昨夜の続きとて書いてもよかったが、長くなるので分けた。清水卯一の作品は20数年前かに高島屋の画廊で新作展を見た記憶があるが、あまり定かではない。筆者は現在の陶芸家についてはほとんど無知で、誰が今人間国宝に指定されているのかも知らない。
1970年代終わりに講談社から発売された「人間国宝シリーズ」という、ひとり1冊の全集がある。1冊とはいえ、1000円程度の本で、厚さは数ミリとうすい。昔ファブリ名画集というのが100冊出たことがあるが、それにならって同じサイズだ。このシリーズの1から9までが陶芸家を取り上げ、そのうちの8番目が石黒宗麿だ。石黒は鉄釉陶器で人間国宝の指定を受けた。名前が有名な割りに筆者は石黒の作品をまとめて見る機会をまだ持たない。清水卯一(1926-2004)は1940(昭和15)年に八瀬に住んでいた石黒に師事している。そして昭和60年に石黒と同じ鉄釉陶器で人間国宝の指定を受けた。となると、石黒と清水は同じ地平で考えていいのかもしれないが、作風は全然違っているという。それはそうだろう。であるからこそ意味もある。ここで、急に変なことを書くが、京都文化博物館3階の「京都の美術・工芸」の展示室は今回はとてもうす暗く、人影もまばらでさびしい。そんな中に大雅の書や絵のコーナーと清水の陶器の作品のコーナーがふた手に分かれてあるのだが、清水のコーナーには清水のカラー写真があって、そのふっくらとした顔立ちからいかにも作品が思い浮かぶ。ところが、あたりまえのことながら、大雅には写真がない。大雅には自画像は確かあったと思うが、それでも写真がないので、正確にはどんな顔立ち、あるいは体形をしていたかはわからない。そのためになおさら大雅の作品は謎めいて見えるが、さて、顔写真があれば作品理解に役立つかと言えば案外そうも言えない。男が40になれば自分の顔に責任を持つべしというリンカーンの言葉は実際そうだろうが、芸術家は顔が確かにほかにはあまりないような雰囲気をたたえているとしても、芸術家が芸術家として認められるのは顔ではなくて作品以外にはあり得ないから、芸術家の写真などあってもなくてもかまわないと言える。顔で人はよくその人柄を判断しがちであるから、作品は気に入っているのに、その作者の顔を見た途端、嫌いになるということも起こり得る。となると、顔などあまり出さない方が無難かもしれない。
清水卯一の顔を見て、どう言えばいいか、どこにでもいる、しかしどこか気難しい小太りのおじさんという感じがして、作品とつい印象がだぶる。これがいいのか悪いのかわからないが、不思議なことに作品を味わい深いと思うと同時に写真の顔までが味があるように見えて来る。この反対も言えるかもしれず、芸術家も顔が大事で、しかもいい表情で写されることが肝心だ。清水は平成16年2月に亡くなった。遺族から京都府に46点の作品の寄贈があり、それを今回は全部展示している。無料パンフレットによると、作品年代は昭和20年代から始まって30、40、50、60、そして平成に入ってからも26点がある。ほぼ全体の活動を見わたすにはよいものが揃っていそうだ。前述の「人間国宝シリーズ」以降、どんな陶芸家が人間国宝になったのか知らないが、練上げ手で有名な松井康成が人間国宝に指定され、そしてすでに死んだことを知った時には、あまりにも自分が陶芸界の巨匠について無知であることを実感した。清水卯一が人間国宝であったことは知っているが、どんな作品かすぐには思い出せなかった。だが、今回の展示を見てすぐにわかった。あちこちで見て来ているのにあまり意識しなかったのだ。78歳での死亡は少し早い気がするし、もっと活躍してもよかったが、46点をまとめて見ると、これはこれでやるべきことは全部やり遂げていると思えた。作風はあまり固定しておらず、どんどん変化しているが、昭和末期からのものはみな釉薬をきわめて厚く盛り、それをヘラで掻き落とすかローで抜くかして文字などを表現しつつ地肌を見せるという技法を追求してい。このヴァリエーションがとてもたくさんあって、中にはどうかと思うものもあったが、地肌がラスター彩のような虹色の輝きを持っていたりして、華やかさは京都に生まれ育った者しか表現し得ない匂い立つような香りがある。掻き落としやロー抜きによる文字は、器の胴体に大きく「風」「花」「雪」「大地」「百花」「紅梅」などと書かれ、書体が良寛風であることは一目瞭然だが、良寛を華美に飾った雰囲気がして、そこが作品の脆弱性を示す欠点に思えなくもなかった。ま、これは好みだが、文字ではなく、もっと別の模様でよかったのではないだろうか。漢字が書かれていれば、どうしてもその意味に引きづられて作品を見るし、その書体も問題となる。全部とは言わないが、清水のこうした釉薬を厚く盛った作品は鄙びた味わいからは遠く、良寛を連想させる文字も何だか厭味に見えるのだ。また掻き落とすにしろ、ローで書くにしろ、一発勝負であり、いつもそれがうまく行くとは限らない。うまく行く場合はいいが、そうではないように思えるものが1点でも混じると、それが集まった作品全体の空気を艶消しにしてしまう。厚い釉薬の盛りのたたずまいや、一気に文字を書く行為は、作品を豪放な印象のものにするはずだが、案外清水の作品はそうは見えず、むしろ繊細ではかない美を表現しているように思える。そこがまた持ち味なのかもしれない。
釉薬を一部落として地肌を見せ、そこに文字を浮かび上がらせるには、陶器の地色と釉薬の色をなるべく正反対のものにする必要がある。それで大体は地肌は真っ黒で、釉薬が白の場合が多いのだが、この釉薬の対比手法は別の作品にも見られる。たとえば最晩年の作で「蓬莱鉄ノ器」と題する2点があった。ひとつは皿でもう1点はもっと見込みの深い器だが、どちらもちょうど左右真っ二つに釉薬をかけ分けてある。半分は柿釉、もう半分は油滴天目に見える黒い仕上がりだ。ここには釉薬を知り尽くした技術があるのは言うまでもないが、器の形はどうであれ、釉薬によって個性を生み出せると考える釉薬中心の仕事の態度があるだろう。だが、器の形にこだわりがないかと言えばそうではない。壺、皿、茶碗、扁壺、水指、香炉など、一応はどんなものでもあるし、また壺ひとつ取り上げても、それぞれに形は随分違っていた。たとえば「蓬莱鉄燿水指」と題するものがある。これは何か植物の実、たとえば大きな苺か崩れた柿といったようなずんぐりしたものをそのまま拡大してなぞったような形をしていて、地肌は深い紺色でしかも全体に虹彩がかかり、しかも器全面を太くてうねる筋模様で覆っている。その模様も色合いも器の形に見事に釣り合っており、しかも周囲が曲がりくねった口辺にぴたりと合う蓋も同じ土でちゃんは焼いて収めてある。最初この蓋は木に漆塗りで後で作らせたものかと思ったがそうではなかった。この水指ひとつとっても晩年の清水の仕事の独特の個性や卓抜さが充分にわかる。現代作りの作品以外の何物でもない一方で、軽薄な感じが少しもなく、重厚かつ華麗、しかも妖艶で幻想的、器としての個性的な存在感は見事なものだ。だが、これはこれ1点であり、次々とまた違う作品が続く。これだけ個性のあるものであれば人間国宝の指定はよく納得出来ることで、石黒の作品と全然違うというのもそんな仕事を指してのことだろう。ちなみにパンフレットにはこう書いてある。「鉄釉の調製成分や焼成方法の違いによって、まったく趣の異なった作品を作り出し、昭和60年に「鉄釉陶器」で重要無形文化財、いわゆる人間国宝の認定を受けました…」。
また、「昭和45年には滋賀県志賀町に蓬莱窯を築き、比良山麓で採取した陶土や釉材を研究し、「蓬莱磁」や「蓬莱燿」、「黄蓬莱」、「蓬莱掛分」と次々と個性的な技法と表現を生み出していきました…」とあるが、京都の東山の陶磁卸問屋の長男として生まれ、その後もずっと京都で活躍していたのに、人間国宝になった理由の作陶は滋賀県に移ってからの作品にあるから、本当は滋賀県に作品が寄贈されるべきかもしれないが、その心配は不要で、ちゃんと滋賀県にもたくさん作品は所蔵されている。それはいいとして、湖西の蓬莱窯を築いたのは、五条坂あたりの土ではなく、もっと別のところのものを用いればどうなるかという気持ちがあったからだろう。京都の閉塞感から逃れたかったのかもしれない。ところが、湖西では焼物に適した土は出ないと言われていたことが本当のことに思えて諦めかけたが、鉄分の多い赤土を発見し、それで青磁を焼いてみると今までにない魚鱗のような見事な氷裂貫入が得られた。前述した高島屋で見た清水の個展ではこれらの青磁作品がいくつも並んでいたと思う。この独特の大きな亀甲形のひび割れ模様は一度見ると忘れ得ないもので、筆者の旧い知り合いの陶芸家も同じものを焼くことに成功して一時盛んに焼いていたことがある。その後清水は比良山北端の山頂の土を苦労して掘り出し、蓬莱磁の作品に使用して行くことになるが、真っ黒な瓦礫を粉砕して釉薬に使うと従来の油滴天目にない珍しい結晶が得られたという。このような実験精神の積み重ねによって晩年の独特の作品が生まれたわけだが、ここには過酷な実験者、しかも肉体労働者としての苦労が見え、華麗に見える作品の奥に大変な格闘があったことを知らないわけには行かない。そこがたとえば楠部弥弌のようなまるで京都の干菓子のような端正な作品とは違う野放図な味が宿る理由であろう。46点のうち、昭和20年代から30年代前半頃までの作品が6点あり、それらが後年の清水をある程度予告しているのは面白い。それは当然と言えるが、作家が試行錯誤の時期を経ながら、次第に自分独自の世界を見出し、その中で自在な表現をするようになって行くことを、こうした一連の作品で目撃するのは楽しい。そんな初期作品のひとつに「海鼠釉貼花壺」というのがある。これはナマコ釉が本物のナマコと思えるほどたっぷりと壺の上部から下に向かって垂れていて、晩年の厚い釉薬の仕事にそのまま連なっているように思わせる。昭和33年頃の「壺」は褐色をした壺だが、浮き彫りになった細い横筋と縦筋が数本ずつ網目状に表現されていて、まるで手榴弾そのものに見える。京都の清水焼きが戦時中に陶器で手榴弾を作っていたことは有名だが、ひょっとすれば清水はそうした作品を見ていたか、あるいは製造の手伝いをしていたかもしれない。釉薬をこってりと盛る焼物と言えば、すぐに萩焼きを思い出すが、清水の作品はあくまでも京都の王朝美の伝統上にあるものではないだろうか。野武士的なところがあるとしても、それはまるで元公家であったような雅びさが抜き切れない。それでこそ京都のよさなのだろう。そう思うと、清水のふっくらとした顔がまるで公家に見えて来る。