冒険をたまにはしてみようと誰でも考えるかと言えば、これは人によって違う。悪い意味で言う「魔が差す」ことも誰にでもあるとは限らず、人は他者のことを決めつけることは出来ない。

それどころか、自分のことも絶対とは言い切れない。なので、若冲の絵をよく知る大多数の人が「これは若冲では違うのではないか」と思う絵が贋作とは限らないが、そこには若冲が時にはこれまでとは違う冒険を作画においてするような人柄であったかどうかを認めるかどうかの問題が横たわっている。また、若冲の絵画はもう珍しい画題はほとんど発見され尽くしたかどうかという問題も絡んでいるが、この点も研究者によって意見は違うだろう。予想もつかない珍しい画題の真作が今後発見される可能性は常にあり、そのたびに若冲の画家としての姿は認識が改められる。それは絵に限らない。史料も重要で、そうしたものがここ10年の間に発見され、若冲像は以前とはやや違ったものになって来た。それは絵画とは直接に関係はしないようだが、若冲の人間像を明確にさせ、またそういう人間ならばこれまで知られて来た絵も別の見方が出来ると考えられる点で、かなり重要なものだ。2000年に京都国立博物館で開催された若冲展以降は特に若冲の名前がよく知られるようになり、そのひとつの大きな締めくくりが生誕300年も今年となり、京都や東京で大規模な若冲展が開催されることになった。京都では市美術館と国立博物館がそれぞれ別に企画展を開催し、まずは前者が今月4日から12月の4日まで開催されるが、筆者は家内と初日に出かけた。京都の「しみん新聞」の第1面にこの若冲展のことが大きく載ったほどで、また自治会の掲示板に貼るためのポスターが区役所を通じて自治連合会に届いた。それはもう貼られているが、市美術館での展覧会のポスターを掲示板に貼ることは珍しい。それほどに今回の若冲展は特別扱いだ。だが、自治会のFさんは関心がなさそうで、また筆者の知る限り、このポスターを見て美術館に行く人は、わが自治会では皆無だと思う。おそらく1000人にひとりくらいの割合のはずで、嵐山学区の自治連合会では数人くらいなものだろう。美術というのはだいたいそのようなもので、高尚な趣味と敬遠される。TVで東大の学生が出揃うクイズ番組でも、最後の問題は必ずと言ってよいほど美術に関する問題で、筆者は問題が出た瞬間に答えがわかるが、それをそばで見る家内は「さすが」と内心思っているのかどうか、現役東大生より美術に関しては詳しいとは実感しているだろう。筆者はそのことを自慢したいのではない。逆に、それほどに日本では美術に関心のある人が少ない現実を指摘したいだけだ。それでも美術館に行くと大勢の人がいて、何となくほっとさせられるが、半分以上は宣伝に乗せられた人たちで、見た作品をすぐに忘れるだろう。だが、美術が見世物の娯楽として機能するのは当然で、それでもそれがないよりかはましだ。
2000年の若冲展で一気に有名になった狩野博幸氏が本展でも作品の選定に当たったようだ。展覧会の題名にあるように、若冲と京都を強く結びつける考えに立脚し、作品は京都から集められたようだ。また、「KYOTO」と横文字を使うのは、今後の若冲の国際的な人気を願ってのことでもあろう。筆者の関心は初めて見る作品がどれだけあるかで、この点に関しては東京で見た生誕300年展よりも収穫があった。さすが京都と言うべきであろう。また京都市の威信をかけたと言っていいが、大作と呼べる作品は少なく、ほとんどが半切の墨画であった。こうした作品は個人が所有している場合が多く、本展を開催するに当たってどのように各方面に協力を要請したのか気になるところだ。筆者は狩野氏と面識があり、また若冲画を見ていただいたこともあるが、筆者には作品貸与の打診はなかった。それはいいとして、本展の大きな特徴をざっくり言えば、若冲は同じ絵を生涯にわたってよく描き続けたことを示す展示方法で、たとえば鯉の墨画ならそれとほとんど同一の構図の作がずらりと順に並べられた。これはあえてそういう作品を選んだのかと言えば、そういう面もあると思うが、個人所有の若冲画を当たれば自然と同じような絵が集まったからという理由が大きいだろう。そのことは若冲がどういう立場で絵を描いたかをよく示している。若冲は現在の画家のように、注文がなくても、また売れなくてもかまわないので、自分の好きなように描いたのではない。そういう場合もあったが、それでも画題は独善的なものではなく、当時の美しい絵と考えられる常識の範疇にあった。また、半切の墨画は庶民が自宅の床の間に飾るもので、誰でも持っている家具調度と同じ立場にあるもので、季節に応じた画題が求められる。現在は印刷されたポスターがそれに代わったが、若冲時代は手で描かねばならない。そして量産する必要上、絵は簡単なものになり、また手馴れたものになるし、その手馴れは独創的な技術を生む。画家がそういう才能、個性を持つことは当時はあたりまえのことで誰も不思議に思わなかったが、手で同じ絵を量産する必要のなくなった現代は、作画技術が貧しくなり、またより奇をてらうことになった。そして、それを美術の本分と思っているふしが大きい。技術は衰えたが画家の自覚は増したという意見があるかもしれないが、それもかなり怪しいもので、精神性も貧しくなっている気がする。とはいえ、鑑賞者のそれも貧しいので問題は起こらない。
本展のポスターやチケットにしようされた著色画は2000年展に展示されたが、本展では著色画は少数であった。その中に初公開の花鳥画が1点あって、これだけでも出かけた甲斐があった。それでも2000年展のような豪華な印象は乏しく、この10数年の間に発見される力作が少ないことの現実を表わしている。それはますますそうなりがちと考えてよく、これからの100年で発見される同様の作の数が想像出来、若冲像の大幅な修正はもうほとんどないかもしれない。だが、その一方で思うことは、たとえば本展の出品作の選定において弾かれた作品の内容だ。それらは狩野氏の考えに合致しないだけで、他の研究者が見ればまた違うだろう。そして、そういう絵を所有している人は、自ら発信することはほとんどない。展覧会はなるべく多くの人に見てもらうことが第一の前提で、若冲の場合は、よく知られる作品をまず用意する必要がある。そのため、冒険は避けられがちとなる。何しろ若冲の絵を見たことのない人の方が世間では圧倒的に多く、また世代は10年で代わるから、啓蒙のためにいつまでも同じ絵を見せ続ける必要がある。その一方で、熱心な若冲ファンのために、また学芸員が仕事をしていることを示すために、初公開の作を探し、それをわずかでも含める必要がある。本展はその双方を満たしているが、それでも選ばれなかった作品はあるはずで、そこから見えて来る若冲に関しての問題があることに思いを馳せておく必要はある。それはさておき、筆者は東京での若冲展の図録は買わなかったが、本展は迷わずに2200円を支払った。その図録の表紙の墨画は初公開作で、布袋が正面を向いてあかんべえをしている。若冲の茶目っ気が伝わるが、これを選んだ狩野氏の気持ちも反映している。館内は東京展ほどの混雑はなかったが、多い方で、こえからの京都の秋の行楽シーズンではもっと増えるだろう。京都市美術館は名称が変更されることが決まり、そのための改装工事が進行しつつあるが、そういう大きな区切りにあっての本展は、筆者にすればいささか拍子抜けであった。もっと広範囲の作品所蔵の調査をし、圧倒的な規模の内容を期待したが、京都市はそこまで若冲のみに力を入れるわけには行かない。これはお金と人材の問題だが、若冲をそこまで顕彰しなくても、観光客はどんどんやって来てくれるとの思いがあるからだ。それに、生誕300年が過ぎれば、また別の画家を押し出す必要もある。見世物は次から次へと新しいものを用意する必要がある。