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●『瑛九フォト・デッサン展』
チラシには英語表記で「Ei-Q Photo Dessin」ともある。瑛九の油彩、フォト・デッサン、銅版画を初めてまとめて見たのは伊丹市立美術館での『瑛九展』であった。



●『瑛九フォト・デッサン展』_d0053294_142315.jpg手元にある図録を開くと、1990年8月9日の日づけが鉛筆で記入してある。もう16年も前のことになるが、展覧会はよく記憶している。そのため、今回の国立国際美術館でのチラシを入手した時、あまり関心も湧かなかった。昨夜述べた『もの派-再考』を見る人は、別料金を支払わずにこの展覧会も見られるので、いわばついでに見た。これは会場面積が『もの派-再考』よりかなり小さかったことも理由かもしれないが、各作品の前に人だかりがあり、若者の姿がとても目立った。近年は写真ブームでもあるから、若い人にとっては瑛九のフォト・デッサンは新鮮に思えるのであろう。だが、これらの仕事の発端が戦前にあることを思うと、今さらながらに瑛九の前衛性を認識する。瑛九とは奇妙な名前だが、本名は杉田秀夫(1911-1960)で、これでは印象に残らない。瑛九を名乗ってから俄然作品が独特な色合いを帯びて見えるようになったに違いない。芸術家にとって名前は大事だ。「瑛九」は杉田がフォト・デッサンを発表するに際して使用したもので、1936年のことだ。瑛九は九州宮崎の出身で、地元の中学を14歳で退学して上京し、最初は油絵を学んだ。16歳で美術評論を始め、『アトリエ』や『みづゑ』に執筆し、画家としてよりも美術評論家として世に出た。これはほとんど独学であるから、大変な早熟かつ独学の跡が見受けられる。この独立独歩の態度に後年の画家としての仕事のすべても説明出来るように思う。写真は1930年頃に伯母から何か手に職をつけておかないと画家では食って行けないと言われ、それで写真の本を買い集めて1週間ほど読み、カメラも入手したそうだ。19歳という年齢を考えればこの新たな関心や熱心な勉強ぶりはよく想像出来るが、結局写真屋になることはなく、写真を使った画家としての作品づくりに進む。そうして瑛九の名でフォト・デッサンと名づけた作品を発表するのが1936年のことであるから、6年ほど準備期間があったことになる。これは充分な年月と言えるが、年譜を見るとこの間に油絵を帝展や二科に出品して落選し続けたり、またかなり病気もするなど、あまり恵まれない時代であった。病弱な様子は晩年の浦和でのアトリエで撮られた写真からもよくうかがえる。瑛九は喜劇俳優の三木のり平をもう少し真面目にしたような顔をしているが、病気がちな体質が結局は48歳という若さで死を訪れさせた。慢性の腎炎を患っていたが、死亡原因は急性心不全だ。
 伊丹市立美術館での『瑛九展』のチラシは、「Visiters to a Ballet Performance」というフォト・デッサンが大きく印刷されているが、今回のチラシの下半分にも同じ作品が選ばれている。フォト・デッサンの中でも最も大きい作品のひとつで1950年の作だ。フォト・デッサンを始めてから14年も経っているが、1954年頃までが最もたくさん制作されたようで、全部で数百点残っている。伊丹ではそのうち30点が並んだが、今回はたぶんあまりだぶりがなくて、倍以上の66点と油彩4点、それに、フォト・デッサンに使用したセロファンに墨で描いた、いわゆるネガや、その他の関連資料も展示され、伊丹での瑛九の全貌を紹介する展覧会とは違って、あくまでフォト・デッサンを中心に光を当てていた。瑛九の作品は大きく分けて油絵と銅版画とフォト・デッサンになるので、本格的にこれら全部を紹介するとなると、かなり広い展示室が必要になる。油彩では100や200号の大作があるが、フォト・デッサンは印画紙を使用するので、サイズは限定される。前述の「Visiters…」も横が56、縦56センチ程度だ。カメラを使わずに印画紙を感光させて作品を得ることは、バウハウスに関心のある人ならば即座にモホリ・ナギを思うだろう。マン・レイにも同じような仕事がある。ちなみに前者はフォトグラム、後者はレイヨグラフと呼んで、ともに1922年に初作品をものにしている。瑛九のフォト・デッサンは彼らの仕事より14年遅く、ヒントを得たことは間違いがないはずだが、それらの先駆者の仕事を知らなかったとしても同じ仕事をしたであろう。写真の光を使用して印画紙上に画像を定着する原理を知れば、カメラがなくても何らかの絵が表現出来ると思いつくのは誰にでもあり得る。ここで思い出すのは、日光写真だ。筆者は小学生になるかならない頃、盛んにこれで遊んだが、その感光紙ははがきの半分のサイズで、駄菓子屋のおばちゃんが袋から取り出し、感光しないようにと紙にしっかり包んで手わたしてくれた。それとは別に漫画を黒で印刷したフィルムを買うのだが、その下に感光紙を置いてガラス入りの額縁に収め、日光に5分ほど当てると、漫画の白黒を反転した絵が得られた。感光紙は2、3種類あって、青や茶の色が得られた。これは今にして思えば瑛九のフォト・デッサンと同じ技法を用いた玩具で、ちょっとした教材に使えば今でも子どもが喜ぶのではないだろうか。
 デジタル・カメラが出現し、写真はパソコン画面で見て満足するか、紙に定着させる場合でもインク・ジェットで印刷するようになった現在、印画紙による写真は手仕事を内在化出来る点で、画家指向の強い人には歓迎され続けると思うが、そこを瑛九も見つめていた。フォト・デッサンとはよく名づけたもので、これはデッサンとして見るべき仕事だ。それは感光が長くても数秒という短時間で行われてしまうことから言い得ている。どのような作品を得るかの下準備はかなり時間を費やすはずだが、実際の感光は驚くほど早い。一発勝負の緊張を伴うところはデッサンと同じ仕事と言える。また、瑛九の場合は何かオブジェを置いて感光させることに主眼を置かず、切り絵風に切り抜いた型紙や前述したように光を透過させるセロファンに墨で描いたものをネガ・フィルムのように、つまり日光写真のようにして使う。そして同じ型紙を少しずらせて感光させ、画像のぶれを生じさせることで独特の立体感を得るという手法も加味される。そのためかなり技巧的な側面があり、画家としての高い能力が要求される仕事となっている。型紙を使って感光させる表現は、版画のステンシルでも似た効果が得られるし、セロファンに墨で描いたネガを使用する表現はシルクスクリーン版画と同じような効果が生ずるので、フォト・デッサンは版画の領域とかなり近いと言えるが、実際の作品は表面がつるりとしていて、人間が描いた手触り感は皆無であるし、版画特有の絵具の質感が見られず、写真ならではの透光感がある。版画のような感じはするがあくまでも写真そのものという面白い効果を得ている点で、これは瑛九ならではの発明で、また実際瑛九でしかあり得ない世界が見られる。前衛家瑛九の面目がうかがえる仕事であって、マン・レイやモホリ・ナギの仕事とは全然異なる創作だ。また、フォト・デッサンは型紙や手描きのセロファン・ネガを使用しはするが、同じものを使って他人が瑛九と同じ作品を得ることは出来ないであろう。それは型紙や手描きネガにだけ負っているのではなく、実際はもっと複雑で、しかも多様な材料が用いられている。ここに瑛九独自の作品世界が生まれている原因があり、それは言うなれば1点ずつ手づくりしたものであって、通常の写真のような、ネガと写真が1対1の関係にあって、同じ作品が複数生産出来るものではない。つまり、型紙やネガの素材はフォト・デッサンの重要な部分は成してはいても、それだけでは作品は完成せず、感光させる時の微妙な調整も含めてアドリブ的要素が強い。これを考えると、瑛九のフォト・デッサンは限りなく画家の手仕事、デッサンに近い作業ということがわかるだろう。
 次に切り絵風の絵が瑛九の油絵や銅版画とどう関連があるのかという問題がある。これは論じればかなり長い瑛九論を繰り広げる必要があろう。だが、ひとつ言えるのは、油絵や銅版画、フォト・デッサンを交互に行き交いながら、相互に関連したような仕事も少なからず生まれたことだ。となると、少なからず以外の部分は、フォト・デッサン独自のフォルムがあることになるが、そのとおりで、銅版画や油絵には見られない独特のモノの形がフォト・デッサンでは表現されている。これはほとんど白と黒の面に分割された表現であるため、銅版画のような緻密な線の効果がないためだが、中には銅版画的な細かい線描をかなり効果的に使用したものもある。もちろんこれらの線描はセロファン・ネガにペンを使って描かれたものを密着させて感光したものだ。1954年といった晩期にそれらの仕事が集中していたと思うが、最も面白いのはそうした緻密な線描効果のない、面の対比を主に見せた作品だ。そこにはフォト・デッサンならではの一発勝負らしい潔さがより効果的に出現し、幻燈を見るような、かえって夢幻的な様子が高まっている。大抵は女性の顔や裸体をデフォルメしたものを表現し、どことなくマティスの晩年の切り絵のフォルムを連想させないてでもないが、もっと曲線を多用して形が複雑に入り組み、奇妙な明るさと呼んでいいものが漂う。正直な話、確かに1950年当時をいかにも思わせるレトロ感覚に終始する作品だが、商業主義的なにおいは全くせず、どこから出現して来たのかわからない謎めきがあって、それが純粋さにつながって見ていて気分が落ち着く。この透明感は瑛九が内面に持っていたものの反映であろう。どの程度作品が売れて、生活ぶりがどうであったのかと思うが、前衛作家の場合、大きなパトロンがつくことはないはずで、あまり余裕のある生活ではなかったであろう。にもかかわらず瑛九は作品を絶えず作り、前進を続けた。伊丹には出品されなかったが、今回は瑛九と奥さんが向かい合って、ともに横顔を見せて一緒に写る写真作品が1点展示されていた。これがとてもよかった。向かって右側に写る瑛九は自信溢れる表情で、左の奥さんは女優のような美人で、しかもきりりとした様子が伝わった。こんな美人の奥さんが瑛九についていたことだけでも、瑛九が男として、人間として、作家としてきっと魅力溢れる人であったことがわかる。早死にはしたが、仕事は充分に、そして充実した気持ちであったことと思う。それゆえに早熟であったのかもしれない。また、宮崎という地に生まれ、ほとんど独学で世をわたっただけに、何物にも囚われない前衛魂を保持出来たと思う。これは作家としては最も大切なことで、瑛九は今後も長く若者にとっては大きく光り続ける鑑であるだろう。永久かどうかはわからないが…。
by uuuzen | 2005-12-26 23:56 | ●展覧会SOON評SO ON
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