切り傷は珍しくないが、いつも予期しない時に起きるので多少はうろたえる。先週金曜日つまり3日前に筆者は錆びた鋸で左手の親指の付け根辺りを切ってしまった。
その日は裏庭の雑草が気になって抜いたが、数か月前に伐採してそのままになっていた枯れ枝を長さ50センチほどに切り揃えることもした。去年秋から、月1回京都市は家庭の枯木を無料で運んでくれることになって、そのためには50センチ以上の長さでは具合が悪いからだ。伐採してすぐでは枝に水分が多いので鋸で切りにくいが、数か月もすると脆くなって作業がはかどる。そう思って切った枝を溜め込んでいた。中には名前の知らない茸が生えて簡単に折れるようになっている枝もあるが、乾燥して逆に硬くなった木もある。そういう場合は錆びた鋸では歯が食い込みにくい。それで危ないなと思いながら作業し、また右手は軍手を嵌めたが、太さ5センチほどの枯木の半分ほどに鋸の歯が食い込んだところ、なかなかそれ以上進みにくいので、一旦鋸を外し、木を裏返して新たに歯を入れることにした。だが、硬い木なので鋸はすぐに食い込まず、ふとした拍子に左に飛んで、木を押さえていた筆者の左手を引いてしまった。その瞬間、皮膚がぱっくりと割れるのを目撃した。深さ5ミリはある。すぐに右手で傷口を押え、水洗いした後、バンドエイドで覆った。ずっと押さえたままで血はあまり吹き出ず、傷口に薬を塗ることもなく、バンドエイドを何度か取り代えただけであった。左手にも軍手を嵌めておけば傷はもっと浅かったと思うが、安易に考えたのがいけなかった。左手なのでパソコンのキーは叩くことが出来るが、金曜日は風風の湯に行くと決めていたので、傷口を濡らさないようにするのがかなり面倒であった。いつになれば傷口は塞がるかなどと考えながら、ま、3日もあれば大丈夫ではないか。昨夜傷口を見るとまだ塞がっておらず、ぱっくりと抉れたようになっていたが、今夜はもうかなりそうではなくなって見える。だが、湯船に漬けるのはまだ早いだろう。自分の不注意による怪我で、誰に文句を言うことも出来ないが、ひとつは所有する2本の鋸がどちらもほとんど用をなさないほどに歯が錆びていて、新しい鋸を入手せねばと先日から思っていた矢先の出来事で、虫の知らせはあったと言える。毎年1月下旬から節分が少し過ぎ頃までの間に裏庭の合歓木の枝を切ることにしていて、去年は鋸を自治会のFさんから借りた。それは自治会で買ったもので、地蔵盆の必要な竹を切るくらいしか出番がない。4500円ほどのものだが、さほど大きくもなく、鋸は予想以上に高い。それでその鋸を今年も借りればいいようなものだが、自治会の所有物を個人が使うのはやはりよくない。それで1本買わねばと思っていた。新品の鋸なら、筆者は左手を怪我することもなかったはずで、切れ味のよくない刃物はなるべく使わないに限る。
筆者が10代の頃までは近所に目立て屋があった。大きな看板の鋸の絵は、歯が鮫のようにぎざぎざになっていたが、ガラス戸の向こうでおじさんが鋸の歯を細いやすりで磨いていた。理屈は簡単で、筆者にもすぐに出来ると思ったが、そういうやすりはもう入手出来ないかもしれない。あっても新品の鋸を買う方が手間がかからず、安上がりだろう。それで鋸は錆びれば捨てるという使い捨てとなったのではないか。ホームセンターで売られているようなものはみんなそうだろう。太くても直径10センチほどの木を切ることしかない筆者は、大工が持つような両刃の大きなものは必要がない。だが、材質が昔とは違うのか、前述のように小刀程度のものでもホームセンターで4000円以上していて、せめてその半額ほどで買えないかとケチなことを思っていた。さて、話は変わるが、鋸で手を切る前日かその前の日か、筆者はあることを思い出した。昔よく京都市中央図書館に通ったが、奥の調べ物をする静かな部屋のカウンターにふたりの若い司書がいて、彼女たちは日によって交代するのか、3、4人いたと思う。また、市内の別の図書館に移動もしたようで、筆者がよく覚えているのはふたりだ。司書はもともと物静かだが、ふたりのうちのひとりはほとんど話さないという感じの美人であった。20代半ばであったと思うが、目を合わしたことはなく、また彼女は何となくそれを避けているようなところがあった。筆者は必要な本を司書に書庫から出してもらったが、どちらの女性に頼んでもいいわけで、またそのことを気にしなかったが、物静かな美女の左手がいつもぶらりとしていることに気づいた。また手首が作り物であることもすぐにわかった。どうも肩から義手のようで、ぶらりとしている。その彼女が右手だけで器用に本棚から分厚い本を取り出して目指すページを繰る姿は、どこか感動的でもあった。彼女が左手を失ったのはいつのことで、また何が原因かはもちろん知らないが、右手だけでも仕事に支障はなく、司書という静かな職務をもうひりの女性に劣らずこなしていた。だが、奥の調べ物室というほとんど人が入って来ない場所で、それは上司が慮ったのであろう。先月久しぶりにその部屋を訪れると、中高年で満席で、数十の席はみんな埋まっていた。暇な中高年が暖かい部屋で居眠りをするのはちょうどいいとばかりに押し寄せているようで、時代は変わった。左手のない彼女が今もどこかの図書館にいるのか、あるいは結婚したのか、筆者は後者であってほしいと思う。その彼女のことを思い出した理由は自分でもわからないが、その後に鋸で左手を切ったので、虫の知らせと言えばいいのか、予感があったかなと思う。
鋸をどうして入手しようかと思ってネット・オークションを見ると、大工が使う立派な両刃のものが4本で1000円から出品されているのを見た。数千円にはなるかもしれず、また送料がかかるから、入札はしないが、筆者がほしいのは新品で安価なものだ。だが、まだ急ぐことはなく、2,3週間以内に入手すればよい。そんなことを思いながら、今日は家内と松尾大社の月一度開催される亀の市に出かけた。数年前に筆者は一度行ったことがあるが、天神さんや弘法さんのようながらくたを売る露店は10軒ほどと、あまりにもこじんまりした規模で、それで興味を失った。そこに行くのであれば、いっそのこと天神さんの縁日に出かけた方がよい。だが、家内は数日前から亀の市の話を何度かした。家内は行ったことがないのだ。家内に来る年賀状の中に梅津に住む知り合いからのものがあり、毎月亀の市に出かけるので、一度そこで会った後、近くの喫茶店で会いましょうといったことが書かれていた。会うにはどちらかが電話でもして待ち合わせをしなければならないが、そこまでして会おうという気は相手にはなさそうだ。ともかく家内はどういう市なのか一度見たいというので、昼前にふたりで徒歩で向かった。人数も少なく、相変わらずの露店の数で、また筆者がほしそうなものは皆無だが、ぐるりと回った最後の店で新品の鋸を何本か見つけた、1500円や1800円で、ホームセンターで買うよりは安いが、10年以上も前の商品だ。ふと見ると、さらに古い新品の鋸があった。ラベルは色褪せ、またビニール袋に黒のマジックインクで値が書かれていない。そこで目の前にいる70歳くらいのおじさんに訊ねた。300円。これは安い。その鋸は、TVで昔からよく宣伝している枝切り鋏の先端に取りつけるもので、専用の取りつけ金具や、またその枝切り鋏が必要だ。だが、それと全く同じ枝切り鋏を自治会のFさんから3年ほど前に借りたことがある。Fさんは鋸は紛失したようで、また枝切り鋏も錆びついて、借りたものの、全く役に立たず、筆者はその枝切り鋏の先端の枝切り用の鋏を取り外して、所有する折り畳み用の鋸をロープでぐるぐる巻きにして固定し、そして合歓木の枝を切った。つまり、専用の取りつけ金具がなくても、また枝切り用のその長い持ち手がなくても、鋸を細長い棒に固定すれば充分用を果たす。またそのための長い棒として、去年はFさんから充分枯れて軽くなった竹を1本借りたままにしている。長さが3、4メートルあって、充分に合歓木の遠い枝まで届くのだ。その竹の先端に取りつければいい。全く予期せぬ場所で新品の鋸が300円で買えた。そしてこれに関してはさっぱり虫の知らせのようなものがなく、虫の知らせとは悪い出来事の場合だけにあることを実感した。