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●梅雨入り前の白花、その9
隷制度はなくなったが、奴隷とあまり変わらない生活をしている人は日本でも多い。「奴隷」の文字を見ると、嫌な仕事に従事し、それを少しでも拒否する素振りを見せると鞭で打たれるといった悲惨な境遇を想像する。



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だが、そんな奴隷もあったろうが、アメリカの奴隷は家族を持つことが許され、小屋のような家で子を育てることも出来て、現代の貧困層と大差ない暮らしであったのではないか。大金持ちが貧しい者を搾取する構図は昔も今もまたどの国でも同じで、会社に普通に勤めることは奴隷の境遇とあまり変わらないように筆者には思える。自由があるといっても、人生の大半の時間は会社のために使う。体のよい奴隷みたいなもので、会社ないし社長を養うためにその他大勢が働く。では、他人に搾取されてなるものかと、独立して稼ぐ人が奴隷的身分ではないかと言えば、貧しい暮らしであればそれは浮浪者とほとんど変わらない。ちょっとした才能があれば芸能人ないし芸術家になるだろうが、それはいつの時代でも世の中のはみ出し者で、また奴隷的に生きる大勢の国民のための愛玩物であって、搾取側の味方になる場合が多い。一昨日、JASRACが京大の総長の言葉にある曲の歌詞が引用されていたとして、著作権料を支払えと伝えたとかそうでないとかの話がネットにあったが、WIKIPEDIAで調べると、JASRACの収入が1000億円を越えていて、これは設立されてからの総額なのか去年度の額なのか知らないが、莫大なその収入がどう配分されているのかと誰でも思うだろう。一方、曲の歌詞を引用するだけで著作権料を支払うのであれば、筆者のブログはたまに曲の歌詞を引用して自分で訳しているので、それも該当するのではないかと不安になる。7,8年前か、埼玉に住むザッパ・ファンの宇田川さんがブログにミュージシャンの楽譜をいくつか載せたところ、JASRACから書き込みがあって、削除を要請された。宇田川さんのブログは利潤を生むものではないので、JASRACのその態度は合点が行かないが、著作権とはそういうものかと一方では思う。筆者のこのブログも投稿した瞬間から著作権が発生し、誰かが数行を引用すると、それは著作権侵害と訴えられても仕方のないことになり理屈だが、丸写しではなく、あちこち言葉を変えればどうかというと、これも程度の問題で、明らかに引用したことがわかれば、やはり著作権侵害に当たる。とはいえ、訴えない限りはどうにもならず、丸写しした人がすぐに罰せられる仕組みはない。ということは搾取されても野放しということだ。それではまずいというので、JASRACは音楽に関しては作曲や作詞者の権利を守ってくれるということなのだが、これが世界中の楽曲を対象にしているのかどうか知らない。また、1000億以上の収入のどれほどが著作権を持つ人に配分されているのか、これも実態がよくわからないが、日本赤十字社と同じように、そこに勤める人たちの給料を差し引いた分であるのはあたりまえのことで、その給料分に相当するのが、全体の何パーセントで、また妥当な額なのかどうかを、誰が監視しているのか、これもわからない。著作権料を徴収して作曲家や作詞家に、作品の使用頻度に応じて平等にお金が支払われているのならいいが、そういうことは絶対にあり得ないはずで、搾取紛いのことは行なわれているだろう。それでもJASARACはあった方がいいとの声が大きいので存在しているのだろう。搾取もうまい具合にやればそうとは見られないということだ。
●梅雨入り前の白花、その9_d0053294_00585297.jpg いきなりJASARCの話になったが、奴隷に戻すと、今日はわが家から200トートルほどのところで、3日前に見かけた20歳くらいの茶髪の男が、また日差しの強い中でトラックに瓦や石などをひとりで積んでいた。その近くで古い家を解体しているのかもしれない。その男は誰かに雇われているのか、あるいは自分のトラックを持ち込んで仕事を請け負っているのか、たぶん前者と想像するが、少しも面白くないといった表情で作業をしている。勉強をもっとしていればほかの仕事にありつけたと世間は見るだろうが、誰でも勉強が好きとは限らず、昔なら奴隷がやった仕事を引き受けねばならない。ただし、そういう肉体労働者は普通のサラリーマンより賃金はいいかもしれない。となると、スーツを着て銀行に勤務する人も奴隷とほとんど変わらないと言うべきだろう。繰り返すと、奴隷とは誰かに使われ、また搾取される存在と規定すれば、ほとんど人が奴隷となる。自分はどうかと言えば、誰かのために働かず、また他者を搾取もしていないので、自分を奴隷的と思って落ち込むことはなく、誰かを奴隷として扱っていることもないので、精神的には気分はよい。誰からも指示されない生き方は誰にとっても理想と思うが、生きて行くに必要な金をいかに得るかの重要な問題があるので、たいていの人は奴隷的な生活に甘んじ、それを奴隷的と思わない思考を選ぶ。生きて行くに必要な金額がネットでは、老人になれば毎年何百万は最低必要などとあまり根拠のないことを書いているが、どの程度の暮らしで平気かが左右する問題だ。これは平均的な生活より自分は下だと思わないことで、身の回りの小さなことで心が充足するような生活を目指すのがよい。それには創作が一番だが、難しいことを考えず、たとえば筆者のこのブログのように毎日適当に思いのままに文章を書くことを課すことでもよい。ここでまた話は変わる。昨日のネット・ニュースにあったが、日本の若い社長がバスキアの絵を123億で落札したというニュースがあった。バスキアの伝記映画は確かバスキアの没後数年で製作され、筆者は当時それを見たが、バスキアの絵はあまりよさがわからない。当時は日本はバブル期で、アメリカのバスキアを含むニュー・ペインティングは盛んに紹介され、その流れの中でキャプテン・ビーフハートの絵画も売れた。ドイツはバセリッツやキーファーが登場し、特に後者は日本では爆発的な人気を得て、染色のK先生も心酔したが、筆者は昔の表現主義の画家は評価しても、ニュー・ペインティングすなわち新表現主義の画家はどれも特に何も感じない。簡単に言えば落書きをおおげさに芸術ぶっている気がするのだが、そこには単調なミニマル・アートが売れにくくなって来た絵画市場の事情が反映していて、欧米としては新たな若い巨匠を求めていたのではないか。バスキアはアンディ・ウォーホルや画商の目にとまって大作を描ける身分になって行くが、薬物中毒で夭折し、そのことが6、70年代のロック・ミュージシャンそれと同じように神格化にはつごうがよかった。何しろ作品が少ないので、ほしがる人は多い。それで100億といった桁違いの額に上昇する。だが、それを喜んでいるのは画商たちのはずで、彼らは無料同然の絵を国宝以上の価値に引き上げる錬金術に長けている。ただし、日本にはそういう画商はいない。日本が世界有数の経済大国になったというのに、バスキアやキーファーのような国際的に通用し、また巨額で絵が売れる画家を輩出していない。その点では欧米より完全な後進国で、その状態は今後も変わらないだろう。それはさておき、日本の社長が123億でバスキアの絵を買い、その絵がいつか千葉で一番よい絵と評価されることを思っていると意見したことも昨夜読んだが、最も高額で取り引きされた絵が最もよい絵となるかどうかの保証はどこにもない。それにそういうことを公言するのは、高価なものこそ価値があるとする、いかにも貧しい思想で、本当の美術愛好家には内心嘲笑されているだろう。絵の価値は時代が変わると変わる。123億の絵が1億でも買い手がつかなくなる時代が来ないとも限らない。大金持ちであるので123億の絵を買うことは誰も何の文句もないし、またほかのものを買うよりいいことと思うが、123億で日本からバスキア以上の画家を生み出そうとすることがもっと面白い。バスキアは80年代の画家で、それをいいというのは、感覚が古い。今は今の絵があるはずだ。何が言いたいかと言えば、バスキアの絵を落札した社長は案外権威主義者で、バスキアを本当に理解しているとは筆者には思えない。絵を理解するとは変な言い回しだが、当の画家の思いに同調出来るかどうかの意味だ。また、それをするのに123億を使う必要はない。1000円で買える古い絵にも画家の思いは宿っている。人生を豊かにするのに莫大な金は必要ではない。むしろ莫大な金があると、その奴隷になってしまうだろう。
●梅雨入り前の白花、その9_d0053294_00592471.jpg
 昨日は風風の湯に行き、最初に隣りの自治会のYさん、その後、最近話すようになった人、そして嵯峨のOさん、その後に上桂のTさんと、常連の4人と会った。その4人は相互に存在を知っている程度で直接には話したことがない。そこで、常連のほとんどと親しく話をする筆者が、それら4人がサウナ室に居合わせた時は相互に親しくなるように仕向けるつもりで、昨日は早速そうした。せめて常連くらいはお互いどこに住んで、どういう名前であるかを知っておくのはよい。よほどの変人でない限り、そういう仲になりたくない人はいない。だが、前述の4人はみな訪れる時間帯が少しずつ違い、なかなか4人全員が温泉内にいることはない。それでも毎日か、週に2,3回は利用するので、顔を合わせる頻度は高い。いつか休憩室で常連ばかりがビールを飲むというのもいいかと思うが、その音頭を取るのは筆者しかいない。それはさておき、昨日風風の湯で体重を計ると、62キロ少々で、1週間で2キロほど痩せた。そのためもあって風邪を引いたのかもしれない。昨日はサウナには入らないでおこうと思いながら、6分が3回で、普段の半分以下の時間に留めた。11時頃に就寝、暑さから深夜3時に目覚め、氷を入れたコップ2杯の水を飲んだが、1時間ほど寝つけなかった。そして次に目覚めたのは朝10時半で、充分過ぎる睡眠を取ったので体温は平熱になった。元気が回復すると面倒なことをやる気分も湧くもので、1階のトイレの水タンクが半年ほど前から水を流すたびにタンクから水漏れがするので、家内は数十万円使ってトイレをリフォームしようと何度も意見して来たが、今日はついに筆者はその水漏れを直すことにした。ネットで調べると悪い箇所がわかり、その部品を自転車で樫原のホームセンターまで買いに行くことにした。嵯峨野にあるホームセンターの方がわが家からは近いが、地元の小学校脇の花壇で17日に見かけた白い花を撮影したく、それには南に向かう方がよい。それで、また今日の写真を説明しておくと、最初は17日に桂川土手沿い右岸道路で撮った。名前はわからない。2枚目はそこから100メートルと離れない場所で、これはテイカカヅラだ。ジャスミンに似た花だが、蕾の色が違う。3枚目の上2枚は今日ホームセンターに向かう途中で見かけた。左は菜の花に似ていて、アブラナ科であることがわかるが、アリッサムだ。右はニラの花に似て、花はとても小さいが、名前はわからない。下2枚はホームセンターの園芸コーナーで見かけた。左は柏葉アジサイで、これをあちこちで見かける季節になった。右は花弁が細く小さく、地味な花で、ほかでは見かけない。ユーフォルビアという名札がついていた。4枚目は1,2枚目を撮った後、地元の小学校近くの土手沿いの花壇で見かけながら、撮影しなかった。「その4」の最初の写真の右上に載せたフリージアかと思ったからだが、その場を去った後で、そうではないと思い始めた。そして今日は深夜3時に目覚めた後、今日中にその花を撮影しないと、天気予報では真夏の暑さになるらしいから、花は枯れてしまうと考え、それもあってなかなか寝つけなかった。そして、朝11時半頃、ホームセンターに向かう途中、寄り道をして土手沿いの花壇に立ち寄った。幸い、花はまだ健在であった。フリージア似であるから、単子葉植物であるのは明白で、園芸図鑑をひもとくと、「ワトソニア」という名前であることがわかった。高さ2メートルほどの大きな植物で、これをフリージアかと思った筆者は植物に関して無知過ぎる。写真は全体の右半分で、たくさん咲いている。また左半分は全体に茎は直立していたが、花の数が少なかったので右半分の写真を使うことにした。ホームセンターへの往復は1時間少々かかり、真夏の日差しで汗びっしょりになった。体温を三度計測したのに、どれも34.5度で、体温計の温度を計測する機械が必要なようだ。でなければ筆者は爬虫類と自覚せねばならない。食事を済ませ、買って来たホースを取りつけるのに5分、そして水漏れはぴたりと止まり、数十万円でリフォームしろという家内の声を聞かなくて済む。その気になればすぐにやってしまえる筆者であるのに、その気になるのに半年といった月日がかかる。それはまだ速い方だ。隣家のリフォームは2,3年もそのままになっていて、再開はいつのことやら。奴隷であればすぐに取りかかるが、筆者は家内の奴隷的存在ではないことになる。
●梅雨入り前の白花、その9_d0053294_00594667.jpg

by uuuzen | 2017-05-20 23:59 | ●新・嵐山だより
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