けていると思ってよい。
そうであるからたとえばヨーコ・オノがジョン・レノンの「イマジン」の歌詞の大部分を書いた、あるいは着想を与えたこと納得が行く。「すべての人よ、国境はないと思ってごらん」という歌詞は、日本人でなければ思いつかなかったかもしれず、そこにすべての人種との混血を目指す日本人の遺伝子の働きがあると見ればどうか。もっと言えば、それは平和主義で、排他的ではないということだ。日本にいる外国人は悪いことばかりするのが多いという意見がよく発せられるが、罪を犯す割合は日本人と変わらないか低いだろう。外国人であるので目立つだけで、またマスコミは目立つように報道する。悪いことをしてやろうと日本にやって来るのではなく、やむにやまれない事情があり、また白い目で見られないように健気に生きるのが大多数の外国人であると思うが、日本は世界でも最も移民には冷淡な国で、そこには優越意識が働いている。それは人間として醜いが、醜い者ばかりがひしめき合って生活すれば、その意識を自覚することがない。人間とは本来そういうものだ。アジサイに話を戻すと、わが家のアジサイは昔、確か宇治に住む下の妹宅から切り花をもらって来て、その茎を挿し木して育てたものだ。それはたまたまであり、多くの品種から求めたものではない。また長年育てると愛着が湧き、昔はほしかったガクアジサイも今はほとんど関心がない。わが家の庭にある植物はたまたま縁があっだけのものばかりと言っていい。人間関係も同じように思う。SNSで興味が共通する人と出会いやすくなったが、筆者は自分と同じ関心や興味のある人と知り合いたいとはあまり思わない。むしろそうでない人の方がいい。それに筆者の関心事に同じくらい関心を持っている人は世の中にとても少なく、出会わないと思っている。それはさびしいかもしれないが、そのさびしさを埋めるためにこうして誰もほとんど読まない、あるいは読まれても非難されることを書いているのだろう。とはいえ、無反応であっても縦横無尽に勝手なことを書くことは気分がいい。勝手に咲くアジサイもきっとそうだろう。