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●梅雨入り前の白花、その3
はよく聴いた曲が懐かしくて今もよく聴くかとなると、そういう曲もあるが、さっぱり忘れている曲もある。最近筆者はジョニ・ミッチェルの現在のところ最新アルバム『SHINE』を聴いている。



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これがなかなかよくて、もう100回は聴き、こうして書きながらまた聴いている。去年だったか、ジョニは病院に運ばれたというニュースがあった。その後どうなったのか知らないが、入院したままだろうか。1943年生まれなので、現在70代半ばでそういうことがあっても不思議な年齢ではない。『SHINE』は2007年のアルバムで、当時発売されたことを知ったが、ジャケットが何となく彼女らしくない陰気さで買わなかった。それが最近、すっかり春になったことも手伝って、ジョニのことを思い出した。実はもう10年近く彼女の音楽を聴かず、その存在を忘れていた。聴き始めるとどっぷり浸かるが、一旦忘れるとそのままになってしまう。それだけ筆者にとってあまり大切なミュージシャンでないのかもしれない。だが、何となくジョニが入院したまま死んでしまいそうな気がして、最後のアルバム『SHINE』を聴いてみようという気になった。そして何度も聴くうちに、少ない音でまとめられているが、無駄を一切排除した、またそれでいながら彼女の一時期の音楽のような冷たさはなく、全体にとても温かい。特に筆者が気に入っているのは最後の「IF」という曲で、それを聴きたいためにまた最初から聴く。パソコンではその曲ばかりを自動演奏で鳴らすことは出来ないからだ。「IF」は聴き手を勇気づける歌詞で、この曲がジョニの最後のアルバムの最後の曲になっていることに筆者はさすがジョニという大物の精神に改めて感服する。その一方、このアルバムは60代半ば、すなわち今の筆者の年齢で発表されたことに感じ入ることが多い。芸術家はさまざまであるので、最も活発的な時期を何歳頃かと決めることは出来ないが、ジョニの場合は最後の輝きが60代半ばで、その後10年間は作曲をしていないことになる。10年も隠居同然の生活が続くと、もうよほどの刺激がなければ、過去の栄光をさらに増すような作品を生むことは難しいだろう。『SHINE』のほかの曲に添えられたジョニの言葉からは、花や小動物に囲まれ、あるいは熊を目撃するなど、カナダの豊かな自然に囲まれて悠々自適に暮らしていることが伝わるが、そういう生活の中から生まれた『SHINE』がいいと思う筆者は彼女のような最晩年に憧れているのだろうかと、多少自問はする。だが、日本のそのような自然が得られる地域に住むには車が欠かせず、筆者は自宅の裏庭の猫の額のような小さな庭の木々や草花だけを今後も眺めるのだろうと思う。そうであるので、梅津や嵯峨野のスーパーに買物に行く時は、よく草花に目が行く。
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 それで今日は昨日の買物がてらの散歩で撮った写真を載せるが、先日と同じ題名を使い、また白い花の写真をまとめる。同じ道を歩くのであれば、もう新しい白い花は見当たらないと思っていいが、1週間ほどた経つので、また新たに開花しているかもしれない。それに昨日は梅津のムーギョとトモイチで買物をした後、四条通りから北上し、嵯峨野のスーパーに行くことにした。以前もそのように歩いたが、その時は道に迷い、太秦近くに出てしまった。今回はなるべく道を左鳳凰に選んだが、初めて歩く地域があった。2、30年前なら広々とした田畑であったところが、今は小さな住宅が迷路のように密集し、また道が碁盤目状になっていないので、曲がり角をひとつ間違うととんでもないところに行ってしまう。有栖川が流れているからでもあるが、やはり地元の農家が農地を少しずつ切り売りした結果で、その雑然とした狭い道の網目が面白いと言えば言えるかもしれない。整然とした街の区画は郊外の宅地造成された地域で、そこではほとんど同じ大きさの家が同じ向きに建っている。そうした人工的な、そして豊かさを装った街よりも、梅津の北に接する嵯峨野は、大半がさほど豊かでもない小さな家が集まり、そのつんと澄ましたところがない点で、筆者は郊外に大型プロジェクトで宅地造成された街よりも好ましく感じる。また、少しずつ小さな家が増殖した地域なので、好きなように玄関脇に草花を植えている家が目立つ。そのことはあまり予想しなかったが、目的地を目指しながら、初めて歩く道を進みながら、時々筆者が求める白い花が目の前に現われるのは楽しかった。不審者に思われたかもしれないが、それは考え過ぎで、筆者のような格好の人が住む街で違和感はないと思う。とはいえ、筆者は住みたいとは思わない。第一、繁華街に出るのに三条通りを走るバスか、あるいは嵐電くらいしかないが、そのどちらも筆者にすればかなり距離がある。それでどの家も車を所有するが、そういう生活を筆者は求めない。そう言えば、ジョニ・ミッチェルには車にまつわる曲が多く、また彼女は車の運転が大好きだが、雄大な自然を堪能する生活の中に車を持ち込むというのは、彼女にとって矛盾はないのだろうか。たぶんないだろう。定期的にアルバムを発表し続ける生活は、片方の足を都会に載せていることになりはしまいか。また、そういう彼女であるので、筆者は一時期彼女の音楽に夢中になった。
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 さて、新たな白い花はたくさん咲いていた。それらを撮った順にまた4枚ずつ正方形につないで載せるが、「その4」の分まである。花のだぶりがないようにしたつもりだが、実際はどうだろう。白い花に目が行くのは、筆者がだんだんと何事においても淡白になって来ているからかもしれない。髪が白くなるのと同じだ。これは前に二度書いたと思うが、マーク・トウェインは晩年に白のスーツを着て生活をした。それではすぐに汚れて困るが、汚れることを嫌ったのだ。その考えは何となく筆者にわかる。その汚れは、物理的なそれを指しているが、人間の汚れた思いも嫌悪したのだろう。高齢になると、もうあまり我慢してまで気分のよくない人と話をしたいとは思わない。若い頃は学校や会社などでさんざんそういう思いを誰しもするが、そういう強いられた生活から脱すると、もうそういう状態に戻りたくはない。ジョニ・ミッチェルなどはもっとそういう考えだろう。自分の好きなことだけをし、好きな人とだけ会って話す。筆者もそういう暮らしが出来れば、後は何も望まないという心境になりつつある。マーク・トウェインは小説家であるので、最晩年になってもそのネタを追い求め、また文章を書いたが、しだいにペシミズムに覆われて行く。そこがジョニとは違うかもしれないが、ジョニも『SHINE』以降の70代に曲を書いていれば、それがどうなっていたかはわからない。60代半ばと70代とでは人生の見方が違うだろう。ただし、男と女の違いはあるかもしれない。そう考えると、ジョニが「IF」という曲をいちおう最後の曲としていることは聴き手にとっては幸福なことだ。それは芸術家としての自己演出の巧みさで、また自分をどのように記憶してほしいかの希望、そしてそのための覚悟の表われで、表現者はみなそういう自意識を持っている。プロ根性と言えばいいかもしれない。筆者のこのブログは収入にならないので、プロ根性とは無縁だが、それでも書くからにはそれなりの自分らしさが出るようにとの思いは持っている。そしてこのブログが少しずつ高齢や老化の話題が増えていることはよく自覚しているが、それはジョニ・ミッチェルやマーク・トウェインも同じであったはずで、昔のことを思い出しながら、現実をまじまじと見つめている。そして、その現実の中から好きなことだけを取り出して見つめたい。そのひとつが路傍に咲く白い花ということだ。
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by uuuzen | 2017-04-19 23:59 | ●新・嵐山だより
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