仕事のこととなれば熱くなるのはあたりまえであろう。プロ根性が座っている人ほどそうで、先日書いた十六代も続く樂家では余人には想像を絶する仕事へのプライドがあるに違いない。
たいていの作家は一代限りで、またそうであるのでよいとも言える。才能は遺伝するかしないかで言えば、究極のところでは遺伝しないと思っていた方がよい。もちろん、世紀を代表する天才級の話だ。樂家にしても、大半の代は家を継ぐことだけに終わった作家活動であったと言ってよい。それではいかんとばかりに十五代がこれまでの代以上に奮起して、全く新しい茶碗を創造した。ただし、その作品を芸術と見るか、また大勢の人に好まれるかどうかは、これからの長い歴史を経る必要がある。さて、1か月ほど前に、深夜のTVで、曜変天目茶碗の再現に没頭し続けている瀬戸の陶芸家のドキュメンタリーを見た。九代目で、八代目の父親がそれまでの専門の焼物を投げ出して再現に取りかかったことを否定的に見ていたのに、その父の夢がわかるようになったのだ。父は再現出来なかったので、無念のうちに世を去ったことになるが、息子としてはそれを晴らしたいという思いで、愛情溢れる父子の美談だ。また、ひとりの陶芸家が生涯を費やしても再現不可能なほど、世界に3個伝わる曜変天目の茶碗は奇跡的な作で、20年ほど前か、またその八代目であったか、別人であったか忘れたが、曜変天目再現に挑んでいる作家がいた。それほどに作家をくるおしくさせる美しさがその茶碗にあって、美術に関心のある人なら、3つとも実物を美術館で見たことがある。筆者ももちろん見たことがあるが、思ったより小さく、またガラス越しでもあり、水に油の粒を散らしたような、あるいは真夜中の輝石のような釉薬の眺めは、先日のTV番組で見たほどには美しいとは感じなかった。むしろ、写真やTVで見た方が細部ははっきりと見えるし、曜変天目の特徴がよくわかる。これは、たとえば有名ミュージシャンのライヴ・ステージを思えばよい。安い席であれば、舞台上のミュージシャンは米粒程度にしか見えない。これではDVDで見た方がよほど演奏の様子がわかる。そのため、曜変天目の本当の美しさの感動を味わうには、実物を手に取るしかないが、国宝となれば普通の人は不可能だ。瀬戸のその陶芸家は、どういうつてを頼ったのか、大阪の藤田美術館が所蔵する曜変天目を調査してもらうことが出来た。これは現代の科学機器を使って、どういう化学組成であるかを調べるもので、釉薬の秘密に限りなく接近することが出来る。つまり、的を絞ることが出来る。八代目は勘に頼って思考錯誤し、そこそこいいところまで再現したが、今ひとつのところで国宝と同じような美しい斑紋が出ない。それで九代目は父と同じ方法に頼っていては、一生かかっても無理で、もっと合理的なことを考えた。科学の力に大いに頼ろうというわけだ。正直な話、筆者はその時点で、何となくルール違反のようなものを感じた。再現不可能なものをどうしてもかなえたいために、実物のいわばレントゲン写真やCTスキャンをしようということだ。何をどう使って焼いたものかわかれば、再現はうんと近づくだろう。そう簡単に行かないところが焼物ではあるが、番組の最後の方で焼かれた茶碗は、かなり曜変は美しく生じていて、父親の作ったものよりも国宝に近いだろう。
番組では再現に従事するあまり、生活が苦しくなっている事情を伝えていた。当然のことだ。そこで誰しも思うのは、再現に成功して、茶碗が高く売れ、一気にそれまでの生活苦を克服しようと、その陶芸家が目論んでいるであろうことだ。人間は食べなければならないから、それは当然だ。だが、金目当てとばかり言われてはその陶芸家は反論するだろう。それでも筆者が感じるのは、国宝以上に美しい曜変天目茶碗を作ろうとしているかどうかだ。再現ですら難しいので、それは全く無理というのであれば、挑戦する意味がない。また、ただの再現では、相変わらず中国で焼かれたそれら3個の曜変天目にかなうはずがない。つまり、ほとんど見分けのつかないものが焼けたとして、それは模作であり、国宝級の価値はない。ただし、喜んで買う人は大勢いるだろうし、またそれを見込んで再現を目指していると言ってよい。そこで、問題となるのが、再現に成功したとして、それが国宝とどう価値が違うのかという問題だ。新しく焼かれたものであるから価値がないとは言えない。陶磁器は数百年程度では劣化はなく、国宝の3個にしても今窯から出したばかりのような輝きだ。番組を見ながら筆者が思ったことは、その陶芸家が100や200の国宝と同じような曜変天目を焼いた時のことだ。そして、それから数百年経つと、それらの茶碗は国宝と見分けがつかなくなり、すべて国宝とすべきことになる。だが、実はその反対に、3個の国宝は、簡単に作り得るものとして、同じものが100円ショップで売られているかもしれない。何が言いたいかと言えば、曜変天目の再現はつまらないということだ。陶芸家であれば、もっと美しい、これからの新たな国宝を目指すべきではないか。そして、そのためには、科学分析に頼り、膨大なデータをノートに書き溜め、錬金術のように曜変天目茶碗の再現を目指すことは、本道から外れているように思える。曜変天目を焼いた中国の無名の陶工は、何を考えてそれらを創造したであろう。美しい茶碗を作りたい一心において、瀬戸の陶芸家と変わらなかったが、名前は出ず、またおそらく貧しい暮らしであったろう。そういう生活を今の陶芸家に求めることは酷というものであることくらいはよくわかっているが、それでも作品は作者のあらゆる部分がそっくり表出されるもので、絶えずそのことに意識を向けながら、恥をかかないように自戒すべきと思う。
2か月ほど前か、家にあるお宝を鑑定するTV番組に、世紀の大発見とばかりに、4個目の曜変天目茶碗が出品されることが予告された。楽しみにして録画し、そして番組を見たが、拍子抜けした。美しい茶碗では全くなかったからだ。どこが曜変天であるのか、ともかく3個の国宝とは似ても似つかないものであることは、誰の目にも明らかだ。ただし、来歴が明らかで、何百年も前の作であることは確かなようだ。そして鑑定価格は2500万円であったと思うが、それにも首をかしげた。国宝級の大発見がたったそれだけとは耳を疑う。一桁多くても当然はないか。そこで思ったのは、鑑定者は曜変天目と認めつつも、あまり美しい輝きをしていないので、その分、うんと割引したのではないかということだ。素人相手の娯楽番組であるので、そう目クジラ立てることもないと思うが、それはその番組で鑑定された金額でその作品が売れた試しが皆無に近いはずであるからだ。ネット・オークションにたまにその番組に出た作品が登場するが、落札価格は10分の1以下だ。前にも書いたことがあるが、鑑定価格は、それを鑑定した人が自分が経営する店でその程度で売るという指標で、その価格でその鑑定者が買うことは絶対にない。買うとすれば10分の1以下のはずだ。それが骨董業界というもので、そのTV番組で高値で鑑定されても喜ぶのは早い。換金出来て初めて笑顔になるべきだが、その換金が一般人には難しい。さて、そのTV番組に出た4個目の曜変天目茶碗について、先の瀬戸の九代目が意義を唱えた。中国に行けば、がらくた同然の安価でいくらでも売られているものだと言うのだ。それは言い過ぎにしても、その作家がひとまず再現している茶碗の曜変ぶりに比べれば、あまりにもおそまつな輝きで、TVではまるで牛乳の汚れがついている程度にしか見えなかった。では、番組で鑑定した人は何を見ていたのか。長年焼物を見続けて来た人だが、あまりにも種類の多い陶磁器で、多岐にわたる釉薬と形、また時代や作者など、ひとりでどんな焼物でも鑑定しようというのは全く無理な話だ。それほど人生は長くない。おそらく十回生まれ変わっても、すべての陶磁器の専門家にはなれない。同じことは絵の鑑定についても言える。いかにも専門家的な顔をして鑑定しているが、見誤ることもあると自戒を忘れると、途端にトンデモ意見を連発する。では、二代にわたって曜変天目の再現を試みている陶芸家なら、真贋ないし価値を見定めるかと言えば、筆者はその考えにくみしたいが、曜変天目の定義に関係する問題であることも思う。3個の国宝はみな似つつも雰囲気が違う。ならば、曜変の枠をどう定めるか。それは簡単なことだ。3個並みに美しいかどうかだ。その点で言えば、番組に登場した茶碗はどこが曜変かと思わせるものであった。先に書いたように、国宝はTV画面で見ても、いやその方がはるかに輝き、美しさが理解出来る。名誉とか金銭の欲を越えたところで生まれた茶碗で、土台再現など無理ではないか。そっくりなものが出来ても、訴えて来るものが違うと思う。二代にわたっての仕事となると、熱くなるのは理解出来るが、淡々と自分の仕事をすればいいだけのことではないか。見る人はしっかりと見ている。