字の読み方が違うことを知ると一人前かもしれないが、家内は「浅草寺」を「せんそうじ」と読むことを今回知った。それほど東京に馴染みがないか、あるいは無学なだけかだが、「あさくさでら」と読ませてもいいような気がする。
だが、「せんそうでら」ではまずい。戦争を思い出させるからだ。それはそうと、浅草寺は金龍山と呼ぶが、若冲時代に生きた金龍道人は浅草の生まれで、京都に行って若冲や売茶翁らと交流したが、京都から去った後はその痕跡が消されたようで、その事情がわからないとされる。京都人は閉鎖的で気ぐらいが高く、江戸の人間を見下げていたためと筆者は思うが、今では京都より大阪人が東京に強い対抗心を抱いている。筆者はさほどでもないが、それは東京が地方者が大勢集まっている場所であることを知っているからで、東京にないものが大阪や京都にはたくさんあると思っている。最近は外国人観光客も大阪を贔屓にする傾向が強まって来て、東京ばかりが日本ではないことが証明されているようで嬉しい。昨日書いたが、浅草を訪れる観光客が浅草を大好きになったとすれば、大阪や京都に来ればもっと興奮するのではないかと思う。浅草は東京では江戸の下町風情を残す特別な地域のように思うが、浅草の商店街などは大阪や京都にいくらでも似たもの、あるいはもっと大きな規模のものがあって、浅草のどこが見所なのかと思う。それは家内も同じのようで、寺の境内と言っても大阪や京都にはもっと立派なものがあるし、浅草の最も印象的なのはあの大きな赤い提灯とその北に続く仲見世の商店街程度で、それを見るのは1時間も必要はない。それで外国人観光客はさっさと次のコースへと移動するが、東京は広いのでこれが大変だ。地下鉄などの線路が縦横無尽に走っているが、それは言い換えれば都市がややこしいことで、また鉄道を利用しなければ移動出来ないという一種の強迫観念を植えつけ、楽しい街とは言い難い。それで筆者は今回はなるべくたくさん歩くようにした。次の目的地に行くたびに地下にもぐったり、高架に上ったりするのは大変で、東京は移動が便利なように交通網が出来ているとはいえ、地図を見れば歩いてもそう時間は変わらないと思わせられることが多い。おそらく自転車によく乗る人は地下鉄や山手線を使わずにそれで走るだろうが、東京は大阪や京都と違って急な坂がとても多いと感じる。つまり、自転車にはあまり優しい街ではないと想像する。
昨日の最後の写真は市川団十郎の銅像で、これは浅草寺の境内からすぐのところにある。団十郎の顔は、筆者は小学生の時に見覚えた。文化人切手のひとりに肖像が取り上げられたからだ。その顔とこの銅像の顔が同じで、しかも首から下がえらく躍動感があって、迫力がある。そのような名役者を輩出したのが浅草ということなのだろうが、筆者は歌舞伎の実演を見たことがなく、この銅像の意味するところがよくわからない。また今では浅草で歌舞伎は行われず、もっと立派な劇場が使われる。庶民の手が届かない高価な芸術のようになって、浅草はその分、見捨てられたようなところがある。この銅像を撮影したのは花やしきや浅草寺北の地域を散策した後のことで、撮影順で言えば後の回に回す載せるべきものだ。それで、今日は花やしきの写真を載せるが、雨のせいか、ほとんど入場者はいなかったと思う。もともとさびれた雰囲気の遊園地と思うが、大阪で言えば天王寺界隈に似ていて、レトロ感が今の若者には新鮮だろう。筆者らは中に入らずにその前を素通りしただけだが、ディズニーランドとはまるで違う、昔の歓楽街の空気が漂っていて、外国人も面白がるだろう。今日の4枚目の写真は蔦が繁茂する様子に注目したが、だいたい蔦がこのようにびっしりと生える建物は、見捨てられた廃墟同然の場合が多い。そんな建物のすぐ近くに花やしきがある。そのレトロ感溢れる遊園地を抱えることは、浅草が昔から人がよく集まる地域であったことを意味するが、いつまでこの遊園地があるのかとなれば、もうほとんど閉園間近なような雰囲気を漂わせている。では代わりに何を建てればいいかとなると、天王寺がひとつの手本になるかもしれない。そして、天王寺ではフェスティヴァル・ゲートという遊園地が出来たが、人気は持続しないままに閉園になった。通天閣のある辺りは多少危ない雰囲気が漂っていて、大阪人でもあまり近寄らないが、観光客はそうではない。それと同じことが花やしき辺りにもあるような気がする。では花やしきの代わりに何が建てばいいかとなると、大阪の例で言えば、巨大なスーパー銭湯ということになるが、それでまた大勢の人を呼び込めるだろうか。時代の変化に取り残された施設が、そのままレトロ感を増し、それなりに客が途絶えないというのが理想だが、老朽化しや設備を改める費用をどう捻出するかという問題もある。遊園地は特にそれが重要で、下手すれば遊具で死者を出しかねない。そして死者が出れば一気に廃園の声が上がるだろう。花やしきがその点どのような希望的観測を抱いているかだ。
花やしき界隈から出て筆者は浅草神社に行き、それからさらに北へと雨の中を歩いて浅草警察署付近の小さな神社まで足を伸ばしたが、初めて歩くその地帯はとても興味深かった。夜になると活発化する飲食街で、また芝居小屋があるなど、江戸情緒とはこういうものかとわかった。その雰囲気は大阪や京都にもあるにはあるが、何かが決定的に違っているように感じた。夜に歩くと物騒かもしれないが、一度夜の灯がともる頃に歩いてみたい。すぐ近くに浅草警察があることは、昔からその一帯は悶着が少なくなかったと想像するが、浅草寺や花やしきだけではわからない情緒が漂っている。街路樹の根元には必ず草花がたくさん植えられていて、それがわざとらしいと言えばそうなのだが、いかにも花街という感じで、また少しでも健全な雰囲気を演出したいという地元住民の思いがあるのだろう。帰宅後にわかったが、浅草警察の1,2キロ北が山谷地域だ。昔から筆者はこの山谷がどこにあるのか気になっていたが、浅草の北方であることを知ってなるほどと思った。次回はそこまで歩きたいが、大阪で言えば新世界や新今宮界隈で、筆者は別段そういう場所を怖いとも思わない。また今はおそらく大阪と同じで、山谷は外国人の若者が安価に宿泊する施設が増えているのではないか。山谷が浅草の北方、つまり東北に近いところにあるのは、東北からの出稼ぎがいつの間にか居ついた場所であるからではないか。上野駅は東北の玄関と長らく言われて来たが、上野に近い浅草が繁華な地域になったのは合点が行く。筆者は下町風情が好きで、東京に住むならそういう場所かと思うが、山谷に似た地域があるのかどうかは知らない。それはともかく、意識して東京の初めて訪れる場所を次々に訪れると、こうして思い出して書きながら、街路の様子がよく目に浮かぶ。ホテルで寝るのではなく、木造の民家に寝起きするようになれば、東京に対するイメージがもっと強固なものになるはずだが、いつも東京に行けばほとんど瞬間移動の連続でまた京都に戻る。思い出をこうして文字にしない家内はもっと記憶の薄れるのが早いかもしれない。あるいは文字に出来ない空気感をしっかり味わっただけで充分旅の目的は果たされたのだろう。