初日の17日に見て来た。関西で柳の民芸がどの程度知られているかは、この展覧会がどれほど人気があるかでわかるだろう。途中で正月休みを挟むが、来年1月29日までと会期は1か月ほどと長い。

見たはいいが、3階ホールでの映画の始まる時間が迫っていたため、「巨匠たち展」の方はほとんど素通りしてしまった。そのため、ここでの感想は「柳宗悦の民藝展」の部分のみになる。この展覧会は6月から8月の丸2か月、まだ行ったことはないが、神奈川県立近代美術館の葉山館で開催された。次に姫路美術館で11、12月と開催され、よほど見に行こうかとも考えたが、しばらく待てば地元京都で開催されるので我慢した。それほど待ったということだが、実際は柳の集めた民芸品は東京駒場の民芸館で見たことがあるし、また万博公園内の日本民芸館でも展示されたことがあるので、珍しくはない。だが、こうした回顧展が行なわれることは稀で、それが嬉しかった。駒場の民芸館では昭和63年の4月から6月にかけて『柳宗悦生誕百年記念特別展-柳宗悦の眼-』を開催しており、その後万博公園の民芸館でも全部ではないが、一部の作品が巡回したように思う。もっとも、大阪のこの民芸館にも民芸品の収蔵は多く、東京からたくさん運ぶまでもなかったかもしれない。生誕百年展が民芸館でのみ、いわばひっそりと行なわれたことに関して当時筆者はかなり不満であった。重要な区切りの年にそんな扱いはなかったと今も思っている。まるで民芸の炎がすっかり消えかかったような扱いで、そんな思いをずっと抱いて来たので、こうして18年も経ってようやく日本各地の美術館を巡回する展覧会が開催されるようになったことは嬉しい。それは民芸館での展示であれば図録が用意されないが、巡回企画展となると、それなりに立派な図録が必ず作られるからでもある。とはいえ、今回は買わなかったが。民芸展の図録はあまり例がない。1970年の大阪万博の際に日本民芸館が出展し、その時に作られた程度だ。その後と言えば1979年に神戸と熊本で開催された『日本の傳統 暮らしの美』があるが、図録が用意される本格的な民芸品紹介の展覧会は非常に少ない。いや皆無と言ってよい。そのため、今回の展覧会の図録は他に類例のない珍しいものになるはずだ。
筆者が柳を知って、春秋社から出版されていた12冊かの本を全部読破したのは20代前半のことだ。その後随分経ってから別の大手の出版社から全集も出たが、どういうわけか日本では柳はあまり知られていないように思う。と言うより半ば黙殺されている。この理由はさまざま考えられる。柳が健康美の宿る民芸を愛するあまり、贅を凝らしたような華美な芸術を否定したのはよく知られることだが、これは理屈ではわかるが、それを言ってしまえば身も蓋もないところがあり、芸術家からは非難を受けることが多いだろう。北大路魯山人もそんなひとりだ。たくさん物を作るという生活の中で手仕事が熟練し、妙な個性の入り込む隙のない、健康的と言える表現が生まれ得るのは実感としてよくわかる。だが、それは安い賃金しかもらえない手仕事の生活を前提にしていて、作られる物は健康かもしれないが、作っている人の生活は貧しく悲惨ということはよくあるだろう。そうした健康美のある物を継続的に作り出すために、一方で貧しい生活者があって当然ということになれば、これは人権上からも問題がある。誰でもそんな生活は御免であるし、貧しいながらいい仕事をしている自負は持てても、その自負だけでは生活がどうにも成り立って行かず、そのまま廃業して転職でもするしかないというのが日本の実情だ。そして、そのようにして各地の民芸品がたくさん廃絶されて来た。ここで考えるべきことは、いい仕事をすればそれに見合った価格を設定して、高価に取り引きされて当然だということだ。それを一旦許すと、不要な趣向を凝らした作品が次々と作られて、やがて作品からは健康美が失われて行く状態が生まれて得ることもよくわかるが、そうだからと言って、良質の手作りの品物が安価なままであるべきと押しつけを受けることは許されない。柳が亡くなった昭和36(1961)年以降、日本はすっかり変貌してしまって、もう柳が理想としたような安価で立派な民芸品を生み出すところはすっかりなくなってしまった。むしろ、今は稀少価値という付加価値の伴った高額商品になっている。それでいて昔のように競争相手があまりないから、質はかなり落ちている。これを嘆くのは簡単だが、お金本位のそういう時代に進んで来たのであるから仕方のないことと言える。また、仮に安価で良質を民芸品があったとしても、それは安価であるゆえ安物と見られ、結局はまともな評価を得られないだろう。
柳と意見を同じくして集まった、今回は巨匠として作品が展示されていた濱田や河井、富本、黒田、芹澤といった人々は、無名の人が作る民芸の美しさに習うことを唱えながら、自分たちの表現に突き進み、そうして生み出された工芸品は、無名どころか、学もきちんと入って洋行もし、後年には人間国宝に指定され、超高価な、とても庶民には手の届かない大芸術品となった。そうなれば、民芸の定義が曖昧なものになってしまい、また誤解もされ始める。結局柳が見出した民芸品も従来の芸術の一部として扱えばそれで済む問題ではないかという見方も出て来て、これは実際そうではないだろうか。確かに柳が民芸を唱えたことによって、民芸品が明確な形を持って人々の目の前に出現して来たが、それらは民芸という言葉がなかった時代から同じ形として存在していたはずで、民芸は普遍的な名称でありながらも、どこかで柳とのみ結びついて存在している、つまり柳の眼差しでしかないとも言える。であるからこそ、生誕百年展の時に「柳宗悦の眼」と題されたのであろう。ただし、誰も美しいと言わなかったものに対して、明確な言葉でそれを唱えるのは創造的な行為であり、誰にでも出来ることではない。いや、ほとんど誰にも出来ない行為だ。それを柳が自分の勘にしたがって、あたかも芋蔓式に次々と各地で珍しいものを発見して行ったのは、植物学者リンネの分類とどこか似て、未踏の分野を駆け巡った天才の仕事として記憶すべきことと言える。そして、20代前半の西欧近代美術の紹介からスタートして、やがて植民地下の朝鮮や、あるいは琉球に赴いて現地の素朴な造形に開眼し、それらの美的価値を宣伝し、保護にも積極的に努力したことは、並み大抵の才能や努力では出来ないことだ。しかも、活動を大きなパトロンに負うことなく、全部自分の資財で賄ったところにさらに偉大さがある。動乱期の朝鮮半島において、ほとんど誰も顧みなかった造形美に狂喜して数々の工芸品を集めたことは、現在の韓国にとってもそれは文化としての恩人であり、柳が日本ではそうではないのに、韓国では死後に勲章を授与されていることは、柳の思いが現在の韓国にも生きづいていることの現われとして日本人は誇ってよい。だが、このことが逆に嫌韓派にとっては柳を過少評価したくなるところであるかもしれないし、一部の韓国人にすれば、朝鮮半島の民芸品からヒントを得て、後年人間国宝になるような日本人作家が生まれたと見るであろうし、いい意味においてもそうでない意味においても、日本と朝鮮半島の造形芸術のひとつの強いつながりが、この柳という一青年の果敢な活動によって90年ほど前に幕開きされたことは紛れのない事実であり、このことの重要性は決して色褪せず、今後数百年は繰り返し顧みられることであるに違いない。そのように、柳が欧米一辺倒の立場を20代からすでに軽く飛び越え、朝鮮半島の全く未知なる美を積極的に評価出来たことは、コスモポリタンとしての人格をよく表現しているが、これは現在でもなお抜き難い人種的優越主義ゆえの偏見に囚われている人々を痛烈に批判していることにもなり、その点が日本で柳宗悦という巨人の過少評価の原因になっていないことを望む。
そんな柳でも没後に韓国側から少し反論が出た。柳が白磁の白を朝鮮民族の悲しみの色として捉えたことに対してだ。柳は植民地下の朝鮮人を同情の眼差しで見るあまり、白磁のはかない白さを悲しみの象徴と思ったが、朝鮮人にとっての白は悲しみではなく、すべての色をはねのける抵抗の色といった意見であったと思うが、そんな反論はいわば瑣末的な問題だ。柳が滅び行こうとしている朝鮮の美術や建築の保存を当時の総督府に積極的に駆け合った事実は、まさに行動の人であって、柳以外の誰が当時そんなことを実行しようとしたであろうか。考えることすらしなかった知識人ばかりではなかったか。その意味において、会場には柳がソウルの景福宮にある緝敬堂に開館した朝鮮民族美術館内での柳のスーツ姿の写真があった。当時20代半ばの年齢だ。足元はゴム長靴を履いていて、これがいかにも行動の人という感じがしてよかった。決して部屋に籠もり切っての文献主義の学者ではなかったことをよく知らせてくれる。本当の知識人とはこうあるべきという姿を柳は一貫して示しているが、そこがまた多くの知識人にとっては目のうえのたんこぶのように鬱陶しく見えるところなのかもしれない。今回はパネル説明が多めであったが、体裁が不揃いで、散漫な印象を与えた。それだけ柳の活動が多岐にわたるということを示してもいるが、テーマの絞り方はわかりやすくてよかった。全部で8つに分けた展示で、1「柳宗悦の白樺時代」、2「李朝工芸と朝鮮民族美術館設立」、3「木喰仏の発見」、4「民芸運動の発展」、5「民芸の巨匠たち」、7「柳の茶道」、8「柳宗悦の仏教と美の浄土」と時代順に生涯を辿っている。約150点の展示物は、東京の民芸館を訪れたことのある人にとっては見覚えがあるものばかりと言ってよいが、別の場所から持って来られたものもある。ところで、京都は雅びの言葉で代表される場所であるので、民芸とは相容れないことが多いと言ってよいが、柳が一時期京都に住んで、盛んに弘法さんの縁日などで民芸品を買い集めたことはやはりと言うべきだろう。だが、柳はどの地域のどんな民芸品でも等しく評価したのではないように思う。たとえばだが、土人形に関して柳は筆者の知る限り、伏見人形に言及せず、評価もしていない。これはなぜかと思うと、民衆のものであっても雅びの要素が濃いと判断したからであろう。いかに土人形の源流であっても、もっと力強くていいものが他県にあると考えた。柳は日本各地をくまなく歩いて民芸品を探ったから、偏った見方をしていたとは言えない。だが、どうも京都の造形に関しては点が辛い。友禅染でも型ものは評価しても、手描きのものは否定している。民芸論を展開する立場上、それもわからないではないが、そうきっぱとりと断罪されると、その仕事に携わる者とすれば反論したくもなる。柳は芸術家の道は、美の王道を踏み外しやすいことと言っているが、それはわかるとして、であるからこそその難しい道に進もうとする人は多いし、そしてその道を十全に歩み切る人も少なくない。そして晩年に柳は「作家は僧侶であり、職人は平信徒であっていいのです。それらのものの統合こそ工芸の王国を早く来らすでしょう」と語り、作家と無名の工人は矛盾しない存在だと論じたが、ここに一種の転向や諦念めいたものを読み取ることも出来る気がする。