道また夢を見た。こう書くのは本当は間違っている。目覚めた時にすぐに忘れてしまっているだけで、夢は毎日見ているはずだ。
目覚めた時の状態によって夢がよく記憶される場合とそうでない場合があるように思う。突然起こされたりするとその直前まで見ていた夢は記憶されやすい気がする。そして今朝はまだうす暗い時に目が覚めた。すぐにまた眠りに入ったが、その前に枕元に置いてあるメモ用紙と小さな鉛筆を探り当て、真っ暗な中で夢の内容をメモした。字は見えないから、後で確認した時に判読出来ないに違いないが、何も書かないよりかは記憶するにはよいと考えた。それで、今手元にそのメモを見ながら思うのは、書いた時点で夢を反芻して記憶し直したため、メモがなくても同じ程度に夢内容を記憶していることだ。このことは重要なことを認識させてくれる。書くという直接の行為の前に書く内容を頭の中で思い浮かべて整理すれば、それだけで充分にひとつの形となって記憶されるのではということだ。だが、人間は忘れやすいので、思い浮かべたことは字にしておくに越したことはない。数日ならまだしも、数週間も経てば、メモしておかなくてはほとんど忘れてしまうに違いない。毎日続けているこのブログでは、日を置くことがあまりないので、メモがなくてもそこそこ詳しく記憶しているが、これは特殊なケースと言うべきだ。それはいいとして、書かれた内容は、それ自体が独立して閉じた、あたかもモノとみなしてよい存在であり、頭の中で思っていることとは決定的に異なるものと言ってよい。思考を人間は大半は文字で行なうが、文字を知らない人でも思考はあるから、思考と書かれたものとは同じではない。思考の中には文字では完全再現出来ないイメージも多く含まれるからだ。そのイメージを文字にすることは、人によって選ぶ言葉や表現が違い、必ずしもその人が思っているとおりに他人に伝わることはない。むしろそうでない場合の方が多い。また、イメージを絵に描いてもそれはまた違う何かに変質する。したがって、この「夢千夜日記」の内容も、自分は後で読み返せば夢と同じ映像を思い浮かべることは出来るが、他人はそうではないし、絵をふんだんに用いてもどうせ同じことだ。他人は筆者とは違うイメージを想起するはずで、それでは困るかと言えば、そうとは言えない。文章は読む人によって思い浮かべる内容が違うのは仕方のないことであるし、またそれだからいい面もある。文学は後者に信頼を置いた行為で、あえて曖昧に書くことで、読み手をあるイメージ想起の場に向かわせようとする。これもいいとして、筆者が言いたいのは、「夢千夜日記」も書かれたものである点で、モノとしてのある形を得ており、文学のひとつとも言えるということだ。夢は誰しも見る。だが、それを自分の中に収めているだけでは、モノではない。文章や絵にして初めて自分から離れた、独立した命を持つモノとなる。そして、そういうモノ化したものでしか人間は思いを伝達することしか出来ないと言ってよい文明を作り上げて来た。他人が読んで面白いかそうでないかは別にして、「夢千夜日記」は明らかにモノを作っていると言えるから、無駄な行為であるかどうかなどは考えなくてよい。『ここにモノがある』。それを誰かがどこにでも転がっている石と思って見向きもしないか、あるいは拾って帰ってたまには見直す価値のあるものと思うかは、筆者の関知しないところだ。何だかあたりまえのことを書いているが、さきほど急につげ義春の漫画に夢をそのまま題材にしたものがあったことを思い出し、それが妙に印象に残っているので、ひょっとすればこの「夢千夜日記」も他人に何らかの印象に深い、それが悪夢じみたものであったにせよ、イメージを喚起させるかもしれないと考えたのだ。さて、前置きはこの程度にして、夢の内容を。いつものように前半は大半が消えている。記憶している部分だけをつなぐ。
どこかの小さな、窓のない喫茶店に家内と入っている。壁は節目のたくさんある木が全体に貼りつめられ、テーブルも同じく木製だ。壁もテーブルもニスが塗ってあるのか、少し黄色くて光っている。ちっぽけな額に入った絵も2、3かかっていて、隅の木箱には雑誌が入っている。店は10人も入れないほど狭いが、どの席も塞がっている。筆者と家内は店の中央端の細長いふたり用のカウンターに向かい合わせに座っている。筆者の右側は、手を伸ばせばすぐに木の壁面だ。カウンターの幅は極端に狭く、20センチほどしかない。そのうえにはコーヒーの砂糖ポットなどが置かれている。家内と何やら話している最中にふと右の壁下に目をやると、コンピュータ・ゲーム機の操作盤のような形をしたうすい板状の物がぶら下がっている。高い椅子から下りて、それを間近で見る。そして両手でつかむ。表面中央両端には直径8ミリ程度のレンズがふたつついていて、その間にはがき大ほどの画面のような無地の場がある。周囲には安物の子ども用玩具にありがちのカラフルなイラストがある。レンズは小さいので中を覗くことは出来ないが、ふたつついているのはステレオ視するためのものであることを知る。3D効果で何か映像が結ばれてその器具上に見えるようなのだ。それで早速目を凝らすと、両方のレンズに拡大鏡で見るような大きさな字がぐらぐらとひとつふたつ見えるが、そんな断片的過ぎる情報では、とてもどこの何を表示しているかはわからない。なおも目を凝らすと、レンズの奥の別世界に突入した奇妙な気分になり、眼前に地図の全体が見える。だが、それは3D効果によって、ふたつのレンズの間の場所に見えているものであると思うようにしている。そして、神経を集中しないと、その映像は一瞬のうちにに焦点を結ばずにすっかりぼけてしまう。さらに地図の縮尺がたちまち大きく変わり、地図確認作業はとても不安定なため、自分が見たい場所の地図を見ることは到底出来ないと悟る。だが、次の瞬間、京都市内の地下鉄の路線図らしきものが映った。実は家内とふたりで今自分たちはどこに来ているのかわからなかったので、この路線図がほしいと思う。それで機器のあちこちを見ると、あるボタンを押すことで見た地図をプリント出来ることがわかる。それでもう一度路線図を映し出そうと試みるが、もうその画面がどうやっても現われず、知らない土地ばかりが表示される。家内はそれが不満でかなり腹立ち紛れに罵りの言葉を吐く。
家内とふたりで知らない道を歩いている。朝か夕方で、田舎だ。真っ直ぐに続く地道で、周りはのどかな雰囲気。誰も人は見えない。歩いてどうにか最寄りの駅まで行こうとしている。知らない土地なので、このまま道を真っ直ぐに行っても駅に辿り着けるかどうか自信はないが、車は走っておらず、歩くしか方法がない。しかし、すでに15キロほどは歩いた。もう疲れて、どうにか駅を探し当てねばと焦っている。すると校舎や体育館が見えるところに来た。黒い詰襟の学生服を着た男子生徒が2、3人道を掃除している。杓で水を撒いたり、ほうきで掃いたりだ。なかなか素朴で真面目な生徒たちだなと思う。ところが近づいてわかったが、撒いているのは水ではない。便所から汲んだ汚物だ。それに掃いているのはその汚物をさらに道全体に広げていて、清掃は反対のことをしているのだ。『えっ、ここは道と違うのかな。まさか自然農法の畑?』。さらに生徒に近づくと、道の起伏がたちまち激しくなり、撒かれた汚物はぐんぐんと起伏し、汚い泡をあちこちいっぱい立てている。振り返ると家内の姿はなく、汚物が背丈ほどまでに上昇し、すっかり道が見えなくなり、まるで洪水のように泡混じりの汚物がぴちゃぴちゃと激しく動いている。家内が溺れてしまったかと思って、さらに大声で叫ぶと、どうやら5、6メートル向こうで首だけ見せて大丈夫であることがわかる。次の瞬間、またふたりは間近にいて、汚泥は消えている。そして道の行く先を見ると、小学生の男子児童が笑顔で何人かいる。近くには中学校だけではなく、小学校もあるようだ。ふと気づくと、男子児童の中に筆者の息子がいるではないか。だが、まるで筆者たちに気づかない。あるいは、親であることを知らないかのようだ。無邪気に他の児童と遊び、すぐにみんなでわーっと言いながら道の向こうに消えて行った。さきほどの掃除をしていた生徒たちは相変わらず同じ格好でそのあたりにいるが、今度は真面目に道を掃いている。その中のひとりに声をかける。
「あのー、ここから一番近いバス停はどこにありますか?」「バス停はないですけど、電車の駅ならこの左手をずっと5分も行けば終点がありますよ。それでも500円しますけど。バスより高いですね」「あっ、そうですか。こんな近くに電車の駅があるのですか。もうだいぶ歩いて来たんですが、まだ同じほど歩く必要があるとばかり思っていました。それはよかったです。どうもありがとう」。こんな会話を交わした途端、すぐに目前に鉄道の路線図を含む地図が見える。さきほど喫茶店で見た地図表示の3D装置で見たのと同じ感覚だ。今度は焦点がしっかりと合って見える。それによると、筆者たちは大阪南部の泉州東端の田舎道を難波からかなり南下して来たことがわかる。今いるのは金剛山西麓あたりだ。家に帰るには、とにかくすぐにまた大阪市内にまず戻らねばならない。先ほど生徒が教えてくれた最寄りの駅は確かに地図上に見えていて、駅名はわからないが、路線の終点であることはわかる。自分たちがいる現在地近くには「文」の地図記号が3、4個密集して見えている。『そうか、それで中学生や小学生がいたんだな』と思う。早速地道を左に外れて低い土手を下り、そのまま校内の敷地に入って人気のない校舎や教室を早足でいくつも横切る。すぐに田舎のさびれた商店街のようなところに辿り着く。終着駅がもうそこにあるという安心感のため、また喫茶店らしきところに入る。今度は先ほどとは違ってうす暗い。家内がココア色した木片の固まりを店の中で見つける。それは木片を組み合わせて立方体にするゲームなのだ。完成すれば一辺が15センチ程度の大きさになる。どの木片にも他の木片と組み合わせる爪楊枝ほどのベージュ色の太さの出っ張りが中央にひとつあって、それを他の木片の穴に差し込んで立体を作る仕組みになっている。木片は縦方向に木目がかなり強く出ていて、表面はそのために凸凹が強い。どこかビスケットに見たような筋目だ。木片両端は木をへし折った時に出来るのと同じようなトゲトゲがいっぱい出来た状態で、とてもそんな形では完全な立方体は作れないと思うが、家内はまたたく間に大半を組み立て、おろおろしている筆者を小馬鹿にする。それでも家内がやってくれたおかげで、木片は全部で4個ほどの固まりになっていて、それならもうほとんど完成同然だ。それらを手にして立方体を組み立て始めるが、立方体中心に直径5ミリ程度の細い鉛筆を挟むと完全でしっかりと組み立てられることを知る。そしてその鉛筆とは、筆者が常時携帯している、青いプラスティック製の軸先に鉛筆の芯だけついた、よくアンケートの際に無料でもらえるものなのだ。それを用いてそっと木片内部に挟み込んで閉じれば、キューブが出来上がるらしいことを確認するが、すっかり閉じてしまうと、パチッと固定されてしまってまた開けることは出来ないようなので、完成はさせず、そのまま4、5個の木片のままに置く。そこで目が覚めた。
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また鉄道に関する夢だ。それに見知らぬ場所や商店街を歩く。筆者の夢はよほど画一的であることがよくわかる。地図が表示される小型の機器やとげとげしい木片を組み合わせるゲーム玩具は、細部がとてもリアルで、まるで実物が本当に存在するかのようだ。夢の中で、こうしたモノの細部の印象がとても強いことは多い。夢のひとつの大きな特徴はこの細部がしっかり見えることで、それが全体のぼんやりした曖昧な部分とはかなり対照的であるために、夢はなおさら奇妙な印象がまとわりつき、記憶もされやすい。この細部の克明さとぼんやりした曖昧な描写とうまく混ぜれば、夢のような小説を書く場合に大いに役立つ気がする。地図には思い当たることがある。ヤフーのサービスで地図表示がある。最近、その地図が航空写真表示に切り換えられることになった。まだ日本全域では無理だが、大都市は通常の地図から自在にそのままの縮尺の航空写真に表示変え出来る。その機能を使用しるには、WINDOWS95では無理だが、3日ほど前、筆者のWIN95でも、速度は遅いがどうにか表示出来た。自宅や息子が運転する自動車まで見えた。それが面白かったので、身内の家をいくつか調べた。だが、その途中でパソコンに負担がかかったのか、フリーズしてしまった。やはりWIN95では無理なのだろう。この経験がかなり今朝の夢には影響していると思う。