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●『修羅と菩薩のあいだで-もうひとりの人間像-』
聖なる絵に興味があるので、この展覧会のタイトルを見た時、とても嬉しかった。少し以前だが、ネットで調べて、ある図録を古本屋から取り寄せた。『-変容する神仏たち-近世宗教美術の世界』という、1995年に東京の渋谷区立松濤美術館で開催されたものだ。



●『修羅と菩薩のあいだで-もうひとりの人間像-』_d0053294_1504799.jpg第1部が「仏画の近世的変容」、第2部は「庶民信仰の造形」となっていて、扱う作品の範囲は広く、また9割以上は予想も出来る内容だが、初めて知る画家のびっくりさせられた絵もあるので、とても面白い図録だ。この美術館はほかではやらない企画をよくするが、そのため図録も高値で取り引きされているものが少なくない。今日取り上げる展覧会は京都市美術館で先日の10日に見たが、『-変容する神仏たち…』の第1部の続き、あるいはそのヴァリエーションと位置づけてよい内容で、意外な発見と言える作品はあまりなかったが、それでも館蔵品を主にしつつこれだけ面白い企画が立てられるとは感心した。入ってすぐの部屋には、展覧会の名称の背景を説明するためにこんな説明があった。30年前に河内通明寺境内から「修羅」が出土したが、室町時代の辞書「節用集」にも「修羅引大石材木也」とあり、悪神の修羅が帝釈天に挑み争ったことに因んで、その名と同音の「大石(たいしゃく)」を引く道具を修羅と呼ぶようになった。また、天平時代に行基が優婆塞、優婆夷たちと地を掘り、道橋をつくった時にも修羅の類を用いたのか、後に行基は菩薩と呼ばれて庶民に慕われた…。何だかわかったようでわからない説明だが、この展覧会が取り上げる作品は奈良や室町の古い時代のものではない。チラシ裏面の説明を引用すると、『宗教としての礼拝対象とは異なる「神仏世界」や、人形(ひとがた)とは異なる「異形の世界」をとおして、近代・現代が描き求めていた人間像や、もがき逃れたいと願った世界を考えてみる』ものだ。また、日本画だけではなく、洋画も含まれているのも、時代の流れとしては当然だ。
 チラシに大きく印刷されている「聖観音立像」は最初村上華岳のものかと思ったが、よく見ると石川晴彦とある。石川(1901-1980)はこの絵を1970年頃に描いたから、まだそんなに年月は経っていないし、それに予想したとおり、彼は入江波光に弟子入りした後は華岳に入門したことから、「聖観音立像」が華岳風であるのは当然だ。だが、華岳とはまた少し違う厳しさもあって、もっとほかの作品を見たい気にさせる。最初の小部屋にはまず近藤弘明の「寂韻苑」がかかっていた。130×70センチの横長の作品で、氏独特の夢の中に登場するような夕焼けか早朝の花園を描いている。近くで見るとかなり荒いタッチだが、そんなことよりも、全体として訴えるムードにこそこの画家の絵の醍醐味がある。説明書きで知ったが、氏は1924年に天台宗の寺に生まれ、父が絵を描いていたという。そういう経歴があってこその作風であることを納得した。この導入部の氏の絵を過ぎると全体を4つに分けての展示があった。まず1「一期の夢の此岸にて」と題し、先の「寂韻苑」を見て左に向き、次の部屋に入ってすぐに、前方を塞ぐ形で北脇昇の代表作「眠られぬ夜のために」(1937年)があった。この展示方法は訪れる人にショックを与えるのにはとても効果があったと思う。この絵を筆者が写真で知ったのは10代後半で、その後何度もさまざまな展覧会に出品されているのに、どういうわけか実物を見る機会がなかった。初めて間近でじっくりと鑑賞出来たが、戦前に描かれたことはにわかに信じがたく、1970年代の絵と言えば納得出来るほどだ。描写技術も非常に高く、一部にエア・ブラシを使用しているのか、予想をはるかに越えてよい仕上がりであった。また、夢の中の一場面のようでありながら、思った以上に暗くない絵で、あっけらかんと乾いた空気を感じた。つまり、図版で知っていたのとは大違いで、どこか嘘っぽい画家と軽く思っていた北脇を断然見直した。明治34(1901)年生まれの彼は1919から21年にかけて鹿子木孟郎の洋画塾に学び、1930から32年にかけては津田青楓に就き、37年からシュルレアリスム風の作品を描き始めた。この絵を越えると向こうには広々とした展示空間が続く。印象に残ったものをかいつまむと、まず木口木版の「日清戦争スケッチ」(1894年頃)。写実的で、線もエッチングに見えるほど細く、抜群の技術を示している。合田清(1862-1938)の作品で、彼は1880年に渡仏し、当初農業研究家であったが、山本芳翠の勧めによってフランスの木版画家に師事し、その後西洋木版の普及と雑誌、新聞の挿絵製版を行なった。今回の展覧会のテーマとどういう関係があるのかよくわからないが、小口木版でこういう先駆的な才能があったことを知るにはよい機会だった。小牧源太郎(1906-1989)の「民族病理学(祈り)」(1937年)は、戦争を風刺した感じも伝わり、北脇の前述の作品同様、一時代を画するような名作だ。
 同じ部屋の右手奥には、甲斐庄楠音(1894-1978)の、絹地を使用した4曲1双屏風に描かれた「畜生塚」があった。1915年頃の作品で、初めて見るものだ。一部の女性の顔が全く描かれず、また全体に着色もされていない線描本位であるため、明らかに下絵ないし習作だが、その異様な迫力は今回の展示作品の中では群を抜いていた。これはきちっと描いて完成させなかったところがかえってよいと思える。題材は今でも京都の三条木屋町下がるの瑞泉寺に葬られている人々を扱ったものだ。これは誰しもよく知る話だが、簡単に書いておく。秀吉の養子秀次は謀叛の疑いをかけられ、文禄4(1595)年に高野山で自刃させられ、その後3歳の子どもを含む妻子30余名が三条河原で処刑された。遺体はその場で一緒に埋められ、畜生塚と呼ばれていたが、高瀬川を開削した角倉了以が1611年に石塔を発見し、秀次の法号に因んで慈舟山瑞泉寺を建てて菩提を弔った。甲斐庄が描くのは、処刑が決まった後の妻子たちの慟哭の姿だ。まだ20歳そこそこの若い彼がこの酷い事件をいかに感じていたかがよく伝わる。横長の画面に多人数を置いて強固な構成を形づくり、さらに個々の人物の顔をみな違うように描くには、並み大抵の技量では間に合わない。人物の顔や手足の表情など、おそらくロダンの群像彫刻に匹敵するほどの素描の吟味を重ねたと思うが、長い身体に比べて頭部がかなり小さく描かれていることで異様さはさらに増しており、そうした極端なデフォルメによって、より劇的な雰囲気を高めようとしたのであろう。しかし、そのあまりにドラマティックな場面は絵ではなかなか収まり切らないものであり、未完に残されたのも納得出来るうえ、彼が晩年に映画の世界に入ったのもまた理解が出来そうな気がする。甲斐庄はもう1点「悪女菩薩」という1924年に描かれた彼特有の画風の作品もあった。部屋左奥は全和凰(1909-1993)の「ある日の夢(銃殺)」がかかっていた。氏の仏像作品はよく見る機会があるが、これは珍しい。1950年作で、3.1独立運動をテーマにしている。氏は1935年に西田天香の「懺悔の生活」を読んで出家し、39年に天香の共同体である一燈園に入園、翌年から須田国太郎に師事した。作風が須田風であるのはそんな理由もある。関雪の「両面愛染明王下絵」(1939年)は、聖戦記念画内示展出品作の下絵で、画面上部に愛染明王、下部は地面に伏して機関銃を撃つ兵士たちを描く。どんな本画が完成したのか知らないが、こういう絵をどういう思いで描いたのか、関雪に聞いてみたい気がする。どこからも聖戦の様子は伝わらないし、戦争賛美なのか反対なのかも見えない。また、絵としても見るべきものは何もない。溪仙がこういう絵を描かされる前に亡くなってことを喜びたい。
 次の部屋は2「修羅に生きるものの世界」だ。河鍋暁斎(1831-1829)は「卒塔婆小町」「九相図」、それに「日蓮尊者地獄にて母の苦現を見てなげく」の3点が並んでいた。「九相図」は滋賀坂本の聖衆来迎寺が誇る国宝『六道絵』のうち「人道不浄相」を、もっと整理して横長の巻物に描き直したものと言ってよい。こうした絵に強い関心を持っていた暁斎はやはり幕末の人で、絵の技術は空前の境地に達する一方で、破壊的なものに憧れを抱き、地獄の淵に立ってその深遠を覗き込みたかったかのような際どい性質が見える。「日蓮尊者地獄にて…」(1885年以前)は、虫眼鏡を用いて見ればよいような20センチ四方程度の細密画で、母の周りのあちこちに焦熱地獄、黒縄地獄、衆合地獄、阿鼻地獄という文字を書き込んで地獄を説明し、仏画や「六道絵」などの宗教画に関心が深かった様子がわかる。吉川観方の「夕風(お菊)」(1948年)は色気のあるキモノ姿の女性像だが、足がなくて幽霊であることがわかる。暁斎のように激しくはないが、同じようなあっちの世界を愛好していたと言ってよい。里見勝蔵の「不動像」(1944年)は里見のよさがよく出た絵で、荒々しいタッチではなくて好感が持てた。次のコーナー3「救済と尊厳としての菩薩の世界」には、最初に書いた石川晴彦の作品、そして珍しく都路華香(1871-1931)の「初祖菩提達磨図」と特別出品の「観世音菩薩」があって嬉しかった。この後に田村宗立(1846-1918)の「観音像」、福田次彦(紀斎)(生没年不詳)の「魚藍観音」、光宗幸造(鳳郷)(生没年不詳)の「半偈捨身」といった掛軸作品が続いた。生没年不詳とは、つまり資料が残っていないためだ。絵は卒業制作として描かれたもので、学校に残されていたのだろう。戦争で亡くなったか、あるいは絵を諦めたかもしれない。どちらにしても、無名同然の画家の絵を並べることで、戦争の存在を際立たせており、この展覧会が戦争を挟んで前後の時期の絵を扱っていることとつながって、修羅と菩薩という言葉の意味合いがまた違って見えて来そうな気がした。
 最後のコーナー4「彼岸の世界や、そして彼岸より」は、彼岸を感じさせる平和な内容のものが並んでいた。北脇昇の「春に合掌す」(1942年)は戦後すぐ、そして晩年の作で、彼が幸福な気分に満ちていたことをうかがわせる。だが、絵は奈良の仏像と花畑を上下に、あたかもカレンダー写真を合成したように描き、うすっぺらいものに思えて感心しなかった。しかし、本人にとっては本当に新しい時代が訪れて合掌したいような気分であったのだろう。戦後に奈良の都がそのまま残ったことにも感謝の気持ちがあったのかもしれない。絵は描かれた年代を見ることも大切だ。そのことで理解が深く及ぶことが多い。次に、丸岡比呂史は知らない名前だが、「母と子」(1920年)は甲斐庄に似たタッチで、影響関係を感じさせた。中村正義(1924-1997)は個性的な絵で有名で、どこか精神を病んでいるように見えるその作風は、日本版キルヒナーをいつも思い起こさせる。「佛」(1957年頃)という小品が1点出ていた。入江波光の有名な「彼岸」(1920年)、栖鳳の「散華」(1910年)というお馴染みの名画に混じって、寺松国太郎(1876-1943)の日本人が描いたとは思えない油彩画「天使」があった。彼は一時浅井忠の指導を受けたというが、それが納得出来そうな直径58センチの丸い絵だ。牧島如鳩(1892-1975)は、1907年に神田駿河台のニコライ神学校に入学してイコンを描くことを修得した後、各地の教会や寺で作品を描いたそうだが、「恵」(1966年)という1点が出ていた。このような、まだまだ今後に評価されるべき画家の作品が混じっていたことが楽しかった。よく知っている画家の名作ばかりでは面白くない。このことは先月大阪で見た『旅する”エキゾチシズム”』と共通する。ところで、チラシには向井久万の「立像」の図版がある。これがどこに展示されていたのかあまり記憶が定かではない。会期がほぼ3か月と長いので、途中で展示替えがあったのだろうか。あるいは、菊池契月の「赤童子」の前では驚嘆のあまり、かなりの時間見入ったが、その近くにあったのを見落としたかだ。そそっかしいので、たまに作品を見落とすことがある。忙殺されている割には菩薩にはなれるはずもなく、まだまだシュラシュッシュッシューと行く修羅だ。
by uuuzen | 2005-12-16 23:51 | ●展覧会SOON評SO ON
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