遅くまで起きていることに慣れてはいるが、ここ数日は目が疲れている。以前はあまりなかったことだ。去年の秋に右目の半分の視界が真っ黒になり、慌てて眼科医に駆け込んだ。
その後、完治はしないものの、あまり気にならない程度にその黒い影は小さくなった。だが、目が疲れやすくなって、また再発するような気がしている。目が疲れるのはパソコン画面の見すぎだろう。それに本を読む時でも部屋が暗いままで平気で、たまにそれが気になってカーテンを引いて部屋を明るくするが、基本的に日中でもカーテンを閉め切って光を入れない。そんな具合では視力を弱めても当然だ。パソコンのモニターは3階で使っているオンボロの方は、画面の半分ほどが薄暗くなっていて、もう寿命だ。全く同じタイプのモニターをもう2台中古で買って持っているので、そのどちらかと交換すればいいものを、面倒でそのままにしている。つい2メートルほど離れたところにその1台を置いてあるのに、それと取り換えるのが面倒臭いとはよほど筆者はずぼらだ。部屋は本や書きとめた紙などで溢れ返り、気になった本や資料を探す時はまるで大事な約束事を果たすためにどこかへ出かけるような気分になって、それなりに時間も要する。時間がかかっても探し物が出て来る場合はいいが、何年も気になりながら出て来ないものがいくつもある。1週間ほど前、そうしたものとして1冊の本を思い出した。ネットで調べると、古本屋やオークションで簡単に手に入る。1000円足らずで送料込みで買えるので、昨夜は注文しようかと思ったが、今朝目覚めると、その本を持っていることを思い出した。それを探すのと買うのとではどちらが手っ取り早いかと言えば、当然買う方だ。2日もすれば家に届く。だが、今朝筆者はその本をすぐに確認したくなった。それがどこにあるかだが、だいたい予想はついた。最初の場所を探すと見当たらず、それで隣家に行くと、そこにもない。また3階の仕事場に戻って調べ直したが、やはりない。『なんだ、持っていると思ったのは間違いか』と思い始めたが、昨日書いたらっきょうの酢漬けと同じく、絶対に持っていると思い直し、また探した。すると1メートルほど積んだ本の山の下の方にその背表紙を見かけた。やはりあった。2日待たずに済み、また金を使わずに済んだ。その本は筆者が27歳の時の『芸術新潮』1978年4月号で、それをどこで読んだかあまり覚えていないが、京都市中央図書館か、あるいは染色工房に貸本屋が届けてくれる本としてだ。たぶん後者と思うが、読んだことはよく覚えている。そしてその号を古本で買ったのは、10年ほど後であったと思う。その目当ての文章を今日は39年ぶりに隣家に持参して読んだ。今日は気温がぐんぐん上昇し、読んでいると手足が暑さで痛くなったが、気分はよかった。目の前にあるのは筆者だけの空間で、読むのをやめて本の向こうを見ると、野鳥が次々と飛来し、葉の間で鳴く。熊蜂がブーンと飛び、揚羽蝶が忙しく合歓木の赤い花の蜜を吸い回り、蛙の鳴き声もよく聞こえる。ひょうたんを植えれば、読んでいる雑誌の表紙に印刷される若冲の「池辺群虫図」とそっくりだ。蟻はまだ話題になっている火蟻はいないはずで、裸足で庭を歩いても大丈夫だろうが、雨が降らないためにうなだれている蕗の葉を踏んでしまうのはかわいそうだ。
昨日書いたが、隣家の裏庭を眺めることが好きで、その庭の日差しに面して読めば楽しいだろうと思った。その庭はとても小さいが、固定資産税を払っている筆者個人のものだ。誰にも見せていないが、見せられるようなきれいな庭や部屋ではないからだ。他人に覗かれる心配はなく、また植木は全部筆者が剪定しているので、それなりに筆者の思いが入っていて、以前に何度も書いているように、庭の片隅に小さな石燈籠を置きたいとも思っている。カメラを持っていたので、上下2枚に分けて撮影し、つなぎ合わせたのが今日の最初の写真だが、写真に撮ると全然見栄えも風情も違う。視界に入るほぼ全景で、いかにしょぼいかがわかるが、小さい空間でも、風は通り、多くの雑草やまた虫や鳥など、次から次へと見て飽きることがない。右手の黄緑色は楓で、左上の奥は合歓木だ。中央の暗がりは数種の木が戦っている。ぼんやりとそれらを眺めているのが楽しいが、今日は久しぶりにまた『芸術新潮』の楽しい文章を読んだので気分はとてもよかった。思えば当時のその雑誌は読み応えのある文章が多かった。大人向きであったのだ。筆者がその雑誌を読まなくなってもう10数年経つと思うが、ヴィジュアル優先でほとんど文章と言える文章はないように思う。長くて面白い文章を書く人がいなくなったのだろう。絵は見ればわかるという理屈かもしれない。だが、見ることにかけてはネットがもっと便利だ。39年前のその雑誌を再読して思ったことは、今読むことでなおよくわかるという、あたりまえのことだが、これは若者に言ってもおそらくわかってもらえない。ネットにはそういう人の意見が多い。いや、それだけと言ってもいい。それでネットはつまらないと筆者はよく思う。マスコミの偏向を指摘し、ネットこそが公平と書き込む人がたくさんいるが、ネットの方が思想を誘導出来る。ネットではこんな意見が大勢を占めているではないかと思っても、その大勢は体制側が操作したものであることはあり得るどころか、ほとんどそうだろう。ネット時代になって権力者は却ってつごうがよくなった。マスコミがマスゴミであれば、ネットの数行の意見はもっとそうで、読むだけ時間の無駄だ。今日はいい文章を読んだので改めてそう思った。もちろんそれは長文で、読むにもそれなりの時間を要する。明日は雨になるというが、雨は雨で楽しく、雨に濡れる庭を見ながら読もうと思っている。そのため、雑誌は座っていた場所に置いて来た。