体を通過させるのはそれほど大きな穴は必要ない。マンホールでも直径60センチほどで、肩が抜ければ後は全部通ることが出来る。今日は6日に撮った写真を載せる。このカテゴリーの「駅構内の改修」は今回が最後だ。
以前から気になっていた駅南側のスロープのたどり着く場所が改札のどこにどうつながるかは、ようやく今日の最初の写真で伝えることが出来る。その中央に空けられている穴つまり出口は、前回嵐山駅を利用した時に見かけていたが、その時はカメラを持っていなかった。また、3月下旬に嵐山駅を利用した時、この最初の写真の右端すぐのところにある休憩室でしばし電車を待った際、そのガラス窓にバリア・フリーの工事が確か25日に完成するとあった。ただし、その時は今日の最初の写真の中央の穴は何かで覆われていたため、気づかなかった。この穴は車椅子の人が出て来るのにちょうどいい幅の広さだ。それで、予想どおり、スロープは車椅子の利用者専用で、この出口はほとんど使われないだろう。また、ここから入ってプラットフォームに上ることがあるかどうかだが、それはないように思う。となると、筆者がこの新しく空けられた口を通過することはなく、そのため、この口から向こうがどうなっているかも撮影することが出来ない。それをするには車椅子に乗るか、乗った人に頼むしかない。そこまでしたい考えはないので、今日の写真で満足する。6日は円山公園の桜と、近代美術館に展覧会に行ったが、嵐山駅から電車に乗る際、今日の最初の写真を撮った直後に発車のブザーが鳴った。それで慌てて車内に駆け込んだので、今日の残り3枚の写真は河原町から帰って来た際に撮った。傘を持って出かけたが、それを使ったのは嵐山駅からわが家までで、どうにか雨に祟られずに済んだ。下りた客がみな改札から出て行く頃を見計らって撮ったが、工事は完成し、以前と同じような状態だ。ほとんど価値がないが、満開の桜が写り込むので撮った。それに4枚目の改札に向かうスロープが幅が少し広くなり、また両側の手すりが新しくなったことがよくわかる。桜が満開になる直前に完成させることが目的で、その計画どおりに工事は進んだ。ただし、それは駅構内だけで、南側のスロープの外の、道と隔てる塀は、工事関係者の自動車が出入り出来る雑然とした状態で、その工事が今後どうなるか見守る必要がある。そのため、「駅構内の改修」は今日で終わるが、「脇道沿いの空地」の題名で今後も投稿があるかもしれない。
今回のバリア・フリーの工事は、松尾駅、上桂駅も同時に行なわれ、また同時に完成した。以前、上桂駅は現在の東側の改札口のみで、西側には新たに作られないのではないかと書いたが、実際は松尾駅もそうだが、踏み切りをわたらずに、東西どちらの側からもプラットフォームに行けるようになった。ただし、もちろんのこと、たとえば上桂から桂方面に行く人が東側から入れば地下をくぐって西側のプラットフォームに行かねばならない。以前は上桂駅から嵐山に向かう場合、東側から入って地下をくぐって西側に行ったが、踏み切りを越えて西側に新たに出来た改札口を利用すればよい。上桂駅ではそのため、プラットフォームの長さが北に15メートルほど延長された。そのため、同駅で下りた人は歩く距離がほんの少し減って改札から踏み切り辺りに行くことが出来るようになった。また、スロープが設置されたのは嵐山駅と同じだが、筆者はまだ松尾駅も上桂駅も工事が終わってからは利用していないので、詳しくは知らない。それを言えば嵐山駅もそうで、北側のスロープは今日の3枚目のように遠くから眺めるだけで、どこがどうつながっているかわからない。また、その3枚目の写真からわかるように、ずっと奥、駅の土地の北端はまだ工事用のシートを被せた仕切り塀があって、南側と同じように、あまり目立たないところはこれからでもよいとの判断のようだ。実際、3枚目の奥のその工事の塀に注目する人はまずいないはずで、そう思えば筆者が記録しておくことは、ほんのわずかでも意味があるだろう。もっとも、その意味は筆者が後で見て、「ああ、あの日はこんな様子であったか」と納得することで、ほかの人にとってはどうでもいいことだ。
6日に撮った写真が今頃の投稿になるのはまずいが、同じカテゴリーへの投稿が4日続くことを避けた。また、それほどに続けてこのカテゴリー用の写真を撮ったのだが、同じ日に2日分を、また3日続けて撮ったからだ。工事の進展にさほど変化がないのであれば、撮らない方がいいが、家にこもっている筆者は、出かける時にはなるべく撮りたいと思う。わざわざ撮るために出かけるのではなしに、出かけるついでだ。わざわざ撮るために家を出るのはムーンゴッタくらいなものだ。そのほかはどれも出かける用事のついでで、それほどにこのブログの投稿内容はどうでもいいようなことが主体だ。それはよく自覚しているが、投稿を何年も続けていると、内容の雰囲気にゆっくりとした変化はあるはずで、またそのかすかな変化が自分で楽しいと言えばいいか、それを感じ取りたいためにどうでもいい文章でも意味があると思っている。つまり、何かためになる内容が目的ではなく、生活して行く中での意識の移ろいをなるべく客観視したいためだ。実際はそれは書いている本人よりも読み手が感じ取りやすいはずだが、筆者がその読み手の思いになって眺められる気がしているし、またそれが面白い。これは人生を楽しんでいることと同義だが、予期しない事故などに遭遇した場合にそのような平和でのんびりとした感慨に耽っていることが出来るかという疑問も心の片隅に忘れてはいない。そういう事故がないことを願っているが、これは不意に訪れるもので、覚悟していてもどうなるかはわからない。こうして書いていて筆者が思うのは、大地震だ。寝ている間にそれがあれば、筆者は箪笥の下敷きになって顔を潰すはずで、時々そんなことを思いながら布団の中に入るが、目覚めれば朝で、無事であることを思いもせずにその日を暮らす。数日前のTVで、熊本の大震災で夫が倒壊した家の下敷きになり、それを助けてもらうために救急隊員に鳴きながら助けを求めている女性の様子が映った。とても生々しい映像で、若い救急隊員たちは、夜間、余震が起こる中、屋根を電動鋸で切り取り、そして太い軒柱で挟まって動けない男性をどうして救出すればいいか試行錯誤しながら動いていたが、うまい具合に救出された男性は、その後妻とともに仮設住宅の前で笑顔で話していた。救急隊がいなければ死んでいたか、あるいは救出が遅れて、両足を切断、もしくはそのために死んでいたであろう。そう思えば、家はなくなったが、命は無事で、ふたりの笑顔はとても純粋であった。生きていればそれだけでいい。平凡な日々の連続であっても、季節の推移を感じ、人生のゆるやかな変化を味わう。無意味のようなことの連続の中に大切な何かがある。