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●『魅惑の17-19世紀 フランス絵画展』再訪と没チケット
25日の最終日、また大阪市立美術館に出かけた。今度はゆっくり見ようと思って3時半に着いた。前回の3倍の時間がある。にもかかわらず、また最後の部屋はまともに見る時間がなかった。



●『魅惑の17-19世紀 フランス絵画展』再訪と没チケット_d0053294_19432775.jpg人はあまり多くなかった。そのため気分よく鑑賞出来たが、ゆっくりとし過ぎたのか、90分かかって70数点ほどしか見なかったことになる。前にも書いたが、これは1点1分少々であるので、鑑賞時間としては多くはない。1点仕上げるのに1か月以上もかかったような大作を、1分も見るか見ないで通り過ぎるのは、絵に対して失礼というものだが、1分どころか現実は10秒も見ないでみんな次の作品に移動して行く。それで考えるのはたとえばこのブログだ。毎日熱心にこうして書いているが、まともに読んでくれるのは多分2、3人もいればいい方だろう。おそらくひとりいるかいないかのはずで、たったそのひとりのために毎日書いて行くつもりだ。あるいはたとえゼロでも仕方ない。とにかくこうして書くのが面白いのでやっているだけで、誰かが読もうか無視しようが関係ない。だが、17世紀から19世紀のフランスの画家とそうではなかった。描いた絵をお金に変えなければ食べて行けなかった。そんな仕事は心がまえが違う。面白くないブログが多い理由は、そのような切羽詰まった様子がないからだ。簡単な日記という形式のために登場して来たブログであるので、筆者のような長い文章はブログの常識から逸脱していて、きっとそのためもあって誰しも敬遠すると予想するが、誰もがやっている常識にしたがわない長い文章であるからこそ、また意義があるとは言えまいか。取りあえずはそう思っている。
 会場に入ってすぐ、水商売風の60代のおばちゃんがいろいろ感想を言いながら連れの女性と熱心そうに見ていた。「えらい暗い絵が多いなー、一体ヨーロッパの人はどんな心をしてるんやろかなー、日本の浮世絵とは全然違うけども、時代はどのくらい離れてるんやろかなー、細こうに描いたーるけど、なんやこう、もうひとつピンとけえへんなー…」。声がよく響き、はた迷惑なところがあったが、普段はいかにも美術と無縁の生活をしているようなこのおばちゃんの発言はなかなか面白かった。たぶん誰かからチケットをもらい、義理もあって仕方なしにやって来たのだろう。最初の部屋では一緒だったが、すぐに次々と見て行ったに違いない。それっきり姿を見なかった。このおばちゃんの意見にあった「暗い絵」というのは、ある1点を指してのことではない。油絵具で描かれた17世紀の絵全体が暗く見えたのだ。これはある意味では当たっている。それに反旗を翻して19世紀に印象派が登場し、画面は一気に明るくなった。そしてそれは浮世絵からの影響も少なからずあった。したがって、おばちゃんが最後の部屋でどう思ったかだが、だんだんヨーロッパの絵も明るくなって来たことに気づいたことだろう。今回は全部で8つのコーナーの後半について書こう。前述のように、混雑はしていなかったので、この展覧会はあまり成功しなかったと察したが、別の日にたくさん訪れていたかも知れず、本当のところはわからない。だが、「こんにちはクールベさん」のみではやはり目玉に欠けたと思う。コーナー4は「ドラクロアとピトレスク絵画」だ。ドラクロワ(1798-1863)の「室内のアルジェの女性たち」が見物としてチラシにも印刷されている。この絵は1969年の京都での『ドラクロワ展』にも来た。当時大阪から見に行き、図録も買って今手元にあるが、ドラクロワは先のおばちゃんが言うような「暗い絵」が多く、筆者はファンにはなれないままで今まで来た。このコーナーにはシャルル=ヴァシェ・ド・トゥルヌミーヌ(1812-1872)の「小アジアでのトルコの女性たちの散歩、日の入り」という作品が目を引いたが、これは第2帝政下のオリエンタリスムの示す絵で、1863年のサロンで国家買上げとなった。ドラクロワにもオリエンタリスム指向は濃厚にあって、その点で人気が高くもあるが、これと後のジャポニズム隆盛とはある意味ではずっとつながった動きであり、そのことを日本から見れば、直接日本と中東やアフリカを結ぶ歴史がなかったので、あくまでもフランスのオリエンタリスムを通してそれらの地域を見つめるものであって、二重の異国感と思える奇妙な感覚を絵に対して抱きがちになる。つまり、オリエンタリスムの絵画はそれなりに面白いが、その面白さはフランス人が感じたものとはちょっと違うのではないかということだ。フランスに対してのオリエンタルは日本にとっては距離から言えば中国奥地あたりまでになるが、そんな比較は出来ないので、第2帝政下のオリエンタリスムはどうも縁遠いものに思えてしまう。
 5の「バルビゾン派とアカデミズム派」は全部ブリュイアス・コレクションだ。バルビゾン派は日本で何度も展覧会が開かれているで今さら言うまでもないが、コローは新古典主義の影響、ルソーはロマン派の影響を受けている。このコーナーの珍しい見物はアレクサンドル・カバネル(1823-1889)だ。モンペリエ出身の19世紀後半のアカデミズム派の人気画家で、前衛であった印象派とは敵対した。同じくモンペリエ出身で物語画家のオーギュスト=バルテルミー・グレーズや、レアリスムの画家オクターヴ・タセールの絵もこうした地方美術館ならではの出品作だ。印象派絵画ばかりが並ぶ展覧会に飽き飽きしている目からすれば新鮮だ。タセールの絵は放蕩して帰郷して来た娘を迎える母親を題材にし、当時も今も都会対田舎の構図も人間の欲望も変わらないことを示し、その点できわめて現代的な絵に思えた。6「クールベと南仏の画家」はこのタセールを受けた形のコーナーだ。1850年12月30日から翌年3月31日までのサロンは「レアリスム初のサロン」と呼ばれ、その中心がミレーとクールベであった。ミレーの作品も来ていたが、これは述べるまでもない。「こんにちはクールベさん」だが、これはブリュイアスがクールベの1853年のサロン出品作「浴女たち」と「まどろむ糸つむぎ女」を購入したことをきっかけに、クールベが翌年5月から9月にかけてモンペリエに滞在して描いたものだ。1855年の万博に出品されたが、絵の中のクールベがブリュイアスに対して尊大に見えるという意見を耳にしたブリュイアスは12年間も人に見せず、1868年にモンペリエに寄贈した。そのためではないだろうが、保存はきわめてよく、また色も明るく、クールベの代表作のひとつとしての貫祿は充分だ。この絵のブリュイアスの緑色の上着を着たクールベの自画像も展示されていたが、ふたりが親密であったことがわかる。クールベ作品としてはほかに有名なパイプを口にして読書する「ボードレールの肖像」があった。ガラスが嵌められておらず、間近で鑑賞すると絵の表面が生々しかった。
 7「バジールと印象派の時代」はバジール(1841-1870)に主に光が当てられていた。バジールはモンペリエ出身の、普仏戦争に従軍して若くして死んだ惜しい画家だ。1874年の第1回印象派に参加出来ずに終わったが、残されている絵を見ると、もし長命であれば印象派がさらに多彩な絵を残したことは確実で、それほど技術も感覚も素晴らしい。「牡丹と黒人の女性」(1870)は牡丹の花の豪華さと右手の黒人女性の肌の黒さの対比が印象的で、きわめて力強く、また画面も独自の重厚さと明るさがある。マネの有名な「オランピア」の影響は確実だが、「身づくろい」(1870)や「路上で歌うイタリアの少女」(1866)はマネとはまた違った、もっと体臭の感じられる風俗画となっていて、印象派の中では独自の位置を占めたであろうことが想像出来る。日本でも有名なラファエル・コランの作品も来ていて、彼がモンペリエ出身のカバネルのアトリエで学んでいたことを知った。意外にもモンペリエはフランス絵画で重要な街とわかる。8「カリエールからマティスまで」はまともに見なかったので印象はうすい。カリエール(1849-1906)は大原美術館にも所蔵されるように、日本では古くから絵が紹介されていてそれなりによく知られている。靄のかかった水墨画のようなモノクロームの油彩画が多く、主に女性を描くが、何の影響を受けてそのような特異な絵をよく描いたのかは知らない。彼のアトリエから「マティスなどフォーヴが輩出した」と説明があったが、これはモローが死んだ直後の1898年、パリのレンヌ街にあったイタリア人経営のアトリエにカリエールが毎週指導に来ていて、マティスは一時期そこに通ったことを示している。マティスのフォーヴ期は1900年以降であるので、この1890年代末期はマティスにとっては揺籃期の最後であったことになる。今回来ていたマティスの「黒いナイフのある静物」(1896)は、まだそうしたごく初期の比較的暗い画面であった。珍しくシャルル・コッテ(1863-1925)の絵も来ていたが、ゆっくり鑑賞する時間がもうなかった。
●『魅惑の17-19世紀 フランス絵画展』再訪と没チケット_d0053294_151258.jpgさて、これは別の展覧会だが、始まる1か月も前にチケットを入手しておきながら、12月になって有効期限が11月末までであることに気づき、泣く泣く没にせざるを得なかった。『フランス近代絵画展』で、「戦火をくぐりぬけた名品たち!」とある。チケットのルノアールの「水浴する女性」(1915年頃)は、1966年に盗難に遭い、その後美術館に戻って修復されたが、その修復過程も写真で紹介されたとのことだ。チラシの文章を少し引用する。「2003年、ユーゴスラビアはセルビア・モンテネグロと国名を変更し、新たに民主国家として出発しました。…1999年のNATOによる空爆、2000年のミロシェビッチ政権崩壊、今に至るコソボ紛争など、政情の不安定が続きました。…1844年に、セルビアとその周辺の文化遺産を収集、保存、研究を目的に創設されたこの美術館の核のひとつになっているのが、フランス近代美術です。…今回は老朽化した建物の前面改修に伴う一時閉鎖を期に、セルビア・モンテネグロおよびベオグラード国立美術館の全面協力を得て、約100点を展覧するものです…」。出品作家はお馴染みの印象派の画家を中心に38名で、比較的珍しい名前を挙げると、ギース、カサット、ヴァラドン、カリエール、フリエス、スコンザックなどで、ヴァン・ドンゲンやドローネーの名前まである。印象派は別に見なくてもよい気がするが、ヴァン・ドンゲンだけはぜひ見たかった。前にも書いたように、こうしたフランス近代絵画の総花展などに、ごくたまに、しかもわずかにヴァン・ドンゲンの作品が混じって来る。だが、日本ではあまり人気がないため、前面に押し出した宣伝はされない。期限が切れてはいるが、よほどチケットを持って会場まで行って談判しようかと思ったが、規則は規則ということで断られるであろうからやめておいた。2枚を1500円ほどで買ったのにもったいないことをした。大阪に巡回してくれるならばいいが、どうもその様子はない。それにしても『魅惑の17-19世紀フンラス絵画展』と時期を同じくしてのこの『フランス近代絵画展』で、日本はなぜこんなにフランス絵画ばかり見たがるのだろう。もっとドイツ絵画も見せてくれと言いたい。されはさておき、もうひとつチケットをもらっておきながら、奈良の飛鳥までは遠いので行かなかった展覧会があるが、これは書くまでもないか。
by uuuzen | 2005-12-30 23:53 | ●展覧会SOON評SO ON
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