クリスマス時期のイルミネーションが日本でもすっかり定着した。去年だったが、TVではどこかの町の家並が、家計をかなり削ってまでも家の外観を蔦のように絡ませた電飾で覆っている光景を映し出していた。
電気代が馬鹿にならないのに、隣近所が派手に飾り立てると、それに負けじとばかりについ力が入る。そうして何年かすると、静かな住宅地全体が夜でもパチンコ屋の集合地かラスヴェガスのような具合になってしまった。12月だけのようだから罪も軽い気がするが、夜は暗い方が落ち着くという人にすればはた迷惑な話だ。何も誇るものがないのでせいぜい自宅の外側を派手に見せようという気持ちがわからないでもない。だが、『どう、きれいでしょ、見て見て!』と騒いでいる光景と見えなくもなく、どこかしら気分を害される思いがある。自分の家だからどう飾ろうが勝手というようなものだが、他人には見せずに自分たちだけで楽しんでもらいたいと思う人もきっとあるだろう。真っ暗で落ち着いた夜の方がしみじみと懐かしく、月もきれいに見えるが、電飾家庭にそう伝えれば、『お前は他人が喜んでいるのが気に食わないんだろう。みんなきれいと言ってくれているのに、なぜお前だけひねくれた根性で物事を見るのか。この馬鹿野郎めが!』ときっと猛攻撃を受けることだろう。そしてその大きな声が正しいと報道もされ、かくして昔の風流を愛する人は変人扱いの社会的制裁を受ける。これが今の日本のあらゆる側面に現われている光景と言ってもよい。ここで、電飾家庭の立場に立って考えてみる。確かに冬の夜に小さな電気がたくさん光っているのは、何だか暖かい思いにさせるものがあるし、そこには「愛」といった月並みなイメージも連想されやすい。大きな音を立てるのでもないから、近所迷惑も高がしれている。それに灯りがあると防犯の面からも多少は意義がないとも限らない。電気代が馬鹿にならないにしても、それは各家庭の負担であるので、他人がとやかく言うこともない。ま、あまり罪もない無邪気な大人の遊びと思えば腹立たしいことでもないというべきか。それに実は筆者は20年前に同じことをすでにしていた。わが家には小さな裏庭があって、どうでもいいような木が何本か植わっている。その中に20年前には高さ1メートル50センチほどのサザンカの木があった。ほかの木からやや独立して立っていたので、よく目立った。裏庭のすぐ向こうは小川、そして畑で、つまり無人地帯と考えてよく、庭を覗き込む人はない。そんなこともあって、クリスマス・ツリーに巻く、赤い豆電球がたくさん実のようについた蔦状のコードをその木に巻きつけ、夜になってスイッチを入れて楽しんだ。サザンカの木はほとんど枯れかかっていて、葉が少なくなっていたことも理由だ。そうして電気コードを巻きつけるのに葉が邪魔になることはあまりなかった。夜になってスイッチを入れ、まだ小さかった息子に見せると大いに喜んだものだ。表玄関の植え込みに取りつけようかとも思ったが、近所の人に見せびらかすのはさすがに気が引けた。それを見るために、知らない人まで敷地に入って来て眺めるのは防犯上からも望ましくはないからだ。サザンカへの電気飾りは1年限りでやめたが、通常は室内に置くクリスマス・ツリーに巻きつけるものを自然の木に巻くという行為に自分も多少はしゃいだものだ。そして今ではその何百、何千倍もの規模で一家庭が家全体を光で覆う時代だ。筆者から見れば、恥も外聞もなくて、みんなで堂々と無茶な行為をしているように見える。もっと恥じらいがあればああはならないのではないだろうか。
前置きが長くなった。「京都嵐山花灯路」と印刷したふたつ折りのカラー刷りのパンフレットを見かけたのは2、3週間前のことだ。それが手元にある。12月9日から18日まで、午後5時から8時半までの点灯で、冬の嵐山に観光客を誘致しようという企画だ。主催は京都府、京都市、京都商工会議所、京都仏教会、(財)平安京都1200年記念協会、(社)京都市観光協会となっている。観光誘致のために夜をライトアップするのは、京都市内では確か清水寺やその界隈から何年か前から始まったと思う。夏の高台寺や清水寺のライトアップはもうかなり定着しているし、筆者も何年か前に見に行った。だが、ほとんど感激はなかった。夜の庭をさまざまな色のライトで照らしても、あまり美しくはなく、ぐじゃぐじゃとした光の色が混ざって見えるだけで、正直なところそれがどうしたという感じだ。これなら昼間に庭を自然光の中で鑑賞する方が何百倍も自然なことで、しかも美しい。京都や寺が少しでもたくさんの観光客に来てもらい、拝観料を落として行ってほしいと願うのはよくわかるが、それがこうしたライトアップという平凡で、しかも全く美しくもない行為に頼ろうというのであれば、それはかなり人を馬鹿にしていると思える。あるいは、『夜でも開いていますので、足元がよく見えるようにライトアップいたしました』という、涙ぐましい努力の表われの拡大版なのかもしれないが、ライトアップすなわちショー・アップのイメージは拭えず、寺の存在も結局は単なるディズニーランド的見世物に過ぎないと受け取られかねず、静かな京都をと期待してやって来る人にはおそらく歓迎されない。寺境内のライトアップは、「夜=暗い=さびしい=悪い」というイメージをますます強化し、脅迫観念めいたような思いを人々に連鎖的に植えつけて行くようにも思えるが、ライトアップはずっと行なわれているのではなく、一定期間のみであるので、そう目くじら立てることもないとも言える。たまにはお祭り気分で変わったことをするのも活性化にはよいという判断だ。
そんなことで、ついに嵐山界隈もこのライトアップ運動がやって来た。それが今年が初めてという『嵐山花灯路』で、わが家から見える嵐山が夜になるとぼーっと銀色に輝いているのを先日から見て、一度あの近くまで行ってみる必要があると思っていた。それで16日の金曜日に出かけたが、8時半までとは知らず、渡月橋近くに来た時にはもうその時間になっていて、公園内のあちこちに設置された学生が作った行灯はみな電気が消されていたし、観光客も数えるほどしかいなかった。それは終了時間が来たのが原因ではなく、その日あたりから急激に京都は寒くなり、ましてや桂川沿いはじっとしていられないほどの猛烈な冷たさで、人々は夜の電気飾りを楽しむどころか、風邪を引いては損とばかり、早々に引き上げたというのが原因だろう。『嵐山花灯路』のパンフレットを見ると、いつ撮影したのか、光が浮かび上がる渡月橋やその付近の光景が写っていて、プロの撮影で当然だが、ソフトな印象があって、アベックなどはぜひとも訪れたいと思うに違いない。裏面には地図があって、渡月橋からずっと北の二尊院まで、縦横の道の両側に行灯などが置かれ、ライトアップの演出をしているのがわかるが、20年ぶりに12月に大雪が降るとかいう厳寒の中、この地図を頼りにあちこちうろつく人がどれほどあるのか疑問だ。金曜日は中途半端に終わったので、今度は時間にゆとりを持って翌日にまた出かけ直した。相変わらず猛烈な寒さであったので、観光客はほとんどいない。渡月橋を正面に臨む嵐山公園内の一角に特設ステージが設けられ、そこではキモノ姿の人々によって琴や尺八の上演があったが、10数人程度で見るも悲しいほどの光景であった。演奏している人はあの寒さの中であのうす着、指がうまく動いていたのが信じられない。予定されていた催しなので中止するわけに行かず、きっと大勢の客の目の前の演奏を期待していたのに、おそらくリハーサルの時より少ない人の出で、音楽はちゃんと拍子は揃っていたが、拍子抜けしたに違いない。中の島公園の橋では近くの嵯峨美術大学の学生がプロジェクターで何やら音楽とともに抽象模様を水の流れをスクリーンに見立てて映していた。カメラで撮影したが、うまく写っているかどうかわからない。こうした若者の応援もあってこの企画がどうにか形を保っていることがわかり、もし近くに嵯峨美がなければどうなっていたかとも思う。渡月橋にはいつの間に出来たのか知らないが、歩道と車道を仕切る石造りのライト柱が等間隔に何本も立っていた。設置にはかなりお金がかかったはずだが、よけいなものに思えた。こんなものがずっとあると、春と秋の観光シーズンにはきっと人がぶつかってけがをする。何でもお金をかければいいというものではない。この石の柱とよく似たものが、阪神大震災以降、西宮市大谷記念美術館前の道路にずっと設置されていた。ところがそれは先日行った時には全部なくなっていた。評判が悪かったに違いない。歩道と車道を仕切るにしても、あのような何の効果もないものはかえって目障りかつ邪魔であり、ぶつかる人が続出したに違いない。渡月橋のこのライトつき石柱もさていつまで持つか見物だ。
先日の新聞で『花灯路』の様子が小さく記事になっていた。嵐山全体がプロジェクターによって抽象模様が映し出されている様子の写真があって、これは見ておきたいと思い、二尊院まで行くことは最初から考えず、渡月橋をわたって上流に少し行くだけでよいと決めていた。そしてそのとおりに実行したが、思いに反して、嵐山はただぼんやりと光で照らされているだけで、プロジェクターによる映像投射の催しはなかった。ひょっとすれば評判が悪くてやめたのかもしれない。あるいは会期中でも限定の企画であったかだ。嵐山界隈は、渡月橋北端が最も人が多くいるはずだが、その夜は本当に数えるほどしか歩いていなかった。これではパンフレットを作ってばら撒いた効果はほとんどなかった。つまり完全に失敗した企画であった。それは寒さのせいが大きいだろう。予想に反してこれだけ12月が寒くては、夜の中を幽玄の明かりを味わいながら竹林を歩くなどという風流どころではない。店も早々に閉めていたし、そうなれば暖かいところでちょっと休むことすら出来ない。早く閉店したのは観光客があまりに少ないからであろうが、何とも不細工な話で、結局は嵐山をライトアップして冬でも観光客に来てもらおうとしたのが大きな間違いであったと思う。土曜日は満月で、空を見上げると、月の下に横一文字の形をした雲が一片のみ浮かんでいた。その様子は見事な抽象的造形で、その月の光だけで充分嵐山界隈は明るかった。そして一切の人間の作った明かりがない中でその月を楽しみたいと思った。その方がどれほど嵐山には似合っていることだろう。何でも光が多い方が文明的で、人が喜ぶと思うと大きな間違いだ。冬の満月の頃だけはむしろネオンを消すなどして暗闇に近づける方がよい。嵐山住民としてそう思う。そしてそれを売り物にすべきだ。『花灯路』のパンフレットの表紙中央にこんな文字がキャッチコピーとして印刷されている。「嵯峨・嵐山・諸行無常の響きあり」。まさに閑古鳥鳴く『花灯路』の催しにはふさわしい言葉と言うべきか。無駄な宣伝広告や設備に投資するなら、そのお金を全部12月の寒さに震えるホームレスに寄付してほしい。