誰に見られても恥ずかしくない身なりという考えを誰しもそれなりに抱いていると思うが、では年中礼服を着て過ごすかと言えば、そんな人はいない。それでTPOにしたがって服装を変えるが、ひとりで行動する場合と夫婦の場合はまた違う。
最近家内と電車に乗って出かけると、60代や70代の夫婦の姿をよく見かける。一昨日は目についた夫婦が2組あった。どちらも夫婦の服装はそれなりに似た雰囲気で、仲のよさと言えばいいか、出かける時にどういう服装にするかを多少は話し合ったであろうことが伝わる。そういう場合はたいていは奥さんが主導権を握り、夫はいいなりではないだろうか。筆者は家内が反対するような服装でよく出かけようとするが、近年は諦めたのか、文句を言わなくなり、またどことなく筆者と似た雰囲気の服装になっている。従姉の旦那さんが、今から15年ほど前か、出かける時にどういう服装をすればいいか困ると筆者に言ったことがある。当時60代になったばかりの頃だ。家にいる時はジャージ姿でいいが、人と会わないまでも、市街地に出かける時はそれなりに恥ずかしくない格好をしなければならないという意識を抱く。そして、結局は自分の好みの格好になるが、それは人からどう見られたいかの思いを反映すると言える。あるいはある考えで見られてもかまわないという意識だ。また、若い頃は汚れた服を着ていてもそれを跳ね返す若さゆえの美があるが、顔や体に皺が目立ち、髪も少なく、あるいは灰色が目立つと、それを誇張するような色合いの服装やまた着こなしは避けなければならない。だが、その程度が難しいというわけだ。若者が着るような服では精神年齢が若いというより浅はかと思われるし、また実際似合っていないと思わせられる場面によく出くわす。案外筆者はそんな格好をしているかもしれないが、そこは多少目立っても個性であると割り切っている。話を戻すと、先の2組の夫婦のうち、最初の1組は筆者らと同じ60代前半のようで、阪急電車の嵐山駅で筆者らの真正面に座った。運動靴を履いていたので、嵯峨辺りを散策したのだろう。夫はガラスが鏡のように照るサングラス、野球帽、チェックの長袖シャツをまくっていて、チョビ髭を生やしていた。妻の顔は記憶にとてもうすかったのでほとんど覚えていないが、精悍な夫に従順で、文句を言わずにただ着いて行くだけといった感じがあった。桂駅に着くまでの間、夫はサングラス越しに筆者を何度か見たようで、そのたびに筆者もふたりを観察した。夫の服装は筆者なら電車で出かける時には絶対にせず、また夫の仕事も何となく想像出来るが、同じ自治会であればそれなりに話が弾むように思えた。もう1組はホテルでの食事会の後、寺町の喫茶店で1時間ほど過ごし、それから三条通りを文化博物館まで歩いた時のことだ。同館を出て大丸に向かう途中、筆者のすぐ目の前を70歳ほどの女性がゆっくり歩いていた。そして振り返りながら厳しい顔をしたが、夫は何をしていたのか、筆者の後方にいて、筆者の傍らを党利過ぎて妻に追い着いた。妻は足がとても細く、黒のストッキング、ミニのタイト・スカート、ジャケットは赤を基調にした、細かいチェック柄だ。ショルダーバッグを肩にかけ、髪は染めてパーマをちりちりにかけているが、背が低いので筆者には頭頂部の髪がうすくなった部分が丸見えだ。比較的裕福なようで、それは夫の後ろ姿からもわかった。夫は妻と身長はほとんど同じで、150センチほどか。妻が選んだような服装で、黒の中折れ帽、赤地に太い黒のチェック柄のシャツで、妻の言うことは何でも聞くという優しい、あるいは頼りない夫に見えた。妻は筆者と目が会い、その際筆者を瞬時に値踏みしたかもしれないが、一番の関心は筆者が何歳であるかだろう。筆者は筆者で相手は数歳上だなと思ったが、ともかく日本が高齢化を迎え、高齢者の夫婦が街中でますます目立つようになっている。だが、おしどり夫婦と呼ぶには仲のよさの見え方はさまざまで、筆者と家内は傍目にどう見えているのかと思う。
家内は今頃の季節は出かける時に何を着ればいいか迷うと言う。確かにそうだ。今日は30度まで気温が上がった地域があったそうだが、明日からずっとそうかとい言えば、絶対にそうはならず、また10度台の日がある。そうなれば多少は冬の衣類も出番があるかもしれない。春用のコートもさまざまで、筆者も家内もそんなにたくさん衣装は持っていないが、筆者と出かける時に家内は筆者に合わせるための服装がないと、特に今頃の季節は言う。筆者は出かける時はさっさと自分が好きな格好をするが、ぐずぐずしている家内の仕上がった格好を見ると、どうも筆者の服装とは合わないとお互いに思う場合がたまにある。そういう時は家内は三度ほど着替えるが、一昨日がそうであった。ホテルでの食事会という条件があったのでなおさらであった。結局筆者とはあまり釣り合いの取れない格好になったが、何度か着替えをしたため、充分時間の余裕があると思っていたホテルへの到着は、10分前というぎりぎりになった。それも河原町通りを四条から御池までほとんど走ってのことだ。また、そんなに急いだので汗が吹き出て、家内は着ていたコートは失敗だったと思ったようだ。梅津や嵯峨に買物に行く時は筆者も家内もほとんど服装は気にしない。風風の湯には家にいるのと同じ格好で、しかもサンダルを履いて行くが、顔見知りになった受付の人たちは筆者らを経済的に貧しい夫婦とみなしているだろう。それほどいつも同じ格好で、また安っぽい服装だが、家のすぐ近くで、出会う人は観光客がほとんどでは、普段着で充分と思っている。一度、筆者は電車やバスに乗って出かける時に、いわば普段着よりはましな格好で風風の湯に行ったことがある。確か、外出先から帰宅して普段着に着替えるのが面倒であったからだ。そして、サングラスもかけていた。その格好で受付の前に立つと、みな一瞬筆者とは思わなかったようで、とても意外といったことを言われた。これは馬子にも衣装のたとえそのままのようなことであったのだろう。そう言えば風風の湯の常連客は、みな車か電車でやって来る。そのため、家の中でごろごろしている時のような服装ではなく、温泉から出た後、どこかの店に行くかのような、割合きれいな格好をしている。筆者もいかに同温泉がわが家から徒歩ですぐのところにあるとはいえ、それなりにたくさんの人に見られるので、あまりにも普段着過ぎるのはまずいかと思わないでもないが、面倒くさい思いが先に立つ。そういう考えが高齢者の貧富の見え方を左右する最大の要因であろう。家の中にいても、いつ来客があるかわからないと緊張しておき、いつ誰に見られても恥ずかしくない身なりを普段からしているべきなのだろう。それが金持ちになる最低条件で、そういうことの出来ない人が貧乏夫婦と見られてしまう。さて、今日はまたいつも同じ安っぽい格好で家内と買物に出かけた。梅津から嵯峨野に、つまり時計とは反対回りに歩き、またカメラを持って出かけたので、先日に続いて白い花を見つけて写真を撮った。それらは後日使うとして、今日はトモイチの玄関前の駐車場で見かけた鴨の夫婦の写真を載せる。二羽は数人の客が目の前にいてもいっこうに動じず、30メートルほど時計とは反対回りに歩き、筆者のすぐそばで急に飛び去った。鴨にとっての常識かどうか、雌が雄の前を歩いていた。鳥は雄の方が羽毛の色合いが派手できれいだが、雄は雌に選ばれる存在だ。人間の女が男よりきれいだとすれば、それは男が女の品定めをするからだ。また、おしどり夫婦ならぬ鴨夫婦を見ながら筆者は思った。着た切り雀という言葉があるが、鳥は外出する時の衣装を決める必要がなくて便利だ。3枚目は梅津から嵯峨野。そして渡月橋をわたって桂側右岸で撮った。右端に立つカップルは、マキシワンピースを着た女性がポーズを作って男性に写真を撮らせていたが、派手な花柄が目立ち、男の服装とあまり釣り合っていないように思えた。