理屈に合っていると思わせられるのが植物の生態で、植物は人間とさして変わらないと思わせられる。
1か月ほど前に隣家の裏庭でふきのとうを見つけた。
その10日後ほど後か、家内がまた20数個ほど摘み取って来た。あまりたくさん採ってしまうとかわいそうなので、家内が採ってきた量を見て気になったが、ま、雑草のように逞しいふきのとうのはずで、全滅することはないだろう。採って来たものはすぐにあく抜きをして2,3日以内に食べるのがいいと思うが、家内はその20個近いふきのとうを食卓に出さなかった。訊くとてんぷらにすればおいしいと、どこかで仕入れた話をする。だが、いっこうにその気配がないので、どうしたのかとまた訊くと、冷蔵庫に保存してあると言う。ふきのとうの苦味はいわば毒で、肝臓の悪い家内にはよくない食べ物だ。それを2週間も冷蔵庫に保存しているのは毒がもっと増えるような気がして、筆者はすぐにあく抜きをするように言った。それで家内は早速あく抜きを始めたが、最初に筆者が採って来たものはあく抜きなどしなかったと言った。土を洗っただけで、そのまま食材として使ったのだが、それもあって苦味が強かったのかもしれない。大人の味で、おいしいものとは言えないので、あまり家内に食べさせたくないが、家内はそれを知っているのか、もっぱら筆者に食べさせる。家内が摘んだふきのとうは、筆者が摘んだものに比べて少し大型で、ブロッコリーの軸のような部分も混じっていたが、それは成長し過ぎたものを採ったからだろう。ふきのとうは摘む時期が微妙に難しい。あまり小さいと摘む際にどこをつかんでどう力を入ればいいのかの加減がわからない。それで根元からではなく、本体の上半分をちぎり取ってしまうことがよくある。また、成長し過ぎると、ぽつんとしたかわらしさが減少し、何となく食べられないような感じがする。家内が採ったのはそういうものだろう。そう言えば今年初めて家内は隣家のふきのとうを採った。自分が喜んで食べないものであるから関心がないのだ。関心のなさは無知につながり、それは危険を招く場合が多い。野草を食べて中毒死する人が毎年いるが、彼らは関心がありながら、知識の少なさによって毒の怖さを想像しなかった。話を戻して、家内が摘み取ったふきのとうは、筆者なら半分以上はそのままにしたものだろう。つまり、ふきのとうとは呼べないほどに中心部が大きく育っていたと思う。そういうものでもてんぷらにすれば食べられると聞いたことがあるが、わずか20個ほどでわざわざてんぷら油を持ち出すのは面倒ではないか。また、油で揚げると苦味が消えるかと言えば、そうではないような気がする。苦味はそのままあるが、油の味によってそれがましに感じるのが実際のところだろう。それはともかく、ふきのとうは収穫時期がごく短く、またわが家ではきわめて少ししか採れないが、筆者は去年は幼葉を50枚から100枚は採ったはずで、それで家内に佃煮を作らせた。それがふきのとうの苦味そのままを持ちながら、より食べやすいことに感心したが、それもあって筆者は今年はふきのとうは10個ほどしか摘まなかったが、家内がその後20個ほども採ったので、幼葉は去年よりかなり少ないのではないかと思っている。それで隣家の裏庭に行くと、確かにそんな感じもするが、それでもほとんど庭全面に葉は点在し、また家内の手を逃れたふきのとうがとうとう塔を作っていた。これは花で、当然もう食べられない。地面から顔を覗かせたふきのとうが赤ん坊なら、成人といったところで、その迫力に押されて、雑草と同じようにたちまち刈ってしまうことはとても出来ない。この塔となった花とは別に、葉はこれからどんどん大きくなり、真夏には直径50センチほどにもなるが、もうそれは幼葉とは違って黒ずんだ濃い緑色で、食べれば死ぬほどの毒があるように感じられる。それでまたその葉を放置したままとなるが、庭全面を覆っているので、たまには踏みつけなければならないときがあり、葉はあちこち破れ、穴が空き、ますますお化けじみて来る。そして晩秋になればすっかり消えてなくなるが、もうその頃には地面の中のあちこちにふきのとうが生え出る準備をしている。人間をふきのとうにたとえれば、筆者は穴のたくさんあるお化けじみた葉と同じようなものだ。それはとても食べられないものである点で、全くそのとおりと言ってよい。筆者にもふきのとうやその塔のような時期があったが、何事も成長と衰退は避けられない。春があれば秋があり、ふきのとうがあれば、それは塔にもなる。全く自然なことで、その自然の味である苦味を、わが家に育つふきのとうで毎年味わうことは、楽しくまた贅沢ではないか。