人も変わる。建物も変わる。確かにそうだが、変わっても同じ人、同じ場所ということがわかるもので、それは部分が変わるだけであるからだ。部分が絶えず変わりながら、人も町並みも変わって行く。
それは基本は変わらないことでもあって、ある人が死に、ある町がすっかり建物が違うものになったとしても、大きな目で見れば以前と何も変わっていないようにも思える。それを遺伝や伝統のせいと言ってもいいが、そのように考えると、人間はいつまでも生きていたいなどと思う必要のないことがわかる。先日ネット・オークションで落札してくれた人が、家に送ってもらうのではなしに、会って手わたししてほしいと言われた。数百円の安価なもので、面倒くさいと思ったが、どんな人物か見るのもいいかと思い、梅津のトモイチの前で待ち合わせをした。その男性は三菱に勤務していて、通勤は市バスと阪急で、西の梅津に向かうのは反対方向になるが、その夜は松尾駅から帰ると言った。時間どおりにその人はやって来て、すぐに用事は終わったので、ふたりで松尾橋に向けて歩き始め、その間にいろいろと話をした。その中で、その人の母親がきわめて高齢で、東京オリンピックを目標にまずは元気なままでいてほしいと本人にも言ってあるとの話であった。そこで思い出したのは、家内の母だ。もうかなり昔に亡くなったが、亡くなる何年か前、長生きして世の中がどのように変化するのかを見たいと言ったことを筆者はよく覚えている。癌のために70代半ばで亡くなってしまったが、長生きしてもっと世の中の変化を見届けたかったであろう。それは誰しもだ。だが、長生きして楽しいという保証はない。そこには、新しいことに興味が持てず、もう充分に世界を見て感じたとの思いがあるのではないか。そんなことをユルスナールの小説に書いてあったことをまたここに繰り返さないが、筆者のような60代半ばになると、何となくそういうことをよく考えるようになる。50代で死んだ筆者の友人がもう3人もいるので、なおさら60代以降はもうおまけの人生で、どんなことがあってもそれを受け入れる気持ちの用意をしておかねばならないような気もしている。人間は欲深いもので、またその欲が生きる活力につながっているので、欲を否定するのではないが、おいしいものをたくさん食べたいとか、観光地をたくさん訪れたいといった欲望は、筆者はますます減退していて、生きているだけでも、つまり何の変哲もない日常がそのままで楽しい。そして、一般には面倒と思われているようなことが、却って新鮮で、それなりに面白い記憶として、深く、長く残る。そのひとつに、
2年前に投稿した玄米の精米がある。
筆者はネットで米を30キロ買う。夫婦ふたりでは食べる量もしれているので、10キロでもいいが、どうせならまとめ買いが安い。そして時に玄米を買う。それは精米の必要があるが、玄米のままの方がコクゾウムシの湧き加減がましではないかと思うからでもある。そして、30キロを一度に精米すると、またコクゾウムシが湧くので、10キロ食べるごとに精米所に向かう。自転車で10数分のところにコイン精米機があって、今日はまたそこに行った。前回は6週間ほど前であったろうか。その時も、また今日も気づかなかったが、2年前の写真と見比べると、コイン精米機が変わっている。それでも精米の方法は全く同じで、100円で10キロだ。コインを入れ、米を右手の大きな口に注ぎ入れた後、精米のボタンを押す。すると精米が始まるが、足元のペダルを踏まないことには、精米済みの米は落ちて来ない。前回は標準のボタンを押したが、仕上がった米は全体に灰色がかっていて、焚いて食べると、糠分が多くてもそもそしていた。それは健康にはいいのだろうが、冷めたものを温めた時に食感がとても悪い。それはもともと米の品質が悪いからでもあえろう。というのは、全体に灰色だけならまだしも、茶色に変化した米がかなりあって、家内は2合を焚く前に、必ず米を選り分けてそれを取り除いたが、それがあまりに手間で、もっといい米を買えとうるさい。ただし、コクゾウムシが混じっていないだけましだ。選り分けた茶色の米はいずれ鳩に与えるつもりだが、人間が食べられないわけではい。ただし、今時は安い食堂でもそのような米を使わない。それは、精米機の精度が上がり、取り除くことが容易になったからでもある。筆者の記憶では、半世紀前は、茶碗いっぱいの御飯に茶色がかった箇所のある米粒は最低2,3はあった。それが普通と思っていたし、実際そうなのだろうが、何でもクリーンであることが重要とみなされる時代になり、また白米に混じるそうした米はとても目立つので、完全に除去することが求められる。それはいかにも日本的で、移民を受け入れないことに似る。均質を美徳と考える国民であるから、天才は生まれず、生まれても今ではいじめられ、自殺に追い込まれる。話を戻して、家内は次回の精米は標準ではなく、もっと仕上がりのよいボタンを押すと言った。見ると、前回は最も精米の精度が低い。それで今日はクリーン米というボタンを押した。これが最高の精度で、仕上がって来る米を見ると、前回とは全く違う色をしていた。同じ玄米であるのに不思議な気がするが、皮の剥き加減で色が違うのは当然だ。筆者らが精米所の前に着いた時、軽トラックが横づけされていて、70歳くらいの男性がたばこを吸いながら、精米コーナーの左手の糠が落とされるコーナーの前に立っていた。その人が次に精米すると思って、訊ねると、そうではないと言う。それで筆者らが精米したが、精米が終わって外に出ると、その男性は糠を取るためにコーナーに入ってしゃがみ始めた。その糠は、筆者らの前に精米した人や筆者らのもので、せめて筆者らに訊ねてから持って帰るべきだ。筆者は糠を使う用がないが、使おうと思えば使える。ともかく、精米が終わったばかりなのに、糠を持ち帰ろうとするその老人は欲深い。だが、筆者は注意しなかった。精米の精度を最高にしたため、茶色混じりの米粒は前回よりたやすく見分けられるようになった。だが、その数は同じで、品質の悪い米であることには変わりがない。昔は天皇に献上する日本最高級の米をよくいただいたこともあったし、また若い頃の方がはるかに品質のよい米を食べていたと家内が言うが、栄養はさほど変わらないはずで、ま、買うたびに変わる米というのも、新鮮でいいではないか。米に一喜一憂することはそれなりに面白い。