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●『小さな骨の動物図展』
『もの派-再考』を見るために国立国際美術館内部の長いエスカレーターを下り切った時、はたと思い出した。正面の奥にヘンリー・ムーアの「エッジ」という大きなブロンズ彫刻が立っているが、ここを訪れる時は必ずこの彫刻をスケッチして来たのに、手ぶらで出かけたため、スケッチブックや鉛筆を持参しなかったのだ。



●『小さな骨の動物図展』_d0053294_033884.jpgムーアは骨をよく研究して作品の形に応用したが、この「エッジ」の随所にも確かに骨を思わせるカーヴが多用されているし、横から見れば刃のようにうすく、全体が骨のようにも見える。それはいいとして、館内をひととおり見て外に出た後、とても寒かったが、四つ橋筋に出てそのまま南下し、この『小さな骨の動物図展』を見るためにINAXギャラリーまで歩いた。6時まで開いているのを知っていたので、徒歩で行っても30分は見られると踏んだが、結局20分前に着いた。2、30年前はよくこの四つ橋筋を梅田から難波あたりまで歩いた。本町の靱公園は当然今もそのままあるが、四つ橋筋に面した部分がみな穴を掘り返したままにしてあった。それに公園の奥には青いビニール・テントが見えたが、きっとホームレスが何人か住みついているのだろう。ここはいつも静かで訪れる人が少ないし、片隅にホームレスが住みつきやすい。天王寺公園を締め出されたホームレスは行き場が少なくなって困っているからなおさらだ。今年は予想に反してのこの寒さであるから、ビニール・シートの中はじっとしていれば骨の中まで凍る思いだろう。国立国際美術館からINAXギャラリーまでは4キロあるだろうか。肥後橋までとにかく歩き、そこから地下鉄に乗れば、2駅向こうが四つ橋で、駅から徒歩2分ほどでギャラリーだが、肥後橋はホームに辿り着くまで地下をかなり歩く必要があるし、階段を下りたり上ったりすることを考えると、いっそのこと地上をずっと歩いて行ってもさほど距離が変わらない気がするのだ。普段家の中で仕事をしていてめったに歩かないので、たまにこうして出かける時くらいはなるべく歩くようにしていることも理由だ。だが、18日は本当に寒くて、歩いていても一向に体が暖かくならなかった。それでも展覧会をひとつだけ見るために大阪に出るのはもったいない。いつも用事を最低3つは作って出かける。そのひとつがこのINAXギャラリーだったが、届いた案内はがきがを見て即座に行くことを決めた。はがきのデザインがとてもよかったことが大きな理由だ。写真もよく撮れている。中央に大きく小動物、右上に亀、右下は鳥の骨だ。
 骨と言えばすぐに連想するのがジョージア・オキーフの絵だ。また、そうした動物の完全な骨格を得る方法が何かの雑誌に特集されていたことを思い出す。まずは大きな鍋で煮て肉を落とし、それから砂地に埋めて微生物に残余を食べさせるといったことが書かれていた。ほかにも方法があったと思うが、いずれにしてもそう簡単にはきれいな全身骨格は得られない。そうそう、思い出した。5年ほどか前に平安画廊でオーナーの中島さんを交えて武田秀雄と話をした時、氏が昔動物の骨格に関心を抱き、大英博物館にまで行っていろいろと調査したと聞いた。その研究の結果、動物の骨格をペンで描いた1冊のイラスト集が完成したが、なかなか大変な作業であったらしい。動物の骨の標本などどこにでもあると思いがちだが、実はそうではなく、むしろほとんどないのが実情だ。それは軟骨があって完全な全身骨格がなかなか得られないことにもよる。今探したところ、2002年の伊丹市立美術館における『武田秀雄の世界』のチラシが出て来た。この展覧会には訪れたが図録は買わなかった。チラシ裏面にこの動物の骨格を用いた作品『アルタミラ』のうち、「アデリーペンギン」が載っている。デフォルメをせず、本物の骨格をそのまま丁寧に描いているので、ペンギンの骨がどうなっているかを知りたい人にとっては大いに参考になるであろう。氏は大阪天六の生まれだが、多摩美を出てその後ずっと東京住まいと思う。この小骨展は東京のINAXギャラリーでは来年6月から8月にかけて巡回するので、きっと興味を持たれることと思う。それにしてもこのせっかくの展覧会がなぜ氏の先駆的な動物の骨のイラスト仕事を紹介しなかったのだろう。惜しい話だ。それはいいとして、こうしたジャンル分けがちょっと不可能な面白い展覧会をINAXがすることはとても感心する。動物の骨はたとえば人間にとっては家の骨組みにたとえられるものであるから、「住まい」という観点からはそんなに遠くはないテーマだ。骨がいかに無駄なく合理的に出来ているかを知ることはさまざまな造形を考える手立てにもなる。また、先月から急に世間を驚かせ始めたマンションの鉄筋不足の問題も絡んで、普段は表側から見えない骨格というものが、いかに大切なものであるかを認識するのにもちょうどよい。海で暮らす魚でも骨はしっかりあるというのに、地上にそびえる大きなビルがスカスカの鉄筋しか入っていないとは全く人を馬鹿にした話で、そんな建物をあえて建てようと企てた連中の頭はきっと骨がなく、脳ミソも干からびて正常な物事の判断が出来なくなっているのだろう。
 展示は全部で170種の動物、大きい海亀や2メートルの長さのアミメニシキヘビ、フラミンゴなど、比較的大型のものもあった。特にアミメニシキヘビは、無数の真っ白な骨の輪をくねくねと曲げて並んで連なり、その見事な造形にほとほと感心した。明和電気のふたりが作っていた骨の形をした奇妙な楽器(?)類を連想もした。そう言えば最近明和電気の情報があまりない。彼らもまた骨に関心を持った表現者として記憶されるかもしれない。それはさておき、この蛇の骨を見て、神は本当に偉大だと思わずにはいられなかった。あの嫌われ者の蛇にも当然骨のあることはわかっていたつもりだが、ここまで見事に輪を連ねているとは知らなかった。一方、掌に乗るほどの小動物は骨が細いので、ほとんどレース網細工に見えたが、軟骨をどう処理しているのか、本当にはかない印象があって、全身を支える骨という強い感じがしなかった。小動物が可愛らしく見えるのは、その骨自体がこのようなか細いものであることを実感したわけだが、そうなると、骨はそれこそ物事の根本で、骨を見ればそれがどんな存在かすぐにわかるというものだ。実際、「あいつは骨がある」といった表現をするが、人間は骨が生物の中心ということを昔からよく知っていたことになる。これはあたりまえだが、普段は目に見えないし、骨は死のイメージに直結して認知されて来たので、人々はまともに骨に向き合うことはしない。たとえば、女のヌードにしても、肉が骨の周りについているからこそ男は情欲を感じるのであって、これがもし骨が露なら、それこそ露骨になって気分も萎えてしまう。骨は大事だが、骨の周りの肉がなければどうにもならない。だが、肉は骨より柔らかくてすぐに朽ち果てる。骨も地中で完璧にはなかなか残らないものだが、何百万年もの昔の人間の始祖となった原人の骨などがたまに発見されて大騒ぎになるから、やはり骨は偉大と言うべきだ。肉が残らなくても、骨さえあれば肉がどう骨についていたかは想像出来るし、やっぱり骨の方が格がうえと見える。
 骨を最も日常的に見るのは魚だ。だが、最近は切り身を買う主婦が多く、魚の骨すらも知らない人が増えている。この魚の骨も今回はいろいろと来ていた。だが、卑近なものであるということと、頭の部分に半分透き通った微細な骨がたくさんつき、何だか残飯の中から掘り出して来て漂白したような感じがして、あまり美しいとは思わなかった。その点は小鳥も似たようなものだが、まだこっちの方は珍しい。それでもたとえば雀は、伏見稲荷境内の店でよく売っている焼き鳥のそのバリバリした骨の食感や、両方の羽を広げてスルメみたいに平らになった姿を思い出し、案外人間は動物の骨とは出会っているものであることを実感した。こうした小動物の骨は全身骨格のまま得られることはない。むしろ、かなりバラバラになった状態でしか得られないから、後で接着材でジグソー・パズルのようにつなぎ合わせる。その時、完成品としての骨格がわかっていなければならない。だが、初めて得ようとする骨格の場合はそれがないため、レントゲンを撮って骨の位置を知る手立てにするそうだ。これも口で言うのは簡単だが、レントゲンでもよくわからなかったりする小骨がきっと多いはずで、正確に組み立てるのは小動物ほど大変であろう。体が大きくなるほど骨は大きくなるから、むしろ接合は早いと思う。会場ではそうした比較的大きな動物は、接着材ではなく、リベットのような形の白色のものでつなぎ合わせてあった。そうでもしない限り、持ち運びに不便で、ちょっとした拍子に崩れてしまう。つまり、骨は過不足なく完璧に肉の中で組み立てられてはいるが、軟骨もあって、間接がある程度の範囲は自由に動くから、静止したものとしてはそもそも存在していない。それゆえ、全身骨格もさまざまな形で表現することが可能で、これも骨の標本作りの面白さにある。同じ動物でも違った形で組み立てて数体揃えれば、その動物がどのようにして骨を動かすかがよくわかる。骨のパーツは硬くて固定はしているが、骨格はがちゃがちゃと動くもので、それが全身骨格作りを飛行機や船の模型作りとは違ってもっと複雑な構造と動きを楽しみ味わうものにしている。また、肉は腐敗して黴菌を撒き散らすが、そのような過程を経て得られる全身骨格は全く清潔なものであるから、それを組み立てることはプラモデルと同じ平面にある趣味と言える。それに見方によっては骨を眺めながらしみじみと動物や人間というものを考えるよすがにもなる。以前書いたように、聖衆来迎寺の六道絵の中の「人道不浄相」は、死んだ女が次第に骨になって行く様子を1幅の掛軸に描いていた。掛軸の一番下の右側には何片かの人骨が転がっている。それは真っ白で、もはや犬や烏も見向きもしない。そしてそこまで人間が変化すると、どこかあっけらかんとしたユーモアが漂う。それと同じものがこの展覧会の骨々の姿にはあった。もう一度案内はがきを見ればよい。そこに写る骨は死の恐怖をとっくに通り過ぎて、乾いた笑いや懐かしい可愛らしさを漂わしている。肉の迷いがやっと全部過ぎ去り、今は真っ白な骨になって魂が充足しているかのようだ。そんな風に骨を通じていろんなことを知るのはよい。特に子どもたちに見せるべきだろう。ティラノザウルスやマンモスの骨はとても高価で手には入らないが、身近な小動物の骨がどんな風につながっているかを知るにはとてもいい機会だ。そして、もっと飛躍すれば、ヘンリー・ムーアのような芸術にも応用され得るし、死を思えばこそ、肉がついている間に精いっぱい生を謳歌すべきといったことも伝えられる。そう言えば、ディズニーの昔のアニメにも骨が音楽を奏でるものがあったから、子どもも知らず知らずのうちに骨のことはよく知るようになる。
by uuuzen | 2005-12-27 23:57 | ●展覧会SOON評SO ON
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