衝動と言えばおおげさだが、郷土玩具収集家のMさんから聞いた話にとても興味深いことがあって、それが御所の神社に関係することから、筆者はそれがどの神社に該当するのかを突き止めるために、京都御苑内かそのすぐ近くの神社を回ってみようと思い立った。

去年11月21日はそのためだけに1日を費やした。たいていはいくつかの用事を作って出かける筆者なので、それは異例のことに属する。それでもその日に見学した神社は14,5にのぼり、現在までそれほど多くの神社を1日に見たことはない。それで、結果を言えば、Mさんの言う御所の神社がどこかは特定出来ていないが、これはMさんに訊いてもわからないかもしれない。Mさんは絵馬収集家のとある人物からその話を聞いたが、その収集家はもうこの世にいない。それはともかく、絵馬の奉納はたいていの神社で行なわれている。宗像神社もそうで、一昨日載せた最初の拝殿の写真の左端にそれが写っている。規模が小さいので訪れる人が少ないことが想像出来る。間近で絵馬を確認しなかったが、どういう絵柄なのか気になる。この神社の主祭神は宗像三女神で、玄界灘をわたるのに御利益があるとされる。それで境内に琴平神社があることに納得が行くが、絵馬に三女神が描かれていれば面白い。その絵をたとえば現代のアニメ風にすれば若者の間で評判が広まり、訪れる人が増えるかもしれない。もっとも、そのことを京都御苑やこの神社が歓迎するかどうかはわからない。全く知られないでは困るが、大勢の人が狭い境内にひっきりなしにやって来るのも問題があるだろう。玄界灘をわたる際の安全を祈願する神を祀るとなれば、遣隋使や遣唐使以前の頃から日本は大陸とはつながりが深く、この神社が創られた意味がわかるが、現代は飛行機で人々は往来する。観光客の大半もそうで、ならば金毘羅宮やこの神社は時代遅れと言えそうだが、20世紀に創られた航空神社や飛行神社は一般にはあまり有名ではない。神社は創建が古いものほど重要という、歴史を尊ぶ気持ちと、やはり日本が海に囲まれる現実が見える。それはさておき、宗像三女神を祀る神社がなぜ平安京の東西に立つ市を守護するようになったのかは知らないが、玄界灘をわたることは貿易の目的も含み、文物が移動する。一方、市は物を流通させ、時には貿易品もそこに含まれたかもしれない。そう考えると、宗像神社は人や物の盛んな移動を願うための神社で、それが京都御苑の中にあることは、最近はますます意味を持つようになって来ていると言える。

一昨日の5枚目の写真は拝殿と対峙するように建っていて、写真左端に半分見える立て札には「客殿」と書いてあったように思う。小さな石の反り橋があり、また建物も4畳半ほどのように狭く見えるが、この神社ではよくコンサートが開かれ、その舞台となるのだろう。前の石畳を右手に進むと、今日の最初の写真の、元は紫宸殿にあった左近の桜の若木が植えられている。左近の桜が枯れる前にそれから若木を育てたものだろう。これがあまりに大きくなると、幅の狭い参道としては邪魔になるので、別の場所に移植し、現在の左近の桜が枯れるとその代替として移し変えるのではないか。参道をさらに少し進み、南の鳥居に至るまでの西側に今日の3枚目の京都観光神社がある。これには驚いた。こういう名前の神社があるならば、神社はいつでもどんな神様でも祀ることが出来そうだ。実際そのとおりだろう。だが観光神社はいかにも京都らしくて面白い。1969年の創建というが、65年にデューク・エイセスの「京都大原三千院」の歌詞から始まる「女ひとり」という歌が大ヒットし、また当時日本で大人気であったベンチャーズが「京都の恋」を70年に発表し、今につながる京都観光ブームに火をつけた。だが、この神社は荒れているとは言わないまでも、鳥居奥に覗く提灯の列はかなり古びて手入れが幾分疎かにされている感が漂う。もう神社に頼らずとも今では外国人観光客も大挙して押し寄せるようになったからかもしれないが、神様を粗末に扱うといずれしっぺ返しが来る。むしろ観光客が増加している現在、この神社をもう少し工夫して参拝しやすい雰囲気にするのがいいのではないか。観光スポットになると、それはそれで前述のようにまた問題が生じる可能性が大きいが、こういう神社が建てるほどに京都が観光都市として成長して行くことを願った人たちがいることをもう少し世間にわかってもらうのはいいように思う。境内の南西角にこの観光神社があることは、宗像神社が東西の市を守護する役割を担ったことからして、矛盾はないだろう。今は神頼みは流行らないかもしれないが、この観光神社は広く考えると、ただ観光客が大勢来てお金を使ってくれることを願ったのではなく、観光客の安全やまた旅に満足してもらおうという思いも込めたものだろう。玄界灘を安全に航行することを願うための宗像三女神であることからすればそれは当然だ。

観光神社の向かい側に今日の4枚目の写真の鳥居があった。これはさらに古くなっていて、修復中だ。花山稲荷社で、花山院家の守護神を祀る。何となく拝殿のすぐ南にある繁栄稲荷社とだぶる気がするが、祀る神は異なる。命婦稲荷神と倉稲魂神で、前者は商売繁盛、後者は穀物の神だ。合祀してもいいような気がするが、建った経緯が異なるのでそのままふたつの祠が離れた場所にあるのだろう。写真の右端に太い幹が少し見える。これは京都御苑で最も古い楠で、樹齢600年とされる。今はもう修復が終わって、鳥居も朱色が鮮やかになったと思うが、楠の大木の下では何となく近寄り難い雰囲気がある。奥の白壁の塀は境内を区切るもので、塀の向こうは御苑だ。4枚目の写真は南の鳥居で、鳥居の右柱のすぐ右手に花山稲荷社の色褪せた朱色の鳥居が、また写真右端には修復に使うアルミの脚立がそれぞれ見えている。南の鳥居の数メートル奥に男性がひとり立ってこちらを向いているが、一昨日の投稿の2枚目の写真の左端で琴平神社を拝んでいた人で、筆者と同じような速度で南に移動したことがわかる。そんなことを思いながら筆者は次の御苑内の神社へと回るのに急いだ。半ば衝動的、半ば計画的に神社巡りに出かけた1日で、精力的に踏破したいと思った。