紙袋を家内から手わたされたのに、その記憶がほとんどない。一昨日の土曜日、家内と岡崎に出て美術館や図書館に行き、いつものように筆者は展覧会のチラシを片っ端から1部ずつ確保した。
そして、それらを家内がバッグ代わりに持って行った手提げの小さな黒い紙袋の中に入れてもらった。チラシの厚さは5ミリほどになった。それに図書館では資料をコピーし、それも一緒にした。帰りがけに買った菓子が入ったビニール袋は筆者が持ったが、高島屋から阪急の四条河原町の地下駅に下りると、改札の前は動かない人で埋まっている。改札を出て来る人は列を作り、駅員に遅延の証明書をもらっているのか、ゆっくりとひとりずつが改札を出て来る。改札の外にある液晶画面に、南茨木駅で人身事故があったばかりで、しばらく必要があることがわかった。立ったままではしんどいので、10数メートル離れたところにある喫茶店で時間を潰すことにした。そこで30分ほどいて、もう事故処理は終わっているだろうと思ったのに、改札前にはかえって人は増えていて、画面にはもう30分ほどかかると表示があった。ならば喫茶店でもっと時間を過ごしたが、もう仕方がない。駅員によれば、警察と消防が駆けつけ、いろいろと調べるのに時間が必要とのことだが、飛び込み自殺であれば、その死体の処理をする駅員は大変だ。電車を運転することに憧れて鉄道会社に勤務しても、飛び込み自殺の死体処理までやらされるのでは、夢の幾分かの部分がぶち壊しだ。先日はプラットフォームで飛び込み自殺した男性の身体の一部が近くにいた若い女性を直撃して怪我を負わせた事件があった。昔、新幹線の線路を補修していた作業員が新幹線に衝突され、その肉体が直径数十センチの丸い肉の塊となってかなり遠くへ飛ばされたということを知り合いが聞いた。吹田かその付近でのことだ。身体が大きな肉だんごになるほどに、新幹線の速度の威力が大きいということだが、その肉の塊を検分した人はどのような思いであったろう。漱石の小説にも汽車に轢かれた女性の死体を描写するものがあるが、筆者はそんなことを思い出しながら、四条河原町駅だけはなく、阪急の京都線のすべての駅に大勢の人が待ちぼうけを食わされている様子を思い浮かべ、飛び込み自殺の迷惑なことを家内に言った。おしくらまんじゅうのような改札前の混雑の中に混じっていると、あまり寒さは感じないが、いつ電車に乗れるのかと思うと面白くない。やっとのことで改札は開き、その時筆者は右手に持っていたチケットを改札口に通すために、菓子入りのビニール袋を左手に持ち換えたが、ビニール袋に黒い紐が絡んでいて、それが何かわからないままにとにかく菓子入りの袋だけはしっかりと持った。そして入場し、地下に下りて電車に乗ると、向かいに座った家内が筆者に手わたしたはずの紙袋がないことに気づいた。慌てて改札に向かった家内は、駅員に言って外に出してもらい、喫茶店や高島屋のトイレに走ったが、そうして探し回った15分ほどの間に、地下に停まっていた電車は発車してしまった。家内は改札が開く少し前に背負ったリュック内の時計を見るために、紙袋を筆者に一時預けたと言うが、先に書いたように筆者はその記憶が確かではない。ただし、改札にチケットを通す直前、ビニール袋を持ち換え、その時に黒い紐を見たことは覚えている。それがその紙袋の紐で、筆者は家内から手わたされた紙袋を、「ちょっとこれを持ってて」と言われたので、すぐに家内が筆者から奪ったと無意識のうちに思ったのだろう。家内もその辺りのことはよく覚えておらず、お互い60代になって、いよいよ認知症の疑いが出始めたようだ。不思議なのは、改札に入る際、筆者の前も後ろも客がぴったりとくっつき、もし筆者が紙袋の紐を握らずにそのまま落としたのであれば、それなりに音がし、また後ろの人はその袋を蹴飛ばすか、あるいは気づいたはずなのに、筆者は後ろから声をかけられなかった。それに、筆者のすぐ後ろの人ではなく、数人が去った後に入ろうとした人が気づいたのであれば、その人はすぐ近くの駅室に届け出ると思うが、駅員に訊ねると何も届けられていない。拾った人は金目のものが入っていると思ったかもしれないが、入っているのは展覧会のチラシと、たいていの人には意味不明の資料のコピー、そして家内の手袋や折りたたんだ買い物袋などだ。それでは拾った人はきっと駅に着いた時にゴミ箱に放り込んだであろう。あるいは梅田駅の忘れ物センターに届けられている可能性もあるが、以前にも何度か電車内やプラットフォームで落とし物をしたが、届けられていたためしがない。また、届けられていても、係員の対応はかなり不親切で、根掘り葉掘り訊ねられるのはいいとしても、あまりにも膨大な届け物があって該当物がないと言われるのが落ちであった。ならば忘れ物センターなど不要と思うが、いちおうは警察からの達しを守る必要はあるのだろう。家内は筆者から預かったチラシやコピーを紛失したことに責任を感じながら、南茨木で飛び込み自殺がなければその紛失をすることもなかったと言ったが、全くそのとおりだ。だが、死のうとする人はそこまで多くの人に迷惑をかけるとは思わない。 人間は死ねば死体を他者にどうにかしてもらわねばならず、他人に迷惑をかけないことは絶対にないと言える。死んだまま死体が出て来ない場合はそうではないが、死体がないとそれはそれでまた多くの人に迷惑をかける。人間は厄介なものだ。最近起こった事件だが、奈良の田舎の廃棄物工場で、これまで3,4人の同じ死亡事故があった。材木を細かく粉砕する大きな機械に男性が巻き込まれ、その死体が材木のチップと混じってしまった。つまり、ミンチ肉となって、大量の材木片に混入した。そのため、死体がどこに行ったのかよくわからない。TVではヘリコプターで撮影した検視官の作業の様子が映ったが、地面に広げた材木チップを棒でつついていて、肉片を探すのに苦労しているように見えた。同じ事故がその工場では3,4回も起こっているということは、危機管理が徹底していないからだが、そういう危険な仕事に従事する人にも多少の責任はあるだろう。材木が流れているコンベアに何かの弾みで自分の体が乗ってしまうと、あっと言う間に粉砕の歯に巻き込まれる。同様のことは大雪が降った後の除雪機でも起こる。先日はそういう事故があった。回転する刃に身体が巻き込まれると、雪は一瞬のうちに赤く染まる。20代の昔、関東の大手ゼネコンに入社した親友は、工事中に大型のブルドーザーに現場の監督が轢かれ、死体が塩辛状に細切れになったと言ってくれた。その監督は羽振りがよく、中小企業の社長かそれ以上の給料をもらっていて、車は赤い豪華なものであったが、乗り手が死んだ後、それが現場の片隅に停まっていて、親友はそれが誰のものになるのだろうとも言った。ミンチ肉や塩辛状に細かくなった死体でも、それらを集めて荼毘に付す必要はあるが、親友のその工事現場では誰が監督のその死体を集めたのだろう。飛び込み自殺ははた迷惑だが、自殺ではなく、死者にとって不本意な事故による死の場合、しかるべき関係者が粛々と作業をするしかない。これは何かで読んだが、飛び込み自殺の死体処理は、ぐじゃぐじゃになった肉体を集めること以上に、生の肉片が発散する臭いが耐えられないらしい。それはわかる気がする。内臓や血の臭いで、ほとんどの人は嗅いだことがないだろう。だが、日本でも戦国時代では違った。敵の首を切った後、それをきれに洗って並べ揃えるのは女たちの役割で、彼女たちが淡々とその作業に従事する記録絵が残っている。彼女たちだけではなく、敵を斬った男も人間の肉体がばらばらにされた時に発散する臭いはよく知っていた。それがいいとは言わないが、人間が臭いを発散することはもっと知っておいた方がよい。その臭いは、ピアニストの高橋悠治が昔書いていたが、人間が普段とは様子を大きく変える時に発散すると言う。誕生時や死んだ時、あるいは性交の時などで、加齢臭というのは、死に確実に向かっていることを端的に示すもので、これは仕方のないものだろう。今の若者があまりセックスをしなくなったのかどうかは知らないが、人間が発する臭気を嫌うあまり、性交も敬遠するということになって来ているのかとも思う。性交の臭気はアダルト・ビデオを見ている限りではわからないもので、人間は視覚だけを信じると、動物的には退化の一途をたどるだろう。犬を散歩に連れ出せば、彼らは必ず嗅覚を使う。それは視覚以上だろう。そして彼らは飼い主の臭いをどのように思っているかと言えば、加齢臭であってもそれを受け入れているはずで、人間も臭気をあまり気にし過ぎるのはどうか。だが、1か月ほど前、筆者は市バスの中で20代の男が発散するあまりの臭気に気分が悪くなり、降りるべきはない停留所で下車した。これまで嗅いだことのない臭気で、汗臭いのとはまた違う。家内にそのことを言うと、わきがではないかとのことだ。わきがの臭いを筆者は知らない。死んだ友人Nは軽いわきがで、またわきがの臭いを何よりも嫌っていて、最初に寝た女がひどいわきがであったことも言った。わきがでない人は臭気を発散しないかと言えばそうではない。筆者は失った紙袋を探しに改札の外に出た家内を見送りながら改札の内側に立ち続け、誰も入って来ない頃を見計らって、おならを2,3発した。その音は誰も気づいていないが、おならから10秒ほど後に改札に入って来た人は、臭気に敏感であれば気づいたかもしれない。出るものは仕方がないし、なるべく迷惑のかからぬように、人のいない頃合いを見計らったので、そう咎められることでもないであろう。電車に飛び込み自殺した人が放つ臭気よりははるかにましだ。ブプププー!