17日に『柳宗悦の民藝と巨匠たち展』を見た後すぐに映像ホールで見た。映画が終わった直後、若いアベックの女性が「信じられへーん」と呟いた。それだけ壮絶な映画ということだ。
ホールでは12月は「お笑いだけが大阪やない!-根性・人情・心意気」と題して8本が上映中だ。『王将』『夫婦善哉』『悪名』の3本は見たことがあるので、出かけられる日も考え合わせてこの作品を選んだ。昭和23(1948)年の松竹大船作品、73分モノクロとなっているが、筆者が生まれる3年前、しかも大阪が舞台になっているということで期待して見た。主演は田中絹代だ。彼女の作品を見るのは、10月にこの映像ホールで見た同じ溝口健二監督の1946年作『歌麿をめぐる五人の女』以来、2本目だ。『歌麿』では田中の顔の大きなアップがあったが、他にも目立つ女優が4人も出ていたので印象はあまり強烈ではなかった。ところが今度は見事な汚れ役で、大阪弁も実にうまく、田中絹代という女優の魅力が初めてよくわかった。また、溝口健二はあまりに有名な監督であるにもかかわらず、まだ代表作を見たことがないので何とも言えないが、『歌麿』とこの作品を見る限り、強烈な印象を与える才能であることが納得出来る。溝口田中の両者はよくセットで語られるが、『雨月物語』や『西鶴一代女』という名作をぜひとも見なければならないという気がする。ネットで調べてみると、田中絹代は明治42(1909)年、下関に生まれ、7歳で天王寺に転居している。これが大阪弁が巧みである理由で、田中は半分以上は大阪人とみなしてよいだろう。一方、溝口監督は明治31(1898)年東京浅草生まれで、絵の勉強で一時黒田清輝の洋画研究所に通ったこともあるが、20代初め頃までは定職に就かず、大正9年に俳優を志して日活の向島撮影所に入社するも、監督助手に使命され、同11年には日活内部のごたごたによって早くも監督の役が回って来た。ところが同12年に関東大震災があって、日活は京都に移転することになった。溝口は昭和31年に58歳で京都で死ぬが、作った名作はみな上方をテーマにしたものと言ってよく、震災があって京都に来たことが溝口の生涯を決定した。これは目下『細雪』を読書中の谷崎潤一郎の場合とよく似ていて、関東大震災があったことで結果的に生まれた芸術家、ないし作品の好例に思える。溝口は『大阪物語』という映画の構想を抱きながら死んだが、もし完成したならどんなものになっていたかとても興味が湧く。それがかなわないながら、せめてこの『夜の女たち』は戦後のまだ瓦礫があちこちに残る大阪の街をあちこちロケしていて、大阪に生まれ育った筆者のような人間が見ればまた感慨もひときわだ。
田中絹代は下関で琵琶を習い初め、天王寺に引っ越してからも続けたそうだが、琵琶を伴奏とする舞台劇に立っていた頃、映画というものに接して女優への転身を図る。15歳で初出演し、とんとん拍子に出世して17歳ではもう売れっ子になり、清水監督と暮らし始めるも、2年ほど後にはもう別れる。その監督と喧嘩して、部屋の中でおしっこしてやると叫んでそのまま本当に畳のうえでおしっこした話はあまりに有名だ。1933年、24歳で『伊豆の踊子』、1938年、29歳で『愛染かつら』といった大ヒット作に主演し、人気は不動のものになったが、溝口監督作品への出演は『歌麿』以前にもあるが、『歌麿』の次に1947年の『女優須磨子の恋』、そしてこの『夜の女たち』が来る。生涯に250本ほどに出演し、監督としても6本を撮影したが、溝口は田中が初監督する時に反対で、そのことが両者が別れる原因になった。溝口はとにかく懲り性で、俳優の演技や小道具に至るまで強いこだわりを持っていて、クレーンを多用したり、ワン・カットを長回しで撮るなど、後の世代の監督に大きな影響を及ぼし、今でもヨーロッパでは評価が高い。だが、30年に約90本撮影したうちの57本が失われてしまったそうで、これは当然戦争のために違いないが、いかにも残念な話だ。1952(昭和27)年の『西鶴一代女』がヴェネツィア国際映画祭で国際賞を獲得し、これで新しい世代の監督の出現によってやや時代遅れになりかけていた溝口が一気にまた巨匠として認識されるようになった。この後に『雨月物語』『山椒太夫』も連続して受賞し、記録を作った。ざっと簡単に言えば、そんな溝口田中コンビの黄金時代から少し前に撮影されたのがこの作品だ。溝口作品としてはあまり評価は高くないようだが、田中の演技は見物で、とにかく強烈な印象を残す。溝口の女好きは有名で、玄人の女とよく遊んだそうだが、田中のことは眩しく見ていたところがあって、ふたりが実際のところはどういう関係にあったかはわからないが、男と女としてお互い意識していなければ、名作は撮れないだろう。そんな観点からこの映画を見るとまた別の見方が出来る気がする。
映画の内容はタイトルがそのままよく示している。ホールが作っているパンフレットから説明文の冒頭を引用する。「戦後の貧しさのなか息子を結核で亡くし、夫を戦争で失った房子は、闇屋あがりの栗山の秘書兼愛人となった。引き揚げてきた妹・夏子と暮らし始めたのも束の間、栗山が夏子にも手を出したのを知り、房子は失踪する。夏子がようやく捜しあてると、房子は娼婦の姉御になっていた。彼女は変わり果て、裏切られた憎しみから、すべての男への復讐に燃えていた…」。房子を田中絹代が演ずる。最初は夫の実家で病弱な子をひとり抱えて暮らしており、キモノを古着屋に持って行ってはお金に変え、それで子どもの栄養になる食べ物を買ったりしているが、古着屋のお婆さんは房子にもっとよい稼ぎがあると耳打ちする。このお婆さんは陰でポン引きをしているのだ。いかがわしい誘いに憤った房子だが、夫が復員途中で死亡したことを知り、また子どもも看病の甲斐なく死んでしまう。夫の死を知らせてくれた知人男性の会社の社長である栗山が、気の毒とばかりに房子を下心もあって雇うが、これが闇で麻薬を扱ういかがわしい人物で、房子が偶然出会った妹夏子に手を出す一方、刑事に追われて結局逮捕されてしまう。行き場を失い、自棄になった房子は古着屋のお婆さんのところに行って、かつての話を受け入れる。これが娼婦への転落への第一歩となる。この後、パンパンという言葉が頻出するなど、映画は一気にどぎつい様子を見せ始める。房子はがらりと雰囲気が変わり、パンパン仲間では有名な姉御になっている。夏子は姉を探すために夜の街を歩いていると、売春婦検挙の警察に間違って一緒に捕まってしまい、警察病院で性病検査を受けるために収容される。そこでたくさんの売春婦に混じって自分の姉を見つける。この間、もうひとつのドラマが並行して進む。それは房子の夫の兄の娘久美子が、たまたま夏子が勤めるキャバレーに連れて行ってもらい、そこで華やかな夜の世界に憧れを抱き、ある日ついに家出をしてしまう。大阪駅横の中央郵便局前でひとりぶらぶらしている時に声をかけて来た若い男があり、その男の言葉に乗せられるまま、その日のうちに男の餌食となる。しかも不良仲間の女性たちに身ぐるみ剥がされ、結局そのまま仲間になるように強制され、転落の道を辿る。やがて売春婦となった久美子をある日、房子は目撃し、久美子を同じ世界から抜け出させようとする。それにはパンパンの連中の許しがなければならず、房子はみんなから袋叩きにされながらも、久美子をかばうが、パンパンの中にも同情者がいて、結局久美子は足を洗えるであろうというところで映画が終わる。この最後の場面は、阿倍野の実際にあった教会の焼け跡で撮影されたそうだが、カメラが長回しされる夕暮れの中、ステンドグラスのマリア像が象徴的に映り、若い女たち二、三十人が乱闘し続け、非常に迫力あるものに仕上がっている。
展開はスピードが早く、また予想出来るようにどんどんと話が進む。たとえば栗山と房子が出会うシーンがあって、すぐにこのふたりは男女の関係になると思わせられるが、全くそのとおりで、次のシーンでは秘書となって房子は事務所で働いていて、すでに愛人となっている。同じようなことは、夏子の登場でも言える。夏子はすぐに栗山のものになるだろうなと思っていると、まさにそうだ。このように、見ていて予想がつく展開が多く、そこが欠点と言えなくもないが、こうした予想のつく展開の部分に映画は力点を置いていないので、それはあまり気にならず、むしろとんとんと予想どおりに話が進むので小気味よいと言える。救いようのないどろどろとした場面ばかりでは映画にならないので、どこかで房子が目覚めて厚生する場面がなくてはならない。そこで登場するのが、パンパンたちの性病を定期的に検診する医者だ。この医者はそうした女たちに手に職をつけさせて自立厚生させる施設を千里で運営している。その医師と房子が話すシーンがある。房子は男という男に性病をうつして復讐してやると言い放つと、医師はそんなことをしても心に傷が残るだけだと諭す。このあたりの場面が映画が教訓的に言いたいところかもしれない。また、こうした良心の塊のような医師を登場させなければ、当時としては映画が成立しなかったであろう。今ならば全く救いようのないままで主人公が悲惨に野垂れ死にする映画もあるだろうが、戦後間もない当時では、社会の最底辺にいる人々を扱ってもどこかに希望の光が見えるような内容にする必要がある。また、房子たちパンパンを社会の害悪とみなす純潔協会の婦人が医師に意見するシーンがあるが、それを房子たちが取り囲んで揶喩するシーンは見物で、この映画が房子たちのような売春婦に同情的であることが強調されている。やむにやまれない事情があってパンパンになってしまった女性が少なくなかったことを溝口は告発しているのだ。だが、一方では華やかさに憧れて落ちて行く久美子のような若い娘もまたいたわけで、そういう現実を見定めながら、女性たちの逞しさをあますところなく描いており、この映画で登場するまともな男性は、医師を除いていないという状態で、そこに監督の女性観も見られるだろう。
戦後間もない大阪の天王寺や阿倍野を舞台にした映画がほかにあるのかどうか知らないが、映画はまず大阪の街を高いところから眺め回すシーンから始まり、次第に角度を下げて、眼下にあるどこかの寺の境内あたりを見定める。この場面をどこから撮影したか気になる。戦中に解体された通天閣が再建されたのは1956年のことで、この映画の10年後のことだ。そのため、この映画の冒頭シーンを撮影するには飛行機かヘリコプターしかないように思うが、カメラはどこか固定したところで回されていたように思うので、考えられるとすれば昭和6年に鉄筋コンクリートで建った大阪城しかないが、堀が映らなかったからどうもそうではないだろう。また、空き地や道の両脇に瓦礫がたくさん残っている場所がよく映ったが、そんなところは何年か後にはみな消え去ったはずで、この映画でしか見られない風景は多い。だが、筆者がまだ小学生であった当時とよく似た空気が確かに映画には濃厚に流れていて、それをひしひしと感じてとても懐かしい思いをした。久美子が男に引っかけられるシーンでは、はっきりと大阪中央郵便局の外壁が映ったが、それは今と全く変わらないのに、その周囲はすっかり変わってしまっているため、戦後間もないこのあたりの風景の記録としても貴重な映画と言える。また、筆者は阿倍野界隈にあまり詳しくないのでよくわからないが、房子が住むアパートの共同ベランダからの眺めが何度か映り、房子がそこで洗濯物を干したり、その片隅に置かれた流し台で歯を磨いたりしながら、遠くに美術館か学校らしき建物や天王寺駅ビルがそびえているのが見えた。アパートからそこまでは大体2、3キロほどで、この距離からすれば、アパートのある場所は天下茶屋の聖天坂あたりになるが、そこに今佇んでもビルの山でもう同じように見わたすことは到底出来ないだろう。天下茶屋は今でも下町情緒が豊かであるし、7歳の田中絹代が下関から移住した時もそこかそこに近いあたりに住んだはずで、それを思うと、この映画は田中にとっては地元の空気の中で、ひょっとすれば自分もそんな境遇に陥っていたかもしれないという感情移入のもとで役づくりに挑めたかもしれない。筆者は大阪弁の上手な俳優はそれだけで贔屓目に見てしまうが、田中やあるいはちょい役のパンパン役も含めて、みなこの大阪弁が実によくて感心した。だが、夏子だけはずっと東京弁で通していたのが違和感があった。映画は東京でも上映されることを思ってのことかもしれないが、よけいなことだ。印象深いシーンのひとつは、警察病院での検査を逃れるために房子が高い石の塀を脚立を使って乗り越えるところだ。鉄条網を手で押し退け、そこを潜り抜けて向こう側に下りる演技はいかにも果敢な様子で女優魂を感じさせる。身長149センチの小柄で、特別に美人というわけでもないように思うが、『歌麿』で見せたキモノ姿はあまりにも似合い過ぎて、まるで浮世絵がそのまま動いているような気分にさせて艶めかしく、一方でこの映画における派手なパンハンの化粧と洋服姿でも圧倒的な存在感があるのはどういう理由からだろう。美人で背が高いだけでは名女優になれるはずがないことがよくわかる。筆者の家内は田中絹代に似ているとかつて年配者からしげしげと言われたことがあるそうだが、小柄なところや顔の全体的な雰囲気、どこか勝気な雰囲気など、確かにそういうところがあるかもしれない。