関所を通るということはない時代になったが、福島の原発事故以降、東北の太平洋側は歩けない地域が出来た。だが、震災から5年を過ぎ、東京オリンピックの話題の陰になって、被災地がどうなっているかのニュースはめっきり減った。
それは、熊本で大きな地震があり、シンボルの熊本城の悲惨な姿がTVで何度も映し出されることも原因であろう。先ごろ復興大臣が変なことを口にして更迭となったが、その一件からしても被災者がどういう原因でそういう立場になったかが忘れ去られている。一昨日、九州であったか、火事のために家を失った高齢の女性が、焼けた家の前でインタヴューされていた。その顔はこれからどうしていいかわからないという困惑した憐れなもので、報道する人は常に冷静であるべきとはいえ、インタヴュアーの無慈悲さを思った。大金を預金している人はいいが、たいていの人は大震災がなくても同じように家を一瞬のうちに失い、路頭に迷う可能性がある。そして数年で出て行かねばならない架設住宅に入るが、さして貯金のない還暦を越えた年齢ではそこから出て新たに家を持つことは無理だ。そういう境遇を自己責任と呼ぶのは、冷静ではなく、無慈悲で、また「責任」の意味を知らない、本当に無責任な政治家である証拠だろう。結局、人間ははかないもので、またサヴァイヴァル・ゲームに一生参加している動物とあまり変わらないかと言えば、動物でも仲間が瀕死の状態になると助けるのであって、人間は時に動物以下のことをする。そう言いながら筆者が困っている誰かを助けたことはほとんどなく、無関心、無慈悲で生きて来たも同然だが、そういう生き方では何かで困った時には助けてもらえない。『助けてもらわなくてもけっこう、自分には億単位の貯金がある』と思っている金持ちは多く、他者の助けを借りないそうした生き方を高潔と見る向きもあるだろうが、人間はいつどうなるかわからない。家や大金があってもそれを失うことがある。それでは何を頼りに生きて行けばいいのかとなるが、そんなことを自問する人は少なく、みな自分が考えるように生きて他者の言うことに耳を貸さないものだ。それはさておき、福島第一原発のある海岸はどのくらいの範囲が一般人立ち入り禁止になっているのか、筆者は知らない。関西に住んでいる人はほとんどがそうではないだろうか。福島が東北のどの辺りにあり、今も立ち入り禁止になっている範囲がどれほどなのか、そういうことは東北のローカルな話題と考えられ、全国ニュースで取り上げられることはもうほとんどない。だが、その踏み込めない地域は仕方がないとして、東北の太平洋側を徒歩で踏破することを目指す場合、情報収集は必要となり、また実際に現地を歩くとTVではあまり伝えられないことが実感出来るだろう。
今日はザッパの音楽で知り合った東京(住まいは千葉)の大平さんから一昨日届いた『東日本大震災復興祈念ウォーキング 青森県八戸市蕪島神社~千葉県銚子市犬吠埼 平成29年5月4日 踏破!』と題するはがきについて少し書く。そう言えば、この1か月ほど、大平さんのことが気になっていた。もう1年近くメールも交換していない。ところで、先ほど「東」と入力すると、「比貸し」と出て来る。またこの1か月ほど、漢字の変換以外にもワードのソフトがうまく機能せず、困惑しながら文章を書いて来たが、ついにどうにかせねばならないと腰を据えて原因を調べ、ネットに書いてあることにしたがって作業を進めると、「ひがし」と入力して「東」が出るようになった。それでようやく今日の投稿を書き始めた。パソコンの不具合のように簡単に修復出来ることはいいが、原発の被害は想像を絶する長い年月を要し、また方法もまだ完全にわかってはいない。その仕事に根気よく携わる人たちにエールを送りたいが、大平さんもそんなことをあれこれ考えながらのウォーキングであったと思う。はがきの裏面が今日の画像で、細かい文字で歩いた場所と距離(歩数)、そしてその日程が記されている。彼はこのウォーキングを始めるずっと以前に息子さんらと一緒に九十九里浜を歩いている。房総半島も一周したのではないかと思うが、東北の大震災があってからは、その延長のような形として、銚子より北部、すなわち大震災が起きた東北地方を歩くことにした。もちろん仕事があるので、数日ほどの休みを利用しての断続的な行為で、足掛け4年で八戸から始めて銚子まで南下し、全行程を約160万歩費やした。なるべく海岸を歩くことにしたが、それが不可能な場所は迂回する。そのように去年5月に東京で会った時に耳にした。泊まるのはもっぱらテントを張ってのことで、また子どもはもう大きくなっているので大平さんひとりの旅だ。筆者は歩くのは得意と思っているが、全くアウトドアではなく、ひとりでテントを張って寝た経験もない。それで、はがきを前にしながら、また
彼のブログを見て4年の長い道のりをごく短く追体験するしかないが、美しい景色やまた出会った人たちの笑顔など、原発とは縁のない喜びが多かったようであることに心が和む。それはもっぱら写真に語らせ、文章はほんの少しであるという、筆者のブログとは正反対であるためとも思える。そこには、文章の行間ではなく、写真の行間というものがある。時に無心に、時に出会った人の親切、時に理不尽な原発事故といったこと、また大震災があって変わったことと変わらないことの双方を大平さんが思いながら歩いたことを筆者は想像する。それは震災に遭った人たちからすればのんきな旅に映る場合もあるかもしれないが、まず第一に健康で元気であり、また震災に遭った東北を自分の目で見てみようという思いがあってのことであり、物見遊山の気分だけでは出来ないことだ。そのことは大平さんと出会った人たちは感じたはずで、復興を祈念しての、いわば巡礼の旅だ。元気な者が元気を与えるが、また元気をもらうのも事実だ。人の出会いとはそういうもので、またそうあるべきだ。はがきには、「今後もその間に育まれたご縁を辿って各地を訪問させていただきたい……」とあって、旅の目的が現地の人たちに理解されたことが伝わる。原発事故さえなければ東北がどれほどすぐに元の自然や人の生活を取り戻したかと筆者は思うが、ともかく伊能忠敬ではないが、大平さんが日本中を歩くことのないように、大地震はもう起こってほしくない。