師もなし弟子もなしといったところだが、師がいなかったと言えば忘恩になる。だが、その師からは今後一切自分に教えてもらったと言わないでほしいと言われた。
友禅の師に就いた時のことだ。10年学んで一人前の世界なので、丸2年で辞めて行く筆者を許せなかったのだ。だが、当時10年我慢して独立していれば、今の筆者はなかった。もう京都の呉服業界はそんな時代ではなかった。また、独立とは体のいい話で、結局は縁切りで、明日から自分で仕事を見つけろということだ。師が受注している人に紹介はしてもらえない。当然だ。そんなことをすれば師は収入が減って死活問題だ。それで筆者は丸2年学んでもう充分だと思った。後は自分で独学するのみで、実際そのとおりにやって絶対に無理だと言われた全工程を10年かからずに習得した。そう言えば、その師に就いて数か月した時、師の奥さんが筆者の勉強ぶりを見て「大山さんはいつか有名になる」と笑顔で言った。珍しいほどの努力型に見えたのだろう。筆者は必死であった。早く一人前になって家内と所帯を持ちたかったからだ。結局その師の元を去って家内と暮らし始めたのは数年後のことで、息子をもうけるのはさらに数年後であったが、最近TVを見ていると、脱サラして全く違う生活を始める人がとても多い。筆者はその先駆と言ってよいが、友禅の師に就く前に会社を辞めていて、その会社の上司は長年筆者を心配してくれた。付き合いがずっとあって、会社を辞めて10数年は毎年一度は会っていた。よくその上司の家にもお邪魔したが、よほど筆者が珍しい存在で、しかも頼りなく見えたのかもしれない。いつの間にか年賀状も途絶えたが、80代で10年ほど前に亡くなったと思う。その上司は当然知的な人で、またとても温厚であったので、筆者も話をしていて楽しかった。友禅の師は筆者より12歳年上だったと思うが、確か中卒で父に友禅を学んだこともあって、筆者には物足りなかった。だが、友禅のいろはを教えてくれたのはその人で、師には変わりない。筆者が辞めた後、別の弟子が2,3人入れ替わったと聞くが、もうとっくに友禅の仕事はなくなってリタイアしているはずだ。その友禅の師のもとを去って新たな染色工房に勤務した。そこでは同志社大を出て土木設計の仕事を長年やっていたが、それを辞めて染色工房の主宰者に収まった変わり種で、なかなか豪快な人柄であった。詳しくは書かないが、その人のお蔭というほどでもないかもしれないが、その先生は文人趣味が強く、その影響を筆者はどこかで受けたと思う。だが、その先生が工房にいたのは半年ほどだ。そして筆者が主宰者になった。親会社の呉服問屋からの命令だが、30歳になるかならないの筆者には大それた役割であったかもしれない。だが、その工房は部屋がたくさんあり、どのような大作でも染めることが出来た。筆者の友禅作家としての開花と飛躍はその工房が使えたことにある。
こんなことを思い出して書いていると、話が長くなるが、その工房もやがてキモノの売れ行きが鈍化して来てそろそろ閉鎖しようかという雰囲気になって来た。そういう空気は敏感に感じる筆者で、会社を畳むと言われる前に筆者は辞めた。筆者が辞めると会社は解散するしかない。そして工房の建物は売却され、数軒の建売住宅がその後に建った。その工房を辞める半年ほど前か、筆者は嵐山に転居した。工房ほど広くはないが、どうにかキモノが染められる面積の部屋があった。それで買ったのだが、そこからは定収入のない時代が始まり、今に至っている。そして、嵐山に転居してから、昨日書いたKさんがやって来て、親しくなった。また、筆者はキモノ以外に屏風を染めて公募展に出品し、そこで筆者より10歳ほど年長の芸大出の先生と知り合った。友禅の師とは話せないような芸術論を夜を徹して話すといった機会を得た。そのK先生はまだ健在だが、寡黙な奥さんは10数年前に亡くなった。K先生は個展を年に一度はするので、その会場で多少は話すが、他の客がいるうえ、会場は狭いので、かつてのような先生宅での会話にはなかなかなりにくい。去年の個展ではまた家に遊びに来いと言われたが、筆者の方の区切りが今は悪いこともあって、気になりながらも行かないようにしている。だが、昨日書いたように、会いたい人とは何度でも会ってくべきだ。筆者も年齢のせいか、あるいは今頃の陽射しのせいか、ふっと昔のことを思い出すが、その中でも最近顕著なイメージは、わが家の扉を開けると、外が全く違う景色になっていることだ。それはロンドンの住宅街であったり、生まれ育った大阪の街中であったり、あるいは旅先で印象に残っている地域や通りであったりする。ドラえもんの「どこでもドア」はそんな思いから生まれたものではないか。人間の頭は便利に出来ていて、想像するだけでそれが現実であるように錯覚することが出来る。それは虚しいことかもしれないが、そう思わずにとてもいいことと考えることも出来る。以前筆者は地球上のどの場所でも価値は変わらないと何度か書いた。どこでも住めば都ということで、これまでの人生でいろんなところに行って印象に残ったことが豊富にある。それが年齢を重ねたという証拠だが、多くの土地に旅した人がより豊富なイメージを蓄積しているかと言えば、全くそんなことはない。小さな村から一歩も出なかったような人と、世界中を歩いた人とでは、脳裡に蘇るイメージの質は同じで、どっちがいいということもない。景色で言えば気持ちよい陽射しだが、もっと大事なのはどういう人に出会ったかだ。それも何十人も必要ない。筆者は割合年上から親しく接してもらえることが多いが、筆者が年下に同じように接することはきわめて少ない。そのため、筆者より年配者が亡くなって行くと、筆者は親しく話す人が減少する一方だ。筆者に親しく接してくれる年配者はそういうことがわかっているのかもしれない。筆者は年下から慕われるというより、いつも侮られてひどいことを言われることばかりで、それで筆者も自然と遠ざかるのだが、これは筆者に問題があるのだろうか。相手が年下であるのでみくびるということは筆者にはないが、その人の才能の限界を見定めることはあるかもしれない。それはともかく、今日の写真は去年1月25日に撮った。陽射しがとてもよい。2月が間近な天気のいい日は大好きだ。大金を使って海外旅行する必要はなく、すぐ近所の工事中の建物にかかる陽射しと青い空だけでも、思い返すと貴重な人生に思える。実際そのとおりだ。